成瀬仁蔵と高村光太郎

光太郎、チェレミシノフ、三井高修、広岡浅子

広岡浅子と帰一協会

2014年12月09日 | 歴史・文化
 明治45年4月、東京・飛鳥山の渋沢栄一男爵邸において、帰一協会設立のための準備会(現代思想界考究に関する集会)が開催された。出席者は、渋沢栄一、成瀬仁蔵、姉崎正治、浮田和民、シドニー・ギューリック(のちの「青い目の人形」の提唱者)ら8名であった。
 そして6月、上記の出席者に、森村市左衛門、上田敏、桑木厳翼らを加えた12名を発起人とし、上野精養軒において、帰一協会組織相談会が開催され、36名が出席した。その結果、発起人12名を評議員とし、その内、渋沢、森村、成瀬、姉崎、浮田の5名が幹事として互選された。
 7月には、上野精養軒において、帰一協会第一回例会が開催され、出席者は13名であった。以上は、「帰一協会会報」第壱による。
 広岡浅子にとって、新生第2年となる大正2年、「帰一協会会報」第弐が刊行されている。末尾に会員名簿(78名)があるが、そこには浅子の名前は見出されない。新渡戸稲造、海老名弾正(キリスト教関係)、朝吹英二(三井財閥系)、本野一郎(政治家・外交官、ロシア人の女流彫刻家チェレミシノフの後見人)らが名を連ねている。
 その後、日本女子大学関係者としては、麻生正蔵、井上雅二(井上秀の夫君)、松浦政泰ら、三井財閥系として団琢磨らが会員名簿に記されているが、浅子の名前は結局、見出されないままに終わっている。
 帰一協会は、資金的には、渋沢栄一に負うところが多いが、会の実質的な運営には、成瀬仁蔵と姉崎正治が携わった。後年、姉崎正治(嘲風)は、『わが生涯』において、「自分はよく、成瀬君はいわば目はないが足がきく盲である。自分は目はあるが足はきかぬという人間で、二人が互いに助けてゆけば、成瀬君は熱で人を動かし、自分は知力でそれを配合してゆけると思った。しかるに成瀬君は早く死んだ。そして一人自分があとにのこり(渋沢子は副の位置に立ち)、大した発展もせずにすんだのである」と述べている。
 広岡浅子が帰一協会に勧誘されたのか、あるいはそうではなかったのかについては、筆者の調査不足でわからないが、浅子は同協会の発展性についてはあるいはよくわからなかったのかもしれない。
 一方、浅子は、大正4年、小橋三四子が創刊した「婦人週報」には資金的な支援をしたが、浅子が死去した大正8年、「婦人週報」は終刊となった。