成瀬仁蔵と高村光太郎

光太郎、チェレミシノフ、三井高修、広岡浅子

広岡浅子、新生9年と牧師・宮川経輝

2014年10月17日 | 歴史・文化
 浅子が大阪教会で受洗したのは、腎臓炎がようやく回復し、帰阪した明治44年12月のクリスマスの日である。司式は牧師・宮川経輝による。
 この大病について、浅子は、「私の這回の病気は、更生即ち、旧浅子が死して新しき人格を造り出す為で有る事を自覚致しました」という。
そしてこの受洗を記念して、宮川経輝牧師の講演集『無聲の聲』を上梓している(明治44年12月25日発行・警醒社書店)。
  浅子は、この講演集のはしがきを書いており、「小石川安藤阪の三井邸にて 廣岡浅子識す」と記している。安藤坂を安藤阪と記しているのは、単純な誤植なのか、あるいは大阪の阪とひっかけているのだろうか、、、。
 こうして浅子は、「私が「古き我」を十字架に釘け基督に由て「新生」を経験して以来既に一春秋、、、」といい、大正元年を自分の「新生第一年」と位置づけている。
そして新生元年12月、宮川経輝牧師の説教集『生乎死乎』を編んでいる(大正2年1月発行、警醒社書店)。 
前年夏には、浅子は軽井沢の三井三郎助別荘で休養していたが、「清き自然という母の懐」である軽井沢に宮川、津荷両牧師を招いている。
 浅子は、この頃、いつもの白い洋装姿で、軽井沢の女子大学校の三泉寮の寮生や成瀬仁蔵と記念写真に納まってはいるが、実は、新生の道を転びながら歩み(九転十起)、宮川牧師を招いていたことになろう。
 大正2年、浅子は、5月、仙台に3日間滞在、宮城女学校で計5回の講演を行い、夏には、御殿場の広岡別邸にて、宮川、津荷両牧師を招き、若き十数名の姉妹と共に、両師の講演を聞いている。
 そして同年12月、「わが新生第二周年を感謝せん為に」、宮川牧師の説教集『捨小舟』を上梓し(大正2年12月28日発行、警醒社書店)、そのはしがきを書いている。
 このように浅子は、宮川牧師を「恩師」として仰ぎ、同牧師の講演や説教を小冊子として次々と上梓していくなかで、大正4年、東京でクリスチャンの小橋三四が創刊する『婦人週報』を支援することになる。
 浅子が死去する前年の大正7年は、新生第八年にあたる。同年夏、御殿場の広岡別邸においては、3週間、聖書講義が行われた。神学者・日野真澄を講師として招き、浅子は12名の姉妹と共に、講義を聴いたという。村岡花子はおそらくこの聖書講義の会に参加していたにちがいない。『婦人週報』には、「御殿場日記 同人転地の一週間」と題して、同地の様子が体験報告されている。
 結局、大正7年は、浅子にとって、「新生」の人生の総決算の年となった。クリスマスに、恩師・宮川牧師の説教集を上梓し(警醒社書店)、また同時に、みずからの連載原稿に、自叙伝を加えて、『一週一信』を、小橋三四主宰の婦人週報社から刊行している。
 「私は今春来少しく健康を害し、引籠って居りましたものの、昨今漸く回復の期に向い、、、此処にクリスマスに当り、例の如く恩師宮川牧師の説教を仰いでこの小冊子を編み、私の新生第八年を記念して、広く諸兄姉に相頒つ次第であります」というはしがきを、浅子は「東京の寓居にて」書いている(『基督教の三徳』大正7年12月29日印刷、大正8年1月1日発行、警醒社書店)。
 しかし明けて大正8年1月14日、その寓居である東京麻布材木町の広岡別邸3階の寝室において生涯を終わる。この夜、同邸に駆けつけた小橋三四は、浅子の遺体の傍らで夜を明かしたという。
















広岡浅子と「婦人週報」(小橋三四子)の終刊

2014年10月05日 | 歴史・文化

 大正8年1月、広岡浅子が死去、その半年後の7月、小橋三四子は、主宰する「婦人週報」誌に、同誌の終刊予告記事を掲載する。
 そして次号同誌においては、「恩師先輩友人等の本誌に寄せられた餞詞」と題して、羽仁もと子、大村嘉代子ら8名の餞詞が掲載され、ついで小橋三四子女史送別コンサートのプログラムが掲載されている。7月27日、鶴見花月園において会費3円で開催されるもので、発起人として羽仁もと子、大村嘉代子、鳩山春子、麻生正蔵、井上秀子、柳 八重ら35名の有志が名前を連ねている。
 「送別コンサート」と題してあるのは、小橋が「婦人週報」の発行を中止し、これから3年間、米国を中心に欧州諸国を見学してみたいと思い立ったからである。
 「婦人週報」誌は、大正4年11月に創刊され、大正8年7月に終刊、約4年、毎週金曜日に発行された。この終刊は、小橋の計画通りだともいえるし、突然の終刊であるともいえよう。
 最終号に寄せられた8名の餞詞を読むと、餞詞という性質上、讃えることが多く、誰一人、経済的事情などについては触れていない。また小橋自身の「別れに臨みて」という1頁の言葉をみても、経済的事情については一言も触れていない。
 広岡浅子が逝去したとき、小橋は「婦人週報」の編集後記で「まだ世間に信用のない一婦人の編者に莫大の保証金と資金とを投じて下さったのは刀自(浅子)でありました」と述べており、資金を必要とする出版事業を浅子が支援していることが推測できよう。
 大正4年、「婦人週報」の創刊号では、「発刊を祝す」という文部大臣の祝辞のほか、広岡浅子、森村市左衛門、鳩山春子、成瀬仁蔵らの祝辞が掲載されているが、その掲載順のトップを占めるのは浅子の祝辞である。そして明けて翌大正5年の「新年述懐」の頁においても、10余名の述懐の中で、トップに掲載されているのは浅子の言葉である。
 広岡浅子が死去する前日(1月13日)の夜、終日外出して帰宅した小橋三四に、浅子は「今から暇があったら来てくれぬか」と電話をしている。浅子と三四との交流にはそれだけ親しいものがあったのであろう。
 傍証として、浅子の葬儀は、東京では1月21日、大阪では23日に行われたが、その司式を担当したのは、神学者・日野真澄である。日野は同志社神学部長を経て、京都大学講師などを勤め、御殿場にある広岡別邸ではこの両3年毎夏、日野真澄の講義が行われた。「広岡刀自はいたく同氏の人格と学殖とを惜しみ、近く同氏を起たしめて、神学校設立の計画を立てられました。愈愈着手の運びに至らんとするや、広岡刀自は突如、天に召されたのでありました」と小橋は述べている。浅子が支援したあるいは支援しようとした事業の中には、浅子の突然の死去により中断を余儀なくされたものもあったのではないだろうか。
 ちなみに、約4年で終刊した「婦人週報」誌には、いずれ高村光太郎と「成瀬仁蔵像」の制作依頼とが結びつくことになる重要な記事が掲載されている。