成瀬仁蔵と高村光太郎

光太郎、チェレミシノフ、三井高修、広岡浅子

広岡浅子が好んで滞在した軽井沢の「三井三郎助別荘」見学ツアー

2016年03月31日 | 歴史・文化
 広岡浅子は、三井家の出身で、京都の出水三井(注1)、東京の小石川三井家(注2)が実家にあたる。
 8代当主の三郎助(高景)は、浅子の義弟にあたり、幼少時、京都出水で一緒に育った仲である。浅子と大人しい三郎助は相性がよかったらしく、長じてからも、浅子は好んで「愛弟」と称し、また三郎助と呼び捨てにしていた。
 三郎助が軽井沢に別荘を建てたのは、明治33年である。翌34年、東京では、三井家一門が提供した目白台の敷地に、女子大学校が創立される。
 三郎助別荘は、洋館と和館から成る別荘で、明治時代の別荘建築が失われていく中、現在では、明治期最古の「洋館・和館別荘」として現存している。当時の上層階級(財閥)の避暑の在り方を偲ぶことができる。
 浅子は、上京した際には、必ず小石川の安藤坂にある小石川三井家本邸に滞在し、夏には、軽井沢の三郎助別荘に好んで滞在することが多かった。
 当主である三郎助は、多忙のため、多くは利用できず、寿天夫人や子どもたち(高修・高達兄弟、多都雄・美佐雄姉妹)、そして浅子が利用することが多かった。
 とくに大阪教会の宮川経輝牧師と出会い、キリスト教の信仰に興味をもち、その後、救世軍の山室軍平と出会い、浅子は、聖書と『聖潔の栞』を携え、三郎助別荘に長期滞在し、祈りや瞑想にふける日々を送っている。
 今回、NHKの朝の連続ドラマ「あさが来た」ともからみ、ヒロイン・あさのモデルである広岡浅子が好んで滞在した「三郎助別荘」の見学ツアーが企画され、本年2016年4月下旬、開催される予定である。
 三郎助別荘の内部の様子などについては、『軽井沢ヴィネット』誌(本年4月中旬刊行予定)にカラー写真で詳しく掲載されている。

注1:京都の出水三井家については、「出水三井(京都本邸) 軽井沢の三郎助別荘のルーツ」と入力して参照
注2:東京本邸については、「浅子の実家・東京小石川三井家本邸 三郎助&高修の時代」と入力して参照










 

広岡浅子と御殿場 「新生の浅子」(1)軽井沢から御殿場へ

2016年03月30日 | 歴史・文化
 御殿場は、安中(村岡)花子や市川房枝らにとって新しい生き方を見つける機会と場になったが、同時に、まずなによりも浅子自身にとって実業界から転進する「新生」の場となった。明治から大正への改元にちなみ、浅子は、受洗後の自分を「新生の浅子」「更正の浅子」と称している。
 明治44年クリスマス、大阪教会で宮川経輝牧師の司式で受洗、これを機に、女子大学校から日本基督教女子青年会YWCAへ、また夏場の軸足が軽井沢の三井三郎助別荘から御殿場の広岡別邸へ移っていく。
 そのきっかけとしては、明治45年4月、「愛弟」と称し、また「三郎助」と呼び捨てにしていた相性のよい義弟・三井三郎助(小石川三井家8代当主)の死があり、他方で、成瀬仁蔵らが始めた「帰一協会」(思想団体)の活動などがあるだろう。
 明治45年7月23日(夕)ー31日(午前)、神奈川県横須賀大津村の旅館・勝男館において、日本基督教女子青年会YWCAの第7回夏期修養会が開催された。
 修養会は盛会で、来会者は総数で228名に及び、勝男館は狭隘となり、近傍の寺と百姓家に分宿する緊急措置がとられた。
 浅子は、行事初日の24日、「キリストの教訓と婦人問題」という講演を行い、翌25日、求道者懇話会では経験談を話している。
 浅子の師である宮川経輝は、28日・29日の二回にわたり「霊的修養」という講演を行い、同じく師である山室軍平は30日、「摂理」という講話を行っている。
 しかし7月30日、明治天皇が崩御、急遽、山室軍平の司会の下で奏悼の祈りが行われ、修養会は一日早く30日に終了、解散となった。
 浅子は、この修養会に金45円を寄付、外国人幹事のミス・マクドナルドと日本人総幹事・河井道子は各8円、井深花子は5円、津田梅子は2円を寄付しており、浅子の寄付が図抜けて大きいことがわかる。
 ちなみに前後するが、7月10日、帰一協会は、第1回例会を上野精養軒において開催している。出席者は13名であった。同会は、成瀬仁蔵が渋沢栄一、森村市左衛門、姉崎正治らとともに設立した思想団体で、もちろん浅子は、この団体に参加していない。
 明治天皇崩御の翌日、7月31日、東京小石川の三井高修邸(三郎助の子息、9代当主)では、講話会が行われ、浅子、成瀬仁蔵、宮川経輝らが一堂に会している。 
 その後、浅子は、軽井沢に向かい、故三井三郎助の別荘に滞在する。おそらく浅子は、今夏をもって軽井沢の滞在を最後とし、来夏から御殿場の広岡別邸へ拠点を移す心積もりがあったのではないだろうか。宮川経輝牧師や津荷輔牧師を三井別荘に招いている。
 8月12日、宮川経輝牧師は、浅子がいる三井別荘を訪れ、23日まで約10日間、滞在している。翌13日、大もみの樹のある丘に上り、また外国人宣教師(プロテスタント)のペッドレー、オルチン、ラーネッドと面会している。17日、碓氷峠、白糸の滝を見学、18日(聖日)、ユニオンチャーチのミサに出席、21日、津荷輔牧師と鬼押し出しを見学している。そして23日、軽井沢を後にし、24日、帰阪している。
 12月25日、宮川経輝は、自宅で家庭クリスマス祝会を催し、浅子ら4名が招かれ、大晦日には、浅子・亀子の母子に黙示録講解を行っている。多額の献金もする浅子が特別扱いであることがよくわかる。
 このようにみてくると、明治45年・大正元年は、浅子にとって、「新生の浅子」「更正の浅子」に転換する節目の年であったといえよう。
 明けて大正2年、浅子は、8月、御殿場で初めてキリスト教を学ぶ会を主宰し、「富士の高原二の岡に避暑し、若き十数名の姉妹と共に、敬愛する宮川(経輝)、津荷(輔)両牧師に就きて講演を聞く」ことになる。
 それに先立って、7月22日ー28日、日本基督教女子青年会の第8回夏期修養会が横須賀の勝男館で開催され、浅子は、24日、講演を行っている。22日には、山室軍平が講演を行っている。
 浅子は、もはや軽井沢に滞在しないが、一方、宮川経輝牧師は、世界宣教大会の準備協議会に出席するため、8月6日、軽井沢の老舗旅館つるやに宿泊している。そして植村正久や千葉勇五郎と面会し、宣教師サムエル・フルトンとともにマッケンジーを訪問している。7日、宣教師ニューエル邸でアメリカンボードの園遊会に出席した後、東京に向かい、角倉宅に宿泊している。
 そして8日、宮川は、東京から御殿場へ行き、「二岡神社社務所内の内海氏の離座敷に津荷輔と共に広岡浅子の客となった。同家には小橋、宮崎、木下、安中、千本木の五嬢も同宿し、広岡女史の指導を受けており、にぎやかであった」と記している。
 小橋は小橋三四子、安中は安中(村岡)花子、千本木は千本木道子のことであろう。この記録が正確であるならば、花子は、御殿場での研究会に最初から参加していたことになる。両牧師は社務所の離れ座敷に滞在し、花子ら五嬢は浅子の別邸で合宿していたことになろう。
 宮川経輝牧師は、20日まで滞在、講演をするかたわら、15日、芦ノ湖へ行き、小涌谷に宿泊、翌日、御殿場に戻り、18日、ワレン(英国聖公会宣教師)主催の宮川のための茶話会に出席し、宣教師たちと懇談している。
 翌大正3年においても、宮川経輝は、御殿場の広岡別邸で講演を行うが、ついで同志社の牧野虎次や日野真澄が講演や講義を担当することになる。
 これらの催しは、若い花子や房枝にとって、知的な刺激を与えることになったが、同時に、浅子にとって、宮川牧師とともに各地へ赴き、伝道講演をする起点となり、「新生の浅子」が次第に形づくられていくことになる。その過程を少し詳しくみていくことにしよう。






広岡浅子と井上秀、そして平塚らいてう

2016年03月12日 | 歴史・文化
平塚明(はる、らいてう)は、明治36年3月、お茶の水女学校を卒業し、
4月、日本女子大学校家政科に入学する。
 井上秀は、英文科への入学を目指していたが、成瀬仁蔵に勧められ、
不承不承、家政科に入学したという。
一方、らいてうは、「英文科ではいけないが、家政科ならば、、」という
条件つきで、父親から入学許可が得られたという。
ちなみに、らいてうの姉・孝(たか)は一歳年上で、お茶の水女学校を卒業していたが、
文学少女で、「国文科ならば入ってもいい」ということで、一年遅れで女子大学校に入学した。
しかし病弱で中途退学を余儀なくされている。
 浅子は、明治29年、47歳のとき、成瀬仁蔵の『女子教育』を読んで感動したというが、
らいてうはお茶の水女学校在学中、16歳前後で、成瀬の『女子教育』を読み、感動したという。
後年、次のように述べている。
 「それはまったく新しい女子教育論でしたから、お茶の水の官学的な押しつけ教育に
息づまるような思いでいた、当時のわたくしの心をつかまないはずはありません。
わたくしは少しも迷うことなく、友だちにも、姉にも、母にも相談せず、女子大に入ろうと
自分ひとりできめこんだのでした」
 成瀬は、ここで、47歳の浅子と16歳のらいてうという最良の読者、最良の女子教育の
理解者を得たことになろう。
 らいてうは三回生で、家政科一回生の井上秀、国文科一回生の小橋三四は先輩にあたり、
在学中であった。
長沼智恵子(のちに高村光太郎と結婚)とらいてうは明治19年生まれの同年であるが、
智恵子は明治36年、予科に入学、翌年、家政科へ進学したので、らいてうの一期後輩にあたる。
 らいてうと智恵子は、家政科の講義にはあまり熱心でなく、テニスコートで、毎日球を
打ち合ったという。「らいてう自伝」によると
 「この長沼さんは、後に高村光太郎夫人となり、「智恵子抄」で名を知られた人ですが、
下ばかり見ていて、ひとの顔をまともに見ることが出来ず、言葉もはっきりしないような
内気なこのひとが、ネットすれすれの強い球を、矢つぎ早やに打ちこんでくるのには
悩まされました。もちろんサーブもすごいものでした。一体この人のどこからあんな力が
出るのだろうと不思議でなりませんでしたが、わたくしも無口、あちらも無口なので、
一度も話し合うようなこともなく、けっきょく、女子大では、テニスコートの中だけの
つきあいに終わりました。、、、長沼さんについては後に「青鞜」のところでまたふれるはずです」
 当時の、日本で最初の私立女子大生は、多種多彩で、「おばさん」もいたようである
おなじく「らいてう自伝」によると、
 「この時分の女子大生には、何年か小学校の先生をしてきた人とか、未亡人、現に家庭を
もちながら入学してきた人などもいて、なかには「小母さん」と呼んでいいような、中年の
婦人もいました」と述べている。
 井上秀は、まさにこの「現に家庭をもちながら入学してきた人」の一人であろう。
らいてうは、秀について次のように述べている。
「のちに校長になった井上秀子さんは、家政科一回生として在学中で、リーダーとして
大いに活躍していました。もう相当なお年で、結婚もしている方だとききましたが、
どこから見てもやり手という感じの井上さんは、女性的な印象よりも中性的な印象の方がつよく、
いかにも歯切れよく切り口上で話をする人でした。」
 秀とらいてうの共通点は、禅である。二人は、若いときに、それぞれに参禅し、見性を許されている。
 秀は、京都高女を卒業後、大阪の浅子宅に身を寄せながら、京都へ行き、朱子学の鈴木無隠居士を
訪ね、師事、さらにその紹介で天竜寺の橋本峨山老師のもとで参禅している。
 「広岡さんにすすめられて教会へゆきキリスト教の説教をきいたところ、「三位一体」といい、
「奇蹟」という、さあ、それで分からない」ので宿題として、峨山老師に「キリスト教の三位一体が
不可解、奇蹟ということが信じられないこと、又、漢文の「浩然ノ気」をわがものにしたいが方法が
分からなくて困っています」と指導を乞い、参禅、京都から通うのをやめ、天竜寺近くの竹薮の中の
尼寺へ泊まり、一ヶ月、二ヶ月、三ヶ月、半年近くこの公案にとっくみ、ついに見性を許されたという。
 秀の禅への傾倒は、晩年まで続き、天龍寺の参禅仲間であった間宮英宗師(方廣寺管長)を後年、
軽井沢に招いている。  
 一方、らいてうも、最初、キリスト教に興味をもったようだ、女子大学校在学中、「日曜日になると、
黒い皮表紙の聖書をもって、せっせと教会に通い、、旧約の詩篇を愛誦、、暗誦していたほどです」
という。本郷教会に通い、海老名弾正牧師の説教などを聞いている。しかし「教会の空気というか、
クリスチャンのもつ雰囲気というか、それがどうもセンチで、わたしにぴったりしないのでした」という。
 禅との出会いは、突然に訪れる。女子大の七寮の寮生(同級生)・木村政子の机の上にあった
和綴木版刷の禅書『禅海一瀾』との出会いである。「大道求于心。勿求于外。、、」(大道は心に
求めよ、外に求むるなかれ)という文字が目に入り、「わたしは息をのむ思いで、矢もたてもなく
この本を借りうけて帰りました」という。
 同級生・政子は禅門に入り、すでに見性もし、慧浩という大姉号をもっていた。自宅通学者の
らうてうは、一時期、七寮(のちに春秋寮と改名)に入寮していたことがある。政子の案内で
日暮里の両忘庵に入門し、参禅、接心、暗い内に提灯をつけて両忘庵へ行き参禅を済ませてから
学校へ行ったという。坐が美しくなり、頭痛持ちが直り、疲れなくなったが、なかなか会得できず、
「老師に見性を許されたのは女子大卒業の年の夏で、慧薫という安名をいただきました」。
らいてうは「これはわたくしにとって第二の誕生でした。わたくしは生まれかわったのでした」という。
 浅子は、明治44年クリスマス、大阪教会で宮川経輝牧師の司式により受洗している。
キリスト者として生まれ変わった自らを、浅子は「新生の浅子」「更正の浅子」と称している。
一方、らいてうは、参禅、接心を重ね、見性を許され、「わたくしは生まれかわったのでした」
といっている。一方はキリスト教、他方は禅を通じて、それぞれが生まれかわっている。
 ところで、らいてうは、広岡浅子について、次のように述べている。
「ほかに不愉快なことで印象に残っている人に、関西の銀行屋、加島屋の当主夫人で、女の実業家
として当時知られていた広岡浅子という女傑がありました。学校の創立委員としてたいへん功績のあった人
ということですが、熱心のあまりでしょうが、ガミガミ学生を叱りつけるばかりか、校長にまで
ピンピン文句をつけたりします。ある日家政科の上級生に対して、実際生活に直接役に立たないような
空理空論は三文の値打ちもない、あなた方はもっと実際的であれというようなことを自分の手腕に
自信満々という態度で、押しつけがましく、いかにもせっかちそうにしゃべっているのを聞いてからは、
いっそういやな人だと思うようになり、とても学校の、また女子教育の恩人として、尊敬したり、
感謝したりするような気になれないのでした」
らいてうは、浅子と秀に対してだけ否定的な評価を下しているわけではまったくない。
 「らいてう自伝」を読んだ人ならば、誰でも、彼女がいわゆる権威や大物たちに反発や嫌悪の
感情を抱いていることに気付くだろう。父親にも反発している。実際、らいてう自身がみずからの
性向について次のように述べている。
「世間の権威というものに対して、尊敬する気持ちはおろか、むしろ反発を覚えるという性向は、
なにに由来し、いつごろからわたくしのなかに生じたものか、はっきりわかりませんが、女子大の
後援者、大隈伯その他のお歴々に、嫌悪に近いような感情をもっているのとどこか同じようなものが、
程度の差こそ大きく違うものの、父に対しても働いていたのはたしかなことでした。こうした権威に
対する反発の感情は、いまに至るまで、いえ、わたくしの生涯を通じておそらくつづくものでしょう。」
 とくにらいてうが、浅子を「いやな人だ」といい、大隈重信を「傲慢な感じの爺さんで、横柄な口の
きき方で」というのは、この頃、女子大学校で来賓としてよく招かれ講話、講演などをしたのがこの両名で
あったことも関係している。目の前の権威に対して、辛辣に評するのがらいてうの性向でもあったように思える。
 らいてうは、明治39年、女子大学校を卒業し、津田梅子が創立した女子英学塾(のちの津田塾大学)
に入学するが、津田梅子校長や河井道子についても辛辣に評している。
 「そのころ津田先生はまだ四十二、三歳のお歳のはずですが、当時のわたくしの印象では、もう五十年配の、
ふけた感じで、気むずかしい一面のある方のように見えました。アメリカ留学から帰ったばかりという河井道子
先生はお若く。いつも洋装で、キビキビしていました。この先生の授業時間がだいぶありましたが、
へんな切り口上で、どうも純粋な日本語がしゃべれないようなおかしな発音です。会話の先生は女の外人
ばかりでした。授業は会話、暗誦、そして書き取りなどに時間の多くがとられ、使う教科書も内容のないもので、
興味をひくものは、何一つとしてありません。ごく狭い意味の語学教育に終始するというふうでした。
どの先生も教え方はきびしいので、学生はみんなよく勉強し、予習や宿題などを怠けることはできないのです。
自主的にたのしく学ぶというようなところはすこしもなく、この点、女子大などとはまったく違った雰囲気でした」
(「自伝」181-182頁)
 河井道子は、明治45年9月、マクドナルド、津田梅子らにより推挙され、日本基督教女子青年会の日本人初の総幹事
に就任する。その後、昭和4年、河井は恵泉女学園を創立する。2015年7月7日の当ブログ「広岡浅子と日本基督教女子
青年会YWCA、そして津田梅子 明治45年」を参照。


らいてう(右)、母(中央)、姉・孝(左)明治21、22年頃 『平塚らいてう自伝』(大月書店)より


お茶の水高等女学校1年生の頃 明治31年 前掲書より


日本女子大学校2年生の頃、中央後列 明治37年 前掲書より


らいてう(前列)、木村政子(3列中央、長身の女性)前掲書より


らいてう(左)、長女曙生(中央)、夫・博史 大正5年 前掲書より

 
らいてう 大正7、8年頃 前掲書より
浅子は洋装が多く、秀も洋装が多かったが、両人より若いらいてうは戦後も着物が多く、それぞれに美学があったようだ。


大正モダン時代のらいてう、モガ風でなかなかかっこよい 大正12年頃 前掲書より
らいてうが洋服に切り替えたのは、大正9年7月で、酷暑の中、新婦人協会の活動で
駆け歩いたためで、市川房枝も同夏、洋服に切り替えている。らいてうの洋装は
昭和14、5年頃まで続いた。
らいてうが断髪になったのは大正12年である。新婦人協会の活動による過労で頭痛に
悩むようになり、頭を揉んだり、冷やしたり温めたりするにも、髷があると邪魔で、
ついに断髪にしたという。夫の博史が鋏で入れてくれた。
煙草は、らいてうは女子大学卒業後、津田梅子の女子英学塾に入ってから、休み時間
に教室でわざと煙草を吸ったりしたという。みんなびっくりして、ただこちらをみて
いるばかりだったという(敷島、大和などの口つき紙巻煙草)。らいてうの喫煙は
晩年まで続いた。
一方、房枝は大正9年、洋装とともに吸い始めたという。
浅子の洋装は西洋伝来のクラシックな洋装であったが、らいてうの洋装は大正モダンの
自由で日本的な洋装である。ここにも時代や世代の異なりがみえる。


洋装のらいてうと房枝 大正9年7月 『市川房枝自伝』76頁
らいてうの姉・孝が家庭で洋裁を習っており、その洋裁の先生に依頼したらしい。
おそらく両名にとって最初の洋装になるのだろう。
時代が違うし、また暑い夏場のことではあるが、広岡浅子の洋装とはだいぶ違う。


婦人団体有志連合講演会で、大正9年7月18日、神田の明治会館、『市川房枝自伝』73頁
らいてう(右端)、房枝(左端)、両人にとって洋装での最初の講演会


無産婦人藝術聯盟の『婦人戦線』創刊号 前掲書より
有産婦人の浅子と無産婦人のらいてう、立場の異なりがある。
ただ、らいてうは生活的にはかなりリッチであった。


新婦人協会の機関誌『女性同盟』創刊号 大正9年10月9日 前掲書より
大正8年に死去した浅子は、年代的に『女性同盟』の創刊を知らない