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成瀬仁蔵と高村光太郎

光太郎、チェレミシノフ、三井高修、広岡浅子

渋沢栄一邸において「帰一協会」の準備会、渋沢、成瀬、ギューリックら8名

2025年06月28日 | 歴史・文化
明治45年4月、東京・飛鳥山の渋沢栄一男爵邸において、帰一協会設立のための準備会(現代思想界考究に関する集会)が開催された。出席者は、渋沢栄一、成瀬仁蔵、姉崎正治、浮田和民、シドニー・ギューリック(のちの「青い目の人形」の提唱者)ら8名であった。
 そして6月、上記の出席者に、森村市左衛門、上田敏、桑木厳翼らを加えた12名を発起人とし、上野精養軒において、帰一協会組織相談会が開催され、36名が出席した。その結果、発起人12名を評議員とし、その内、渋沢、森村、成瀬、姉崎、浮田の5名が幹事として互選された。
 7月には、上野精養軒において、帰一協会第一回例会が開催され、出席者は13名であった。以上は、「帰一協会会報」第壱による。
 広岡浅子にとって、新生第2年となる大正2年、「帰一協会会報」第弐が刊行されている。末尾に会員名簿(78名)があるが、そこには浅子の名前は見出されない。新渡戸稲造、海老名弾正(キリスト教関係)、朝吹英二(三井財閥系)、本野一郎(政治家・外交官、ロシア人の女流彫刻家チェレミシノフの後見人)らが名を連ねている。
 その後、日本女子大学関係者としては、麻生正蔵、井上雅二(井上秀の夫君)、松浦政泰ら、三井財閥系として団琢磨らが会員名簿に記されているが、浅子の名前は結局、見出されないままに終わっている。
 帰一協会は、資金的には、渋沢栄一に負うところが多いが、会の実質的な運営には、成瀬仁蔵と姉崎正治が携わった。後年、姉崎正治(嘲風)は、『わが生涯』において、「自分はよく、成瀬君はいわば目はないが足がきく盲である。自分は目はあるが足はきかぬという人間で、二人が互いに助けてゆけば、成瀬君は熱で人を動かし、自分は知力でそれを配合してゆけると思った。しかるに成瀬君は早く死んだ。そして一人自分があとにのこり(渋沢子は副の位置に立ち)、大した発展もせずにすんだのである」と述べている。
 広岡浅子が帰一協会に勧誘されたのか、あるいはそうではなかったのかについては、筆者の調査不足でわからないが、浅子は同協会の発展性についてはあるいはよくわからなかったのかもしれない。
 一方、浅子は、大正4年、小橋三四子が創刊した「婦人週報」には資金的な支援をしたが、浅子が死去した大正8年、「婦人週報」は終刊となった。

成瀬仁蔵校宅と高村光太郎、そして新婚まもない三井高修夫妻

2025年01月27日 | 歴史・文化
 大正8年1月14日、広岡浅子は、麻布の広岡別邸(ヴォーリズ設計)で死去、
そして約2ヵ月後の3月4日、成瀬仁蔵が目白台の日本女子大学校内の校宅(木造2階建)で逝去した。この校宅では、結果として、成瀬仁蔵をめぐる近代美術史上の多くの劇的な出会いがあったことになる。
 成瀬が逝去する直前、2月23日(日)、浅子の甥で、新婚まもない三井高修が夫人同伴で、病床の成瀬を校宅に見舞い、揮毫された書を賜っている(成瀬は三井家のために複数枚、揮毫している)。
 また2月26日(水)午後、高村光太郎が、成瀬像の制作を、1回生の卒業生(井上秀、小橋三四ら)から依頼され、急遽病床を見舞っている。彼は、「仁科節日記」によれば、前夜、依頼されたらしい。
 また同日26日午前には、ロシアの女流彫刻家・チェレミシノフ女史が、2回生(永井 駿、小林 珠ら)の依頼により、成瀬と面会している。
 光太郎は、当初、約1年後の完成を予定していたが、完成は遅れに遅れ、実に14年後の昭和8年にようやく完成する。
 光太郎は、その間、試作像をいくつか作ったが、完成作ができぬまま、徒に歳月が経過していた。
 その経過の中で、いわば「関連作」、あるいは「代作」、あるいは「競作」のような形で、いくつかの成瀬像が登場することになる。
 まず大正8年、チェレミシノフ女史が「浮彫」(大正8年、石膏とブロンズ)を作り、卒業生らに頒布され、さらに「胸像」(石膏、制作年不詳、後年、ブロンズに鋳造)が制作されている。
 女史は、ロシアで、ロシア大使・本野一郎(のちに外務大臣)と親交があり、その伝手で日本に亡命し、大正6年、「猟装の本野一郎」(立像)を文展に出品、入選、翌大正7年、「三井八郎次郎」(胸像)を同じく文展に出品、入選している。
 また昭和4年、成瀬の没後10年にあたる節目の年に、高修が幼少時代に指導を受け、ある意味で恩師にあたる成瀬を偲び、「首像」(ブロンズ)を制作した。「首像」は、軽井沢三泉寮の大もみの樹の下に安置された。
 指導は、光太郎の美校時代の先輩・武石弘三郎による。武石弘三郎は、本野一郎と親交があり、チェレミシノフ女史とも交流があった。
 光太郎、チェレミシノフ、高修、これら三人の作者の内、幼少時代から父・三郎助、母・寿天とともに晩年まで、成瀬ともっとも交流があったのは高修(M25生)である。
 成瀬の後継者であり、かつ広岡浅子の薫陶を受けた井上秀(M8生)とは相性がよく、親しい間柄であった。
 また高修夫人の廣子(九州・島津家の息女)は、同じく昭和4年、「成瀬仁蔵小肖像画」(ミニアチュール)を制作している。夫婦で「成瀬」像を競作したことになる。
 なお、これに先立って、大正8年2月14日、画家・柳敬助が、病床の成瀬のもとに、かねて依頼されていた叔母の肖像画(油絵)を完成 させ運び込んでいる。「秦てる刀自肖像画」である。画布に油彩、45.5×33.5㎝。
 成瀬は、さっそく病室(校宅2階の寝室)の壁間に、この「叔母の肖像画」と父「小右衛門の肖像画」(油彩)を並べてかかげたという。「仁科節日記・2月14日」





























軽井沢の日本人最古の別荘「八田別荘」(M26)1億8千万円で購入

2020年04月15日 | 歴史・文化
「八田別荘」(明治26年)は、軽井沢で最古の日本人別荘(木造2階建)です。

2015年、軽井沢町は、八田家より八田別荘の敷地を1億8千万円で購入しました。

八田別荘の建物は、同家より町に寄贈されました。

3年後の2018年8月11日~9月30日の土日祝日、同別荘は、初めて一般公開されました。

以後、土日祝日に見学可能のようです。

しかし 現状では、同別荘を保有されているのみで、活用されておりません。



軽井沢文化遺産保存会 2020年度の事業計画です

2020年04月05日 | 歴史・文化
軽井沢文化遺産保存会2020年度の催事です。

その一部のご紹介です。

2020年GW:第3回「軽井沢の別荘物語」&公開ミニシンポ(無料)

2020年6月:子どもの「軽井沢の別荘」見学ツアー(無料)(保護者の参加可)

2020年8月:「軽井沢文化遺産写真展」を開催(入場無料)

2020年8月:第4回「軽井沢の別荘物語」&公開ミニシンポ(無料)

なお、いずれの催事も、コロナウィルス感染防止のため、計画の変更・延期がありえます。

この事業は、軽井沢町「みんなの力でつくる町」活動支援事業補助金を得て開催するものです。