成瀬仁蔵と高村光太郎

光太郎、チェレミシノフ、三井高修、広岡浅子

成瀬仁蔵と高村光太郎

2014年01月30日 | 歴史・文化
 高村光太郎制作の「成瀬仁蔵胸像」(ブロンズ)は、昭和8年、ようやく完成し、東京目白の成瀬記念講堂において除幕式が行われた。
  成瀬仁蔵(日本女子大学創立者)は大正8年3月4日に逝去、光太郎は桜楓会より胸像制作を依頼され、一週間前の2月26日午後、急遽、病床の成瀬を訪ね、病気の妻・智恵子(卒業生)の代理ということで面会している。「仁科節日記」
  胸像の完成は約1年後が目途とされたが、実現せず、その後、光太郎は何度か胸像を試作し、一度は日本女子大学や桜楓会の関係者らをアトリエに招いて披露したこともあったが(大正15年)、結局、完成までに14年の歳月が経過した。
  除幕式は、昭和8年4月20日、日本女子大学創立33周年記念日で、胸像を置く台は諸般の事情で間に合わず、光太郎が指示して作製された木製の仮台の上に置かれた。
  胸像は当初、演壇の外側に置かれたが、その後、演壇の上に置かれるようになる。しかし壇上での定位置はとくになく、当時の写真でみると、随時、移動されていたようである。
  戦後、昭和28年、創立50周年のとき、桜楓会が記念事業として台石を作製贈呈し、長きにわたった仮台の時代が終わった。
  そして昭和36年、創立60周年のとき、成瀬記念講堂が改修され、演壇背後の壁の中央にニッチが新設され、そこに安置され、現在にいたる。
  その後、平成8年、西生田キャンパスに西生田成瀬講堂が竣工、落成したとき、胸像から石膏型をとり、あらたなブロンズ像が1体作成され、講堂入口のホワイエのところに安置された。鋳像は高畠四郎氏による。
  またこの石膏胸像はブロンズ色に彩色され、展示にも供されるようになった。その結果、現在、「成瀬胸像」は、ブロンズ像2点、石膏彩色像1点がある。
  写真は、西生田成瀬講堂における「成瀬仁蔵胸像」である。

この銅像の製作計画は、「婦人週報」によると、大正8年2月25日、第一回生等の相談会に於いて満場一致で決議され、その製作を高村光太郎氏に委嘱することになったという。「婦人週報」は、一回生の小橋三四が大正4年、広岡浅子の金銭的な支援も得て創刊した週刊紙である。
  この満場一致の決議により委嘱された光太郎は、翌日26日午後、急遽、目白の校宅を訪れ、成瀬仁蔵と面会したことになる。実はこの日の午前、「仁科節日記」によると、ロシアの女流彫刻家・チェレミシノフが同じく成瀬仁蔵を訪ねていた。女史は、第二回生の発議により「成瀬仁蔵浮彫」(レリーフ、ブロンズと石膏の2種類)を製作し、頒布されることになる。
  E・チェレミシノフは、ロシア大使だった本野一郎を頼って大正6年頃、来日し、彫刻家・武石弘三郎(光太郎の美校時代の先輩)と交流があった。広岡浅子の甥である三井高修(三井三郎助の子息)は、米国から帰国後、三井小石川家当主の役目を果たすかたわら、武石弘三郎の指導で彫塑を学んでいた。小石川本邸の敷地内には、独立したアトリエ棟を建てる計画をもっていた(松田軍平設計)。
  幼少時代、三井高修は成瀬仁蔵から薫陶を受けたこともあり、「仁科節日記」によると、2月23日、新婚まもない高修は廣子夫人を伴い成瀬仁蔵を見舞っている。
前日、成瀬は三井家の方々に揮毫をし、5枚目の三井家の御当主高修氏の揮毫のときには疲れてしまったようである。高修は、この揮毫の書を頂戴することも兼ねて見舞ったのであろう。そして高修は、成瀬の没後10年にあたる昭和4年、「成瀬仁蔵首像」(ブロンズ)を製作 、また廣子夫人は「成瀬仁蔵小肖像画」(ミニアチュア)を製作する。
 一方、広岡浅子の勧めにより日本女子大学校に入学した井上秀(一回生)は、昭和6年、卒業生初の校長となり、昭和9年、総合大学の実現に向けて神奈川県西生田に進出するが、このとき校地の取得のために奔走したのが評議員・理事の三井高修であった。
  明治45年、三井三郎助が逝き、大正8年、広岡浅子、成瀬仁蔵が相次いで逝き、次の時代の幕を開けたのが広岡浅子と成瀬仁蔵の薫陶を受けた井上秀と、三郎助の子息で、幼少時代、成瀬の薫陶を受け、軽井沢の三郎助別荘では浅子と起居をともにしたこともあった三井高修であった。戦中、秀は国策に協力、戦後、公職追放となり、一方、高修は、三井鉱山取締役を経て、国策軍需会社・三井石油合成、その発展的な合併統合会社である日本人造石油の社長を勤め、戦後、公職追放、また財閥解体・財閥家族の指定を受けている。


西生田成瀬講堂に置かれている「成瀬仁蔵胸像」平成8年鋳造、鋳像は高畠四郎氏による。




上代タノ(学長、葬儀委員長)は、井上秀と浅子の甥・三井高修との関係について、昭和38年9月21日、井上秀の校葬において、「創立40周年記念を目標として女子総合大学の実現を期し、その第一歩として理事故三井高修の熱心な協力を得て西生田に十数万坪の土地を求め、ここに校舎と寮舎の建設を始められました」(告別の辞)と述べている。ちなみに高修は前年の昭和37年死去している。
次の写真は、昭和17年頃、井上秀校長時代のものである。完成した西生田校舎を見学に来たもので、井上秀校長(洋装)、その隣に前校長の麻生正蔵と夫人がおり、大橋広家政学部長、上代タノ英文学部長らがつき従っている。タノはこのようなことで高修による校地取得の経緯について知っていたのであろう。高修は米国ダートマス大学に留学、卒業、英語に堪能で、上代とは話が通じたのであろう。ちなみに大橋は井上の公職追放による退任後、第5代校長となり、上代は大橋の退任後、第6代学長となる。
左端の市村今朝蔵(日本女子大学教授、のちに早稲田大学教授)は、雨宮敬次郎の甥で、継承した軽井沢の広大な土地が開発発展し、南原に「友達の村」(別荘地、S7)が誕生、井上秀らが別荘をもった。井上秀の木造別荘は現存しないが、娘の菅支那(日本女子大学教授)の木造別荘はその近くに現存する。
市村自身は、「近衛文麿別荘」(T15、あめりか屋建築)を昭和8年に取得、南原に移築し、和風に一部改造、きよじ夫人とともに利用した。夫人(名誉町民)の没後、平成9年、旧近衛別荘は軽井沢町に寄贈され、雨宮御殿の隣接地に移築され、保存公開されている。
一方、三井弁蔵は、三井三郎助の弟・高明の子息で(本村町家2代当主)、雨宮敬次郎が遺した土地などの買収交渉の実務面で奔走(50万余坪)、名門「軽井沢ゴルフ倶楽部」が誕生する。自らは別荘のほかに、独立したアトリエ棟(木造平屋建)を建てたが(画才あり)、完成直前に逝去した。




東京目白の成瀬記念講堂


成瀬記念講堂に置かれている高村光太郎「成瀬仁蔵胸像」昭和8年




成瀬仁蔵校宅(木造2階建)、2階に寝室、書斎、書庫などがある。大隈重信も見舞いに訪れているが、2階へ
の階段は急勾配で手摺りがなく、義足の大隈は取り付けられた手摺り替わりのロープを頼りに昇降したという。
ちなみに大隈重信の銅像は朝倉文夫が制作している。


2階の寝室、病床の成瀬は、ここで高村光太郎、浅子の甥・三井高修夫妻、チェレミシノフ女史と面会した。
枕元の「永眠の成瀬仁蔵」(デッサン画)は柳敬介が描いたものである。柳夫人の八重は女子大学校の卒業生で、
智恵子を光太郎に紹介したことで知られる。


現在、正門近くに移築中の成瀬仁蔵校宅、


移築中の成瀬仁蔵校宅の全景、左側に成瀬記念館(浦辺鎮太郎設計)がある。


成瀬仁蔵校宅は不忍通り沿いに建っていたが、道路拡張計画により移築を余儀なくされた。
塀沿いに白い平屋建ての建物がみえるが、その奥にあった


成瀬仁蔵校宅の跡地、駐車場になっている