成瀬仁蔵と高村光太郎

光太郎、チェレミシノフ、三井高修、広岡浅子

西園寺公望の娘・新子と御殿場の「樺山資紀別荘」、そして白洲正子

2015年09月25日 | 歴史・文化
 樺山資紀は、薩摩藩出身、海軍大臣、初代台湾総督などを務め、伯爵を授与されている。白洲正子の父方の祖父である。
 樺山は、明治23年頃、大磯に別荘「二松庵」を建てたが、晩年、後備役になってから、明治39年、御殿場の中畑に別荘をかまえた。中畑は、二の岡、新橋、便船塚から富士山方向に向かったところにあり、樺山は庄屋の茅葺きの家屋を移築改造し別荘とした。現在、跡地は御殿場市立西中学校になっている。
 別荘「瑞雲楼」は、和室のほか、応接間や洋室があり、狩猟を好んだ樺山は、みずから仕とめた大鹿の頭部を応接間に飾ったという。写真では、屋外に洋風の椅子があるのがわかる。
 樺山(天保8年-大正11年)は、日本女子大学校の賛助員で、明治35年、樺山邸の北隅(日本女子大学寄り)に木造平屋建の寮舎2棟を建て寄付、東寮が富士寮、西寮が静明寮と命名され、この一劃が華山村と称された。樺山は、明治38年から評議員(M38-T11)を務めた。
 ちなみに、樺山の自邸は、東京麹町区永田町の洋館で、コンドルの設計、ほかに別棟の日本家屋があった。現在は参議院第二別館となっている。白洲正子はここで生まれ育っている。 
西園寺公望の娘・新子は、明治末年あるいは大正元年頃、夫・八郎とともに御殿場で避暑、樺山資紀の別荘に始終遊びにいっていたという。
 「それは七年前に御殿場へ避暑した時のことでございます。、、、、私達は土地の百姓の隠居所を借りて居りましたが、其処から少し離れたところに樺山様のお別荘がございますので、始終遊びに参って居りました。ある日のこと、その日も主人と二人で遊びに行った帰りでした。、、、」 新子はみずから写真機で写真を撮っていたらしく、画像の写真がそれである。
  白洲正子は、御殿場で西園寺新子・八郎夫妻の子どもたちとよく遊んだらしい。正子は、大磯の二松庵での祖父の思い出についても書いているが、「御殿場の生活は書き切れないほどの憶い出に満ちている」という。
  「土屋さんという家には西園寺公望のお孫さんたちが避暑に来ていたこともあり、男女三人ずつの御兄弟であったが、似たような年頃なので土屋家に滞在中はよく行き来をしていた。私はもっぱら男の子と遊んでいたが、その中の長男が長い間中国に住んでいた公一さんである。」(『白洲正子自伝』65頁)
 御殿場の便船塚にある西園寺公望の別荘71は、「西園寺公望年譜」によると、大正11年8月、実弟の住友春翠により提供されたので、新子・八郎夫妻の御殿場避暑はそれよりかなり前のことになる。 
 写真は、翌大正12年夏、便船塚の別荘を出て御殿場駅へ徒歩でむかう西園寺公望である。
西園寺は当時、75歳で、別荘内には竹薮があり、それを利用した長い竹杖をついて駅に向かっている。西園寺公望の別荘の隣には、広岡恵三の別荘70がある。2015年7月10日の当ブログ参照。
 

西園寺新子の方、富士山麓の簡易生活


東京永田町の樺山邸、洋館(コンドル設計)


御殿場中畑の「樺山資紀別荘」かやぶきの別荘




御殿場の樺山別荘にて、大正4年頃、前列左から樺山資紀夫人とも、正子、正子の母常子『白洲正子の世界』72頁より


跡地は、現在、御殿場市立西中学校になっている、同校HPより


大磯の別荘にて、樺山資紀夫妻、大正10年頃、白洲正子『ほんものの生活』81頁より


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