平塚明(はる、らいてう)は、明治36年3月、お茶の水女学校を卒業し、
4月、日本女子大学校家政科に入学する。
井上秀は、英文科への入学を目指していたが、成瀬仁蔵に勧められ、
不承不承、家政科に入学したという。
一方、らいてうは、「英文科ではいけないが、家政科ならば、、」という
条件つきで、父親から入学許可が得られたという。
ちなみに、らいてうの姉・孝(たか)は一歳年上で、お茶の水女学校を卒業していたが、
文学少女で、「国文科ならば入ってもいい」ということで、一年遅れで女子大学校に入学した。
しかし病弱で中途退学を余儀なくされている。
浅子は、明治29年、47歳のとき、成瀬仁蔵の『女子教育』を読んで感動したというが、
らいてうはお茶の水女学校在学中、16歳前後で、成瀬の『女子教育』を読み、感動したという。
後年、次のように述べている。
「それはまったく新しい女子教育論でしたから、お茶の水の官学的な押しつけ教育に
息づまるような思いでいた、当時のわたくしの心をつかまないはずはありません。
わたくしは少しも迷うことなく、友だちにも、姉にも、母にも相談せず、女子大に入ろうと
自分ひとりできめこんだのでした」
成瀬は、ここで、47歳の浅子と16歳のらいてうという最良の読者、最良の女子教育の
理解者を得たことになろう。
らいてうは三回生で、家政科一回生の井上秀、国文科一回生の小橋三四は先輩にあたり、
在学中であった。
長沼智恵子(のちに高村光太郎と結婚)とらいてうは明治19年生まれの同年であるが、
智恵子は明治36年、予科に入学、翌年、家政科へ進学したので、らいてうの一期後輩にあたる。
らいてうと智恵子は、家政科の講義にはあまり熱心でなく、テニスコートで、毎日球を
打ち合ったという。「らいてう自伝」によると
「この長沼さんは、後に高村光太郎夫人となり、「智恵子抄」で名を知られた人ですが、
下ばかり見ていて、ひとの顔をまともに見ることが出来ず、言葉もはっきりしないような
内気なこのひとが、ネットすれすれの強い球を、矢つぎ早やに打ちこんでくるのには
悩まされました。もちろんサーブもすごいものでした。一体この人のどこからあんな力が
出るのだろうと不思議でなりませんでしたが、わたくしも無口、あちらも無口なので、
一度も話し合うようなこともなく、けっきょく、女子大では、テニスコートの中だけの
つきあいに終わりました。、、、長沼さんについては後に「青鞜」のところでまたふれるはずです」
当時の、日本で最初の私立女子大生は、多種多彩で、「おばさん」もいたようである
おなじく「らいてう自伝」によると、
「この時分の女子大生には、何年か小学校の先生をしてきた人とか、未亡人、現に家庭を
もちながら入学してきた人などもいて、なかには「小母さん」と呼んでいいような、中年の
婦人もいました」と述べている。
井上秀は、まさにこの「現に家庭をもちながら入学してきた人」の一人であろう。
らいてうは、秀について次のように述べている。
「のちに校長になった井上秀子さんは、家政科一回生として在学中で、リーダーとして
大いに活躍していました。もう相当なお年で、結婚もしている方だとききましたが、
どこから見てもやり手という感じの井上さんは、女性的な印象よりも中性的な印象の方がつよく、
いかにも歯切れよく切り口上で話をする人でした。」
秀とらいてうの共通点は、禅である。二人は、若いときに、それぞれに参禅し、見性を許されている。
秀は、京都高女を卒業後、大阪の浅子宅に身を寄せながら、京都へ行き、朱子学の鈴木無隠居士を
訪ね、師事、さらにその紹介で天竜寺の橋本峨山老師のもとで参禅している。
「広岡さんにすすめられて教会へゆきキリスト教の説教をきいたところ、「三位一体」といい、
「奇蹟」という、さあ、それで分からない」ので宿題として、峨山老師に「キリスト教の三位一体が
不可解、奇蹟ということが信じられないこと、又、漢文の「浩然ノ気」をわがものにしたいが方法が
分からなくて困っています」と指導を乞い、参禅、京都から通うのをやめ、天竜寺近くの竹薮の中の
尼寺へ泊まり、一ヶ月、二ヶ月、三ヶ月、半年近くこの公案にとっくみ、ついに見性を許されたという。
秀の禅への傾倒は、晩年まで続き、天龍寺の参禅仲間であった間宮英宗師(方廣寺管長)を後年、
軽井沢に招いている。
一方、らいてうも、最初、キリスト教に興味をもったようだ、女子大学校在学中、「日曜日になると、
黒い皮表紙の聖書をもって、せっせと教会に通い、、旧約の詩篇を愛誦、、暗誦していたほどです」
という。本郷教会に通い、海老名弾正牧師の説教などを聞いている。しかし「教会の空気というか、
クリスチャンのもつ雰囲気というか、それがどうもセンチで、わたしにぴったりしないのでした」という。
禅との出会いは、突然に訪れる。女子大の七寮の寮生(同級生)・木村政子の机の上にあった
和綴木版刷の禅書『禅海一瀾』との出会いである。「大道求于心。勿求于外。、、」(大道は心に
求めよ、外に求むるなかれ)という文字が目に入り、「わたしは息をのむ思いで、矢もたてもなく
この本を借りうけて帰りました」という。
同級生・政子は禅門に入り、すでに見性もし、慧浩という大姉号をもっていた。自宅通学者の
らうてうは、一時期、七寮(のちに春秋寮と改名)に入寮していたことがある。政子の案内で
日暮里の両忘庵に入門し、参禅、接心、暗い内に提灯をつけて両忘庵へ行き参禅を済ませてから
学校へ行ったという。坐が美しくなり、頭痛持ちが直り、疲れなくなったが、なかなか会得できず、
「老師に見性を許されたのは女子大卒業の年の夏で、慧薫という安名をいただきました」。
らいてうは「これはわたくしにとって第二の誕生でした。わたくしは生まれかわったのでした」という。
浅子は、明治44年クリスマス、大阪教会で宮川経輝牧師の司式により受洗している。
キリスト者として生まれ変わった自らを、浅子は「新生の浅子」「更正の浅子」と称している。
一方、らいてうは、参禅、接心を重ね、見性を許され、「わたくしは生まれかわったのでした」
といっている。一方はキリスト教、他方は禅を通じて、それぞれが生まれかわっている。
ところで、らいてうは、広岡浅子について、次のように述べている。
「ほかに不愉快なことで印象に残っている人に、関西の銀行屋、加島屋の当主夫人で、女の実業家
として当時知られていた広岡浅子という女傑がありました。学校の創立委員としてたいへん功績のあった人
ということですが、熱心のあまりでしょうが、ガミガミ学生を叱りつけるばかりか、校長にまで
ピンピン文句をつけたりします。ある日家政科の上級生に対して、実際生活に直接役に立たないような
空理空論は三文の値打ちもない、あなた方はもっと実際的であれというようなことを自分の手腕に
自信満々という態度で、押しつけがましく、いかにもせっかちそうにしゃべっているのを聞いてからは、
いっそういやな人だと思うようになり、とても学校の、また女子教育の恩人として、尊敬したり、
感謝したりするような気になれないのでした」
らいてうは、浅子と秀に対してだけ否定的な評価を下しているわけではまったくない。
「らいてう自伝」を読んだ人ならば、誰でも、彼女がいわゆる権威や大物たちに反発や嫌悪の
感情を抱いていることに気付くだろう。父親にも反発している。実際、らいてう自身がみずからの
性向について次のように述べている。
「世間の権威というものに対して、尊敬する気持ちはおろか、むしろ反発を覚えるという性向は、
なにに由来し、いつごろからわたくしのなかに生じたものか、はっきりわかりませんが、女子大の
後援者、大隈伯その他のお歴々に、嫌悪に近いような感情をもっているのとどこか同じようなものが、
程度の差こそ大きく違うものの、父に対しても働いていたのはたしかなことでした。こうした権威に
対する反発の感情は、いまに至るまで、いえ、わたくしの生涯を通じておそらくつづくものでしょう。」
とくにらいてうが、浅子を「いやな人だ」といい、大隈重信を「傲慢な感じの爺さんで、横柄な口の
きき方で」というのは、この頃、女子大学校で来賓としてよく招かれ講話、講演などをしたのがこの両名で
あったことも関係している。目の前の権威に対して、辛辣に評するのがらいてうの性向でもあったように思える。
らいてうは、明治39年、女子大学校を卒業し、津田梅子が創立した女子英学塾(のちの津田塾大学)
に入学するが、津田梅子校長や河井道子についても辛辣に評している。
「そのころ津田先生はまだ四十二、三歳のお歳のはずですが、当時のわたくしの印象では、もう五十年配の、
ふけた感じで、気むずかしい一面のある方のように見えました。アメリカ留学から帰ったばかりという河井道子
先生はお若く。いつも洋装で、キビキビしていました。この先生の授業時間がだいぶありましたが、
へんな切り口上で、どうも純粋な日本語がしゃべれないようなおかしな発音です。会話の先生は女の外人
ばかりでした。授業は会話、暗誦、そして書き取りなどに時間の多くがとられ、使う教科書も内容のないもので、
興味をひくものは、何一つとしてありません。ごく狭い意味の語学教育に終始するというふうでした。
どの先生も教え方はきびしいので、学生はみんなよく勉強し、予習や宿題などを怠けることはできないのです。
自主的にたのしく学ぶというようなところはすこしもなく、この点、女子大などとはまったく違った雰囲気でした」
(「自伝」181-182頁)
河井道子は、明治45年9月、マクドナルド、津田梅子らにより推挙され、日本基督教女子青年会の日本人初の総幹事
に就任する。その後、昭和4年、河井は恵泉女学園を創立する。2015年7月7日の当ブログ「広岡浅子と日本基督教女子
青年会YWCA、そして津田梅子 明治45年」を参照。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/70/bc/772fc95383d9e30408c01354a0a58bca.jpg)
らいてう(右)、母(中央)、姉・孝(左)明治21、22年頃 『平塚らいてう自伝』(大月書店)より
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/49/ab/8756b3f1a9d7555198f4d2976407a10a.jpg)
お茶の水高等女学校1年生の頃 明治31年 前掲書より
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/09/d3/d4e48251b632c5d0907e096414adeaf6.jpg)
日本女子大学校2年生の頃、中央後列 明治37年 前掲書より
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/73/87/146ae50a4955cbf3de0930122f620620.jpg)
らいてう(前列)、木村政子(3列中央、長身の女性)前掲書より
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/37/72/aec3ea1b091f1f2462c4207c4abbb517.jpg)
らいてう(左)、長女曙生(中央)、夫・博史 大正5年 前掲書より
らいてう 大正7、8年頃 前掲書より
浅子は洋装が多く、秀も洋装が多かったが、両人より若いらいてうは戦後も着物が多く、それぞれに美学があったようだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/79/8d/bd3f691fbade4ba11a849d20c7776db6.jpg)
大正モダン時代のらいてう、モガ風でなかなかかっこよい 大正12年頃 前掲書より
らいてうが洋服に切り替えたのは、大正9年7月で、酷暑の中、新婦人協会の活動で
駆け歩いたためで、市川房枝も同夏、洋服に切り替えている。らいてうの洋装は
昭和14、5年頃まで続いた。
らいてうが断髪になったのは大正12年である。新婦人協会の活動による過労で頭痛に
悩むようになり、頭を揉んだり、冷やしたり温めたりするにも、髷があると邪魔で、
ついに断髪にしたという。夫の博史が鋏で入れてくれた。
煙草は、らいてうは女子大学卒業後、津田梅子の女子英学塾に入ってから、休み時間
に教室でわざと煙草を吸ったりしたという。みんなびっくりして、ただこちらをみて
いるばかりだったという(敷島、大和などの口つき紙巻煙草)。らいてうの喫煙は
晩年まで続いた。
一方、房枝は大正9年、洋装とともに吸い始めたという。
浅子の洋装は西洋伝来のクラシックな洋装であったが、らいてうの洋装は大正モダンの
自由で日本的な洋装である。ここにも時代や世代の異なりがみえる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/52/f2/75ae8bd5a1432af76fbafce41ade8ac1.jpg)
洋装のらいてうと房枝 大正9年7月 『市川房枝自伝』76頁
らいてうの姉・孝が家庭で洋裁を習っており、その洋裁の先生に依頼したらしい。
おそらく両名にとって最初の洋装になるのだろう。
時代が違うし、また暑い夏場のことではあるが、広岡浅子の洋装とはだいぶ違う。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2e/f7/81b42c000a35dff270d239180259864c.jpg)
婦人団体有志連合講演会で、大正9年7月18日、神田の明治会館、『市川房枝自伝』73頁
らいてう(右端)、房枝(左端)、両人にとって洋装での最初の講演会
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/10/22/edb1dea981e4638e3aba5f4a43f57a22.jpg)
無産婦人藝術聯盟の『婦人戦線』創刊号 前掲書より
有産婦人の浅子と無産婦人のらいてう、立場の異なりがある。
ただ、らいてうは生活的にはかなりリッチであった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/11/36/93f68d901bea7a77eab83916ab1873c3.jpg)
新婦人協会の機関誌『女性同盟』創刊号 大正9年10月9日 前掲書より
大正8年に死去した浅子は、年代的に『女性同盟』の創刊を知らない