成瀬仁蔵と高村光太郎

光太郎、チェレミシノフ、三井高修、広岡浅子

広岡浅子と長井長義夫人テレーゼ&村井保固夫人キャロライン(ネ々-)

2015年12月26日 | 歴史・文化
浅子が主導して、明治39年、桜楓会補助団が設立されるが、発起人20名はいずれも女性ばかりである。その中に、テレ―ゼというドイツ人の女性とキャロラインというアメリカ人の女性がいる。
 テレーゼは、東京帝国大学教授・長井長義(薬学、エフェドリンの発見者)夫人であり、キャロラインは、森村組ニューヨーク支店長・村井保固夫人である。
 浅子がお膳立てをして、明治42年7月、大阪と名古屋において巡回講演会が開催されたとき、メインの講話と実験などを担当したのが長井長義である。丹下ウメらが助手として補佐した。
 前年の明治41年10月、東京麻布の三井本家(北家)では、三井家の婦人方を対象にして長井長義による「家庭化学」の講話が行われている。本家の苞子夫人、小石川家の寿天子夫人、広岡浅子らが出席したと思われる。この「家庭化学講話」は、明治42年、『家庭』の創刊号に掲載され、以後、同誌には、毎号、長井長義の「家庭化学講話」が連載されることになる。内容的には、「水」の話とか、「砂糖」の話とか、なかなかに興味深い。名古屋の巡回講演会では、広岡御夫人特志寄付の雑誌『家庭』が配布されている。浅子には、みずから書物をよく読んだだけでなく、よい書物や雑誌を購入して人や団体に寄付するという特志があった。
 浅子が、巡回講演会のメインに長井長義の「通俗化学講話」を据えたのは、おそらくこのような経緯も関係しているように思われる。浅子は、「女子大学講義録」の最初の受講者の一人であり、『家庭』の読者である。これについては「余は女子大学講義を如何にして学びつつあるか」(M42)に詳しい。長井は、女子大学校で自ら提言して最先端の設備が導入された香雪化学館で講義と実験を指導していた。
 長井長義とテレーゼ夫人は、カトリックの信仰をもつが、実はこの巡回講演会が行われた明治42年、長井は、カトリックの修道会「幼きイエス会」を支援し、雙葉高等女学校(現・雙葉学園)が設立されている。雙葉会創立の趣旨は、国際的な場で夫人が外国語ができなくては困るだろうということを長井が痛感したことによる。後年(S2)、ベルリンに長期滞在中の長井は、女子大学校の教え子・小笠原(近藤)孝子に宛てた手紙で次のように述べている。
「外交官で夫人の居る場合は、必ず両人を招待するのが礼儀でありまして、招かれて之に応ぜねば礼を欠きます、斯様な名誉ある宴会で、夫人が黙して居らねばならないのは其の当人は勿論、其の夫の心苦さは容易で無かろうと存じます。此度当地(ベルリン)で斯様な機会に接しまして益々御婦人方の外国語の必要を感じました。此の意味で私は先年雙葉会を創立致したのであります。現今当地にお勤めの白鳥書記官の御婦人は雙葉高女の御出身で、仏語も独語もお話しになります。誠に嬉しうあります」
『長井長義伝』によると、明治31年、長井は、国際間の友好親善を計る婦人を養成したいという意図で、赤坂区葵町に双葉会を創立、仏英独語学を教授するもので、自ら会長におさまったという。テレーゼは、語学のほか、手芸、洋裁、料理などを教えた。そして明治42年には、双葉会の附帯事業として双葉高等女学校を設立し、爾来その最高顧問となると記されている(金尾清造著、昭和35年、日本薬学会発行)。
 一方、キャロラインは、父親がニューイングランド地方で牧師を勤めていた家庭に生まれ、ニューヨークで村井保固が下宿していたダッドレ―夫人宅が姉の家であった。両人はこの姉宅で出会い、村井が求婚、結婚することになった。村井は明治40年頃から聖書を読み始めていたが、盟友・大倉孫兵衛の名古屋邸で巡回講演会が行われたとき、たまたま帰国していた村井(豊明会員)は、「三十年来外国貿易に従事せる経験上、日本婦人に切望する習慣」と題した講話で、森村組のニューヨーク支店で100名を越える外国人を雇って商売をしている経験を鑑み、共同一致の精神とその訓練の必要性について説いている。
 長井長義も村井保固も、信仰に厚く、愛妻家で、夫婦仲は非常によかったようである。浅子は、このような巡回講演会を取り仕切った明治42年の暮れ、大阪教会の牧師・宮川経輝と出会うことになり、宮川による宗教哲学講義や聖書講義を受け、新生・浅子の幕が開くことになる。「六十余歳にして漸く心霊の修養を懐ふ」という境地にいたる(M43)。
 ちなみに、長井長義は、軽井沢に別荘があり、しばしば三泉寮に教え子たちを訪ね、また招かれたようである。長井は結構筆まめであったらしく、大正11年7月、教え子・篠塚きよしに宛てた手紙では、「お懐かしい勉強な潔さん! 私の體は軽井沢に居りますが私の心は毎日(香雪)化学館の実験机の周囲を徘徊致しております。、、、只今から三泉寮よりお茶のお招きに両人で参ります。急ぎ復伺います」と書いている。しかし2年後の大正13年8月、テレーゼ夫人は軽井沢で、マンロー博士の治療などを受けたが(胆石症)、惜しくも逝去している。














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