成瀬仁蔵と高村光太郎

光太郎、チェレミシノフ、三井高修、広岡浅子

三井浅子と広岡信五郎、重縁と茶の湯

2015年04月16日 | 歴史・文化
 三井浅子は、いわゆる重縁により広岡信五郎のところに嫁いだ。この重縁について、浅子は次のように述べている。
「二歳というまだ片言も云い初めぬ間に、早くも大阪の広岡家に許嫁の身となりました。これは当時重縁と云って、縁家同志の結婚を喜びましたが、私のもこの重縁の為に、早く取定められたのでした」(広岡浅子『一週一信』2頁)
 広岡家と三井家では、3代続いて重縁関係を結び、浅子が17歳で広岡家に嫁いだのはその3代目にあたる。つまり先例があってのことであった。
 最初に広岡家に嫁いだのは、三井あつである。あつは三井高典(新町家4代当主、小石川家3代高長の長男)の娘であり、広岡家から別れた別家である広岡新宅の広岡正謙(加島屋五兵衛初代)のところに嫁いだ。
 二番目に嫁いだのは、三井ふきである。ふきは三井高経(小石川家5代当主)の娘であるが、広岡正謙・あつの子息である正方(真左衛門)のところに嫁いでいる。
 そして三番目に嫁いだのが、三井浅子である。ふきの兄弟である高益は、三井高経の3男であり、16歳で家督を相続、三井小石川家6代当主となるが、その4女(庶出)が浅子である。このように重縁が続いたのは、どのような背景があってのことなのだろうか。
 加島屋・広岡家は、大阪・土佐堀川畔に所在するが、その近くには大阪随一の豪商・鴻池家がある。鴻池善右衛門11代幸方(1865年生)は、重縁ではないが、三井路子(三井室町家10代当主・高保の長女)を嫁に迎えている。
 鴻池幸方は、三井三郎助より15歳、三井高棟より8歳、広岡信五郎より24歳年少であるが、明治22年、三井路子と結婚している。この年、幸方は、一三四銀行頭取・弘世助三郎らに推され、日本生命保険株式会社初代社長に就任している。
 浅子や広岡本家の久右衛門らにより大同生命保険株式会社が設立されたのは、明治35年のことである。
 鴻池11代当主・幸方の立ち位置は、三井北家(本家)10代当主・高棟と似ており、幸方は明治44年、一方、高棟は明治29年、男爵に叙せられている。
 幸方は、趣味多彩ではあったが、茶の湯についてはとくに熱心だったというわけのものではなかったようだ。鴻池家において、とりわけ茶の湯に熱心だったのは、4代当主・宗貞(1698年生)、5代当主・宗益(1717年生)、そして鴻池道億(1655年生)であったようだ。また鴻池家の分家である大坂尼崎の草間家の婿養子となった草間直方(1753年生)は、隠居後、『茶器名物図彙』を刊行している。
 一方、加島屋・広岡家においては、茶器の収集や茶の湯が盛んであったようで、また三井各家においても同様であった。広岡家と三井家との重縁は、商い上の関係のほかに、茶の湯、茶会などでの交流があってのことではないだろうか。


 

    『大同生命 100年の挑戦と創造』2003年より


    『大同生命 100年の挑戦と創造』2003年より

広岡浅子(32歳)と縁談の世話 明治14年

2015年04月05日 | 歴史・文化
 明治14年といえば、当時、三井各家では、結婚適齢期の男子が複数でいた。浅子の実家である出水三井家では、高景(三郎助)は、明治12年に妻・益が病没し、再婚の相手を探していたところであった。
 しかし浅子が縁談の話をもっていったのは、実家にではなく、総領家(北家)のところへであった。このあたりはいかにもやり手の浅子らしいところだともいえよう。
 北家では、才覚力量のある浅子が持ってきた縁談の話を真摯に受けとめたようである。当時、北家の高棟(のちに北家10代当主、1857年生)は24歳、縁談の相手である橋本幾登(1866年生)は15歳であった。
 橋本家は、大阪摂津の大きな農家で、次女の幾登は3、4年前から大阪の音曲の師匠宅に寄宿し嫁入り修行をしていたが、それを浅子が取り持ったようである。
 明治14年12月、両者の見合いは大阪の梅屋敷で行われたが、高棟には異存がなかったようで、縁組が進められることになった。嫁入りは橋本家からではなく、幾登が広岡信五郎・浅子の養女となり、広岡家から三井家へ嫁入りするということになった。
 約1年後の明治16年1月、結納が行われ、3月には花嫁の荷物が汽車便で運ばれ、4月、婚礼の儀式が京都の北家で行われた。当然、養母の浅子は、養父の信五郎と共に出席、結盃の式は、第一盃が広岡信五郎、第二盃が三井高福(北家8代当主、高棟の父)の順で始められたという。
 このように浅子が持ち込んだ縁談の話は、目出度くまとまったことになる。ちなみに、高棟・幾登の婚礼の前年、明治15年、高景(三郎助)は大阪の高木五兵衛の長女・寿天(1865年生)と再婚している。寿天は、幾登より1歳年上であった。
 また高景の弟・高明(のちに本村町家初代当主)は、明治19年、大阪和泉の戸山忠三の妹・栄子と結婚し、伊皿子家の三井高寛(のちに8代当主)は明治19年、松坂家7代当主高敏の娘・暁と結婚し、新町家の三井高堅(のちに9代当主)は明治20年、三井高辰の長女・五十子と結婚している。このように三井各家では、この頃、婚礼が相次いだが、浅子の縁談は、そのトップを飾るものであった。
 しかし婚礼ラッシュが一段落した明治24年12月5日、惜しくも幾登は京都で病没している。享年25。それに先立ち明治18年、長男高寿が生まれているが、明治20年、死去している。母子ともに早すぎる死であった。
 翌明治25年12月15日、高棟は、旧富山藩主前田利声の長女・苞子(1869年生)と再婚することになる。ちなみに、二人とも再婚同士であった。
 浅子にとって、この縁談の話は、記念すべき大きな出来事であったに違いない。幾登の写真と高棟の婚礼については、『三井八郎右衛門高棟伝』(東京大学出版会、1988)を利用させて頂いた。
 2015年2月、筆者は、N記念館経由でD生命保険株式会社より三井家のアルバム写真が1冊あるので見て欲しいという依頼を受け、同社で拝見する機会を得た。このアルバムには浅子が所持していた写真が貼ってあるらしいとのことである。
最初の頁には、北家の高棟の写真、つまり結婚前の米国留学中の若かりしときの写真などが貼ってあり、次の頁には、若い女性の着物姿、洋装の写真などが貼られていた。そして以後は、浅子の実家である出水三井家(小石川家)の写真が色々貼られていた。
 筆者は、最初、なぜ冒頭に北家の写真が貼ってあるのだろうと思ったが、次に、高棟の先妻の写真が記憶に蘇ってきて、帰宅後、確認したところ、幾登の写真と酷似していることが判明した次第である。これをもとに類推すれば、浅子が縁談の話をするときに、高棟を紹介する際に、留学した米国の写真館で撮影した「刀を左手にもつ羽織袴姿」と「米国仕立ての洋服(制服)姿」の若く凛々しい高棟の「名刺判写真」を使ったのではないだろうか。その頁には、父・高福(8代当主)や長兄・高朗(9代当主)らの写真がひとまわり小さなサイズで添えられており、これで家族の説明もできるようになっていると見てとることができよう。
 このように推測してくると、浅子にとって、実家や三井家がらみの想い出とは、このアルバムの写真のようなものから成っていたのではないだろうか。
 ちなみに、「刀をもつ羽織袴姿」の名刺判写真は、明治はじめに米国で撮影されたオリジナルな写真で、高棟、高景(三郎助)、高明らが滞在した米国ニュー・ブランズウィッグ(ニュージャージー州)の写真館でD・クラークという写真師が撮影したものであることがわかる。