成瀬仁蔵と高村光太郎

光太郎、チェレミシノフ、三井高修、広岡浅子

広岡浅子と成瀬仁蔵 明治29年ー34年

2015年02月18日 | 歴史・文化
広岡浅子(1849生)と成瀬仁蔵(1858生)の関係は、明治29年の出会いから始まり、大正8年、両者のあいつぐ死去により終わるが、その関係は、時代により微妙に異なり、温度差があるといえよう。 
 明治27年、米国留学と同地の女子大学の視察を終えて帰国した成瀬は、3月、要請されかつての勤務校・大阪の梅花女学校の校長となる。しかし女子大学の設立の思いは止み難く、4月、同郷の先輩で大阪府知事の内海忠勝を訪問する。5月には、上京し、東京の女学校を視察、同郷で時の総理大臣・伊藤博文を訪問、女子大学の設立や大阪で設立することに賛同をえられたという。
 成瀬が関西方面の有力者で、内海に続いて訪ねたのが、大和吉野郡(奈良県)の山林王・土倉庄三郎(1840生)であった。土倉は教育事業に理解があり、村民教育を支援、わが子が梅花女学校に在学当時、成瀬と面識があった。
 女子大学の設立に理解を示した土倉は、広岡浅子、住友吉左衛門、北畠治房らに相談することを勧めたという。
 結局、理解や賛同を示しただけでなく、実際に金銭的な援助を最初にしたのは(創立費)、土倉と浅子の二人であったようだ(各5千円を寄付)。さらに金銭的な援助にとどまらず、実際に東奔西走して動いてくれたのが、広岡浅子であった。浅子は、同性として、女子高等教育機関としての大学を設立したいという思いが止み難ったのであろう。
 成瀬は、明治34年、日本女子大学校の開校の辞で、次のように述べている。 
「殊に大和の土倉庄三郎氏、大阪の広岡浅子の御両人ハ、各々金五千円を投ぜられ、都合金壱萬円を以て當てんことを希望致されまして、若し広く天下に訴えて此事業が成就せざることありとするも、吾等両人にて其人費を引受け、他の発起人や寄付者にハ決して御迷惑ハ掛けまじ、と契はれまして御座ります。それで当初大阪で校地を金四萬円で買い入れました時にも、御両人が責任を負うて下さりましたのであります」




   広岡浅子(1849-1919)


   内海忠勝(1843-1905)


   土倉庄三郎(1840-1917) 

広岡浅子と大磯別邸の伊藤博文、そして東京 明治29年

2015年02月03日 | 歴史・文化
 浅子は、明治29年10月11日、東京に向かい、途中、大磯で下車、伊藤博文に面会したものと思われる。
 伊藤は、8月31日に総理大臣を辞任したばかりで(第二次伊藤内閣)、一方、別邸を小田原から大磯に移したばかりであった。大磯を気に入った伊藤は、翌30年、本籍を大磯に移したため、本邸となる。浅子は、この意味では、大磯詣での最初期の一人となろう。
 一方、成瀬仁蔵は、浅子より一足先に、7月下旬、上京、投宿先は京橋区銀座一丁目七番地西本方であった。しかし7月30日には、はやくも東京を出発し越後路(新潟)へ向かったので、東京滞在は3、4日でしかなかったと思われる。
 新潟は、成瀬が澤山保羅らの勧めで新潟教会の初代牧師として赴任、さらに新潟女学校を開校し校長になったところで、新潟を「第二の故郷」というほど成瀬にとって馴染みのある土地であった。8月14日頃まで新潟に滞在した成瀬は、15日(土)、再度上京したものと思われる。しかし東京滞在は長くはなく、8月22日(土)には帰阪している。
 新潟訪問の成果は、8月28日(金)の「創立事務所日誌」に詳細に記載されている。賛助員を承諾した者は、新潟県会議員、三条銀行頭取、三条米穀取引所理事長ら20名、賛成員を承諾した者は新潟県知事、新潟県立病院長、南魚沼郡長ら15名である。
 これに対して東京訪問の成果については、「創立事務所日誌」には記載がない。
 成瀬が三度目に上京したのが10月8日(木)である。そして浅子はその後を追うようにして11日(日)の夜行列車で大阪を発ち、おそらく翌12日、大磯で途中下車、伊藤博文に面会したものと思われる。
 麹町町区飯田町の三井別邸に滞在した浅子は、以後、東京滞在を続け、帰阪したのは実に12月28日の夕方のことである。そして大晦日の31日夕方には、「成瀬氏と会計取調べ」をしている。まさに本業を一時中断しての支援ぶりであり、かつ金銭の収支には厳密であった。
 これに対して成瀬は、10月23日帰阪、翌24日上京、11月20日帰阪、12月2日上京、25日帰阪というように上京・帰阪を繰り返していた。
 東京での最初の成果は、11月9日(月)、浅子からの来状の形で「事務所日誌」に記載されている。賛助員承諾者は近衛篤麿、澁澤栄一、大倉喜八郎ら5名、賛成員承諾者は、土方久元、牧野伸顕ら4名、賛成員承諾から賛助員承諾に変更した者は伊藤博文、西園寺公望、大隈重信、松方正義の4名、発起人承諾者は伊藤博文夫人・梅子、大隈重信夫人・綾子の2名である。
 このように「創立事務所日誌」には、浅子の八面六臂の活躍ぶりが際立っており、まだ知名度の低い教育者・成瀬が事業家、実業家の浅子から骨身を惜しまぬ支援を受けていることが読み取れる。


 

 

 

 

 

 

 
 


広岡浅子と成瀬仁蔵 女子大学校の創立準備時代 明治29年

2015年02月01日 | 歴史・文化
 日本女子大学校は、明治34年4月、創立されるが、その準備時代の「事務所日誌」が残されている。
 日誌は、明治29年7月17日(金)に起こされる。その初日の17日、「成瀬広岡両氏神戸行」とあり、2日目、「成瀬広岡両氏神戸ヨリ帰阪」とある。
 そして3日目の19日、はやくも兵庫県知事をはじめ同県の参事官、学務課長、尋常師範学校長、市田写真館の市田左右太らが女子大学設立の賛成員あるいは賛助員を承諾したことが記されている。
 これは、日本女子大学校の創立準備活動が「成瀬仁蔵と広岡浅子の二人三脚」で始まっていると読み取ることが可能であろう。
 この二人三脚が始まる1ヶ月前の6月、浅子は九州の潤野炭鉱の事業所に住み込み多忙をきわめていた。そこで浅子は、炭鉱から抜け出し帰阪しやすくするために、成瀬仁蔵に「スグキハンアリタシ」という電報を打って欲しいと依頼している。その結果、帰阪した浅子は、成瀬と二人三脚を組めることになる。まさに浅子が家業をおいてまで女子高等教育のために献身しようとしていることがわかる。2016年1月24日の当ブログ参照。
  成瀬仁蔵は周防国吉敷村(山口県)の出身で、当時、大阪に在住、一方、広岡浅子は京都の三井家より大阪の加島屋・広岡家に嫁ぎ、同じく大阪に在住し、当初、日本女子大学校は大阪で開校する計画であった。明治30年には、大阪城南の清水谷に校地5000坪が購入されている。
 「事務所日誌」では、7月、8月の暑い中、両人の活動の地域が大阪、京都、奈良に拡大されていることがわかる。とりわけ浅子が身を粉にして賛成員、賛助員の承諾をとりつけるべく東奔西走していることが読み取れる。
 7月25日(土)廣岡夫人大阪造幣局長長谷川為治氏方行 要件 局長ヘ女子大学校設立賛成員承諾の勧誘
 8月7日(金)廣岡夫人此日岡山行不在
 8月8日(土)廣岡夫人岡山ヨリ帰阪
 8月11日(火)廣岡夫人女子大学用ニテ大和大瀧村土倉庄三郎ヘ往新田同伴
 8月12日(水)廣岡夫人新田大和土倉氏方ヨリ帰阪
 8月20日(木)廣岡夫人下田歌子ヘ面晤ノ為須磨行 即日帰阪
 8月27日(木)成瀬廣岡両氏神戸行即日帰阪
 9月4日(金)成瀬廣岡両氏奈良行
 一方、成瀬仁蔵は、東京行きを計画するが、7月21日(火)、「東上ノ途ニ登ル 突然病気見合ス」とある。おそらく連日の疲れが溜まり、ダウンしたのであろう。結局、成瀬は、7月24日から京都、大津で運動した後、上京することになり、7月26日あるいは27日、東京に到着したようである。
 この浅子の献身的な活動について、後年(明治38年)、成瀬はつぎのように述べている。
 「また廣岡夫人は此の大学を建てる事を女子の天職と御感じになり我邦の必要といふことを認められて殆ど其の炭鉱事業の如き熱心を以て此の事業の為に御尽くし下さった。為に此の学校が困難なるにも拘らず其の目的を達するようになったといふ事は事実であります」
「創立事務所日誌」は、オリジナルは和綴じで毛筆のものであるが、1995年-2004年、「日本女子大学校 創立事務所日誌」(第1巻ー第4巻)として活字化され刊行されている(成瀬記念館発行)。