成瀬仁蔵は、明治32年5月12日、創立委員長・大隈重信名で、三井八郎右衛門と三井三郎助あてに女子大学校の資金募集の協力を依頼する書状を送っている。
三井八郎右衛門高棟は三井総領家の当主であり、三井三郎助の小石川三井家(出水)は広岡浅子の実家であるので、三井十一家の中で、まずこの両家に依頼状を送ったのであろう。
ついで3日後の5月15日には、同じく大隈委員長名で、残る三井九家あてに協力を依頼する書状を送っている。宛先は、三井元之助、源右衛門、高保、復太郎、養之助、得右衛門、守之助、八郎次郎、武之助である
その結果、5月18日、「三井三郎助氏創立委員タルコトヲ承諾シ、仝八郎右衛門氏発起人タルコトヲ承諾セラル」と『創立事務所日誌』には記されている。
ちなみに、すでに岩崎弥之助は、明治30年10月3日、創立委員を承諾した者として芳名が記されている。
その後、成瀬仁蔵は、5月24日から6月22日まで大阪へ行き、大隈重信委員長が滞在している大阪中ノ島の花屋において、創立委員並びに発起人の主なる人々に集まって頂き、お礼や後事のことを相談している。
7月に入ると、東京女学館との合併問題が浮上し、8月には、会計監督の渋沢栄一の指導で「日本女子大学校会計規則」を作り、寄附金の管理体制を整えている。
この頃、三井家からの寄附金の話が具体的になったと思われ、成瀬仁蔵は、三郎助や三井高保に寄附金のことを相談している。
そして10月になると、成瀬仁蔵は、三井同族会事務局の秘書係長・成瀬隆蔵に「寄附金出金」のことで相談するまでに至り、事態が進展したことが窺える。
明治33年になると、「寄附金の増額」の可能性が浮上し、同時にあらたに「校地寄附」のことが具体化してくる。3月15日、「三井八郎右衛門男面談 増額ノ事ヲ依頼シ、及敷地ノ事ヲ談ス」と記されている。
4月、5月には、三井地所職の岩崎一、三井地所部と相談するようになり、成瀬仁蔵は、5月9日、校地を実際に見に行っており、「敷地ノ候補地ヲ見分ス」と記されている。
そして最終的に、6月19日、成瀬仁蔵が三井家を訪問すると、「校舎敷地寄附セラルル事ニ決議セラレタリトノコト」が知らされる。
翌20日、成瀬は三井男爵(八郎右衛門)、および三井高保に面会し、「三井家総代トシテ三井八郎右衛門ノ名ニテ土地寄附ノ事承諾セラレタリ」ということが確認され、東京目白台の敷地5520坪が寄附されることになった。
三井八郎右衛門高棟は三井総領家の当主であり、三井三郎助の小石川三井家(出水)は広岡浅子の実家であるので、三井十一家の中で、まずこの両家に依頼状を送ったのであろう。
ついで3日後の5月15日には、同じく大隈委員長名で、残る三井九家あてに協力を依頼する書状を送っている。宛先は、三井元之助、源右衛門、高保、復太郎、養之助、得右衛門、守之助、八郎次郎、武之助である
その結果、5月18日、「三井三郎助氏創立委員タルコトヲ承諾シ、仝八郎右衛門氏発起人タルコトヲ承諾セラル」と『創立事務所日誌』には記されている。
ちなみに、すでに岩崎弥之助は、明治30年10月3日、創立委員を承諾した者として芳名が記されている。
その後、成瀬仁蔵は、5月24日から6月22日まで大阪へ行き、大隈重信委員長が滞在している大阪中ノ島の花屋において、創立委員並びに発起人の主なる人々に集まって頂き、お礼や後事のことを相談している。
7月に入ると、東京女学館との合併問題が浮上し、8月には、会計監督の渋沢栄一の指導で「日本女子大学校会計規則」を作り、寄附金の管理体制を整えている。
この頃、三井家からの寄附金の話が具体的になったと思われ、成瀬仁蔵は、三郎助や三井高保に寄附金のことを相談している。
そして10月になると、成瀬仁蔵は、三井同族会事務局の秘書係長・成瀬隆蔵に「寄附金出金」のことで相談するまでに至り、事態が進展したことが窺える。
明治33年になると、「寄附金の増額」の可能性が浮上し、同時にあらたに「校地寄附」のことが具体化してくる。3月15日、「三井八郎右衛門男面談 増額ノ事ヲ依頼シ、及敷地ノ事ヲ談ス」と記されている。
4月、5月には、三井地所職の岩崎一、三井地所部と相談するようになり、成瀬仁蔵は、5月9日、校地を実際に見に行っており、「敷地ノ候補地ヲ見分ス」と記されている。
そして最終的に、6月19日、成瀬仁蔵が三井家を訪問すると、「校舎敷地寄附セラルル事ニ決議セラレタリトノコト」が知らされる。
翌20日、成瀬は三井男爵(八郎右衛門)、および三井高保に面会し、「三井家総代トシテ三井八郎右衛門ノ名ニテ土地寄附ノ事承諾セラレタリ」ということが確認され、東京目白台の敷地5520坪が寄附されることになった。