成瀬仁蔵と高村光太郎

光太郎、チェレミシノフ、三井高修、広岡浅子

浅子の実家・三井家と女子大学校 明治32年

2016年01月09日 | 歴史・文化
成瀬仁蔵は、日本で最初の私立の女子大学を、最初、関西(大阪)で創設する計画であった。
  明治30年には、大阪城南の清水谷に校地5000坪を取得している。
しかしその後、東京で創設することに変更され、募金活動が進められ、明治33年6月には三井家より東京目白台の土地5520坪が校地として寄付され、翌34年、認可創立された。
三井家の協力が得られるまでには、創立委員長・大隈重信の卓抜な指導力と成瀬仁蔵をはじめ創立事務所の麻生正蔵、戸川安宅(残花)らの血のにじむような日々の訪問活動があった。
明治32年5月12日、創立委員長・大隈重信名で、総領家の三井八郎右衛門と小石川三井家の三井三郎助あてに女子大学校の資金募集の協力を依頼する書状が送られた。
さらに5月15日には、同じく大隈委員長名で、残る三井九家へ協力を依頼する書状が送られた。
宛先は、三井元之助、源右衛門、高保、復太郎、養之助、得右衛門、守之助、八郎次郎、武之助である。
これには実は前段があった。5月8日、帝国ホテルにおいて創立委員会が開催され、出席した三菱の岩崎弥之助が5千円の寄付を約束したことが関係していると思われる(翌年5月、1万円に増額される)。
  その後、成瀬仁蔵は、三井総領家、5本家、2連家をくりかえし訪問、面談し、また三井の重役である益田孝、中上川彦次郎、三野村利助(明治34年没)、朝吹英二、池田成彬らをくりかえし訪れている。しかし益田、中上川(明治34年病没)、朝吹には訪問しても「不在」ということで会えないことが多かったようである。 参考『日本女子大学校創立事務所日誌』

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