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常識を変えよう! Change commonsense

常識が変われば 世界はもっと広がる

若者に必要なのは30年後の未来

2018年05月15日 | 日記

科学の世界では、30年後を目指して! は当たり前の話で・・物事を成すための一つの基準ともされてるそうですよ。だとしたら 昨今、話題の自動運転車や人工知能・ioTなんかも「私たちはまったく知らなくても、科学者の間では もはや30年前から当たり前のもの」だったかもしれませんね。

では、若者に対して 私たち大人は何を示したら良いのでしょう? もちろん 彼らは、20年・30年後に壮年期を迎えるわけですから、私たちの考える〈今〉じゃないことだけは確か! でしょう。つまり 私たちの知ってる 経済・医療のみならず、人生観とか生き方。ましてや「こうあるべき」なんて話は参考程度にとどめ、もっと彼らにとって【私たちの思う世界観とは異なる リアルな未来】を提示してあげねばならないのは 当たり前の話に思われます。

であるならば、学校教育のみでいいのか? 親が先行きを決めて良いのか? まわりの友人だけで本当に満たされるのか? それだけでは足りない気がします。もっと大きな側面から、また 多様な見地から・・未来! というものを 彼らがつかみ取れるよう、様々な事象を 視点を変えて伝える必要があるかもしれませんね。

とくに 医学は医学で! 建築は建築で! ビジネスは経済で! なんて思想へとらわれることなく、むしろ 医学へ建築や経済は応用できないか? 人の健康へあたるなら、とにかく何でも使えるものは使う! 過去も現在も未来も加味しながら、とにかく成果・効能・結果をあげるためには どんなものも取り入れる! こんな姿勢こそが大切になってくるのでしょう。

これからは専門家・専門職が消えゆく世界! と言われます。ならば 医学者もビジネスマンも、科学者として未来を見据えた人になりゆくことが重要であり・・専門家・専門職に未来がないのなら、柔軟性ある総合力や 多様性および もっと広い見地を身につけておく。そのために今から 何に成り、どんな事をし、どう成りゆくのか? を熟慮してゆく。それも一つではなく あらゆる経験と実践を重ねながら・・そんな見方も不可欠となるはずです。

未来は今の延長ではありません。未来について 正しい! とされてる事だって 確定的なものは何もありません。確かなのは 今とは違う! という事のみ。ならば、どのようにでも対処できる。どうなってもやってゆける。そんな生きるための智慧や総合力みたいなものが 今後は重要になってくるのでは? どんな業界へ身をおいても、これからは何をするにしても・・30年後を見据える科学者の目が求められてる。そんな気がしてなりません。


WHO 東洋医学を認定へ

2018年01月09日 | 日記

日本や中国の伝統医療が、今春にも開催される世界保健機関(WHO)の総会で認定される方針だそうです。国際疾病分類(ICD)にも、伝統的な東洋医学の章が追加される見通しとなった事で・・業界関係者の間では「これまで西洋医学一辺倒だった医療基準の転換点になるとともに、独自に発展してきた日本の伝統医療の再評価にもつながる。」と期待が高まってるみたいですね。

この背景には、近年 力を増してきた中国の影響が多大にある! のは当然として・・その他にも、やはり 最先端医療(もはや医学ではなく科学としての医療)の台頭によって、世界的に「医学業界と大学・研究機関・製薬会社などの利権構造」に何らかの限界やほころびが見えてきた事も大きな要因としてあげられるでしょう。

どのようなものでも “ひとつのマーケット” というものは、時代の変化につれて自然消滅してゆくにすぎませんが、それを無理矢理 引っぱり続けるのも、足下をすくってしまうのも・・国際的な背景を起爆剤として、どのように社会全体として その業界を定義するか? が分かれ目となるのでしょう。つまり 存続するも、なくなるも 世界の潮目次第であり、そろそろ潮時なら(現実的に不必要。もしくは 変化の時期に差し掛かったのなら。)消える定めなのは申し上げるまでもない事です。

その意味では 上記のように「西洋医学からの転換点・伝統医療の再評価」といった見方もできるでしょうが・・戦後すぐに和漢を消滅させて、一部を西洋医学へ組み込んだ上で 再構築したのも欧米なら、また これを見直す! と決めたのも欧米。ちょっと御都合主義なのでは? との想いも頭をもたげてきます。

いずれにしろ、鍼灸や漢方以外にも、柔道整復師やマッサージ師など 多種多様な和の医療は存在しますが、これを欧米の都合で取り入れた “たんなる流行” で終わらさないためにも・・生き残りのチャンス! と捉えて、門徒が開かれたなら世界へ!といったところが有益な判断となりうるのでしょう。

間違いなく 効能=結果をどのように示すか? が 今後のカギとなりますが、効能こそが 東洋医学の本質である以上、これは避けては通れない道! であり、何が何でも目に見える効果を世界へ知らしめる! そんな意気込みや自覚こそが、いま最も必要とされてる気がします。


今すべき事と将来への準備とイノベーション

2017年09月08日 | 日記

物事には「今 すべき事」と、将来のために「今 進めておく事」そして 未来のための行う「イノベーション」の3つがあるように思います。

先日《防災科学技術研究所》にて「構造物を宙に浮かせる実験」が成功しました。今後は “数千トンの建物” を使って 成果を検証するそうですが・・将来的には『街ごと浮かせる “フロートシティ” 』も視野にいれ 開発を行ってゆく! との事ですから、これって まさに「未来へ向けたイノベーション」と言えるでしょう。

つまり 地震に関する防災では “避難計画の明確化や各人の対策” などの【今 すべき事】防波堤建設や建築基準の厳格化といった 将来にわたり継続しながら【今 進めておく事】そして、上記のような わずか100分の数ミリでも地面から浮かせ 免震効果を最大に近づける【イノベーション技術の開発】の3つが実施されてるわけですが・・これは個人・企業・団体のいかんに関わらず、同じかもしれません。

たとえば、お仕事や家庭などでも【今 すべき事】はたくさんありますし、将来へ向けて、資格の取得や語学学習などのスキルアップ【今 進めておく事】に頑張ってる方もたくさんいらっしゃるはずです。けれど ここへもう一つ! 自らへの【イノベーション】も加えておく! ということですね。どんな事象においても、現状を急には変えられません。また 近未来も、おそらくは現在の延長線上が予測されるでしょう。しかし 数年後から以降は そのかぎりではない! のです。

げんに 時代の変化や未来を読み解く材料として・・今ある暮らしや一般に言われてる事に限らず、科学や技術の発展にも十分 目を配り、その上で、いかにここへ適応してゆくか? といった事についても、思慮深く 思考・行動せねばならなくなってきたのは事実です。もはや一昔前の・・自身にもお子さんに対しても「良い学校を出て、良い就職先を得て」といった通常の考え方に留まる事なく「技術は刻々と進化してるのだから、もっとやれる事・すべき事・成せる事もあるのではないか?」といった柔軟な態度でいるほうが、より現実的なのは申し上げるまでもないでしょう。

識者は皆「将来、今ある職業のほとんどはなくなってしまうだろう。それと同時に 新しい職業・生活環境も次々生まれてくる。」と語っています。私は今現在、学校にて医学を勉強し直してますが、実感としては「未来の医療は医学のかぎりではない」との明確な確信も得ております。常識は常識として、今は今として・・それはそれ! 未来を考えるなら、もっとやれる事・他にもすべき事・目を向けるべき事も多々ある! と感じます。

これまでの社会が、政治や法律などにはよらず、常に技術や科学によって変わってきたように、おそらく個人単位でも、常識や今の延長では大きく変わらないのは明白でしょう。大きな流れへ寄り添う形で 時代に則すのも大切ですが、あえて これを無視する側面も同時に持ちながら、今は荒唐無稽な事も未来には可能! との思考・行動も一緒に、自らの中へ混在させておく必要も出てきてるのでは?

進化する技術や変わりゆく環境は 人生に冒険をもたらします。ありきたりより 他に楽しい事も無数にあるでしょう。今はできない事も、いつかは出来るように! どんどん早くなる時の流れは そんな努力も人に求めてるのかもしれません。


コレステロールと食事は関係がない?

2017年07月14日 | 日記

ご存知の方も多いと思いますが、先頃、動脈硬化学会と厚労省から「コレステロールと食事との間に因果関係はない」との発表がなされました。

医学知識のある方なら当たり前の話ですが『体内コレステロールのほとんどは体の中で作られますから、食べ物や飲み物として外から摂取する・しないに関わらず、その値は 本来、ある程度一定に調整されてるはず』なんです。なのに「現在、重篤な症状でもないのに、どうして殊更に摂取量を気にしなければならないの?」と不思議に感じられてた方もけっこういらっしゃるのではないでしょうか。

また コレステロールだけでなく、その他の“いま話題の抑制すべき成分”の多くにも・・これは同じことが言えるわけで・・TVで、カロリーとかプリン体・特保なんて話題が取り上げられるたび、何だかちょっと不思議な感じもしますよね。

したがって『塩分ひかえめ』とかも、食事より内器官にその要因があることはよく知られてますが・・もちろん、そういった謳い文句で売り上げが左右される各種メーカーも、ここからスポンサー料をいただいて、お国に管轄されてるメディアなども、こんなの大きな声で言えるはずもなく・・今後もニュースや健康番組でこういった事がアナウンスされなくても、それはそれで仕方ないことなのでしょう。

いずれにしろ、幸いにも、人にはあらゆる面で自動調整機能が働いています。本当に絶妙かつ完璧なバランスが働いてるからこそ、人は生きていられるので・・個人的には、あまりひどい症状でもないかぎり、過剰な自己調整や無理な運動は避けられたほうが良いとも考えてたりします。

何事も偏りは禁物ですが、これは健康に関するあらゆる観念においても同様では? じつのところ 予防医学といった、最近できた新しい分野より、バランスのよい食事と生活、心地よい程度の体操や散歩みたいな・・昔から言われてることのほうが 人にとって最も最適な暮らしぶり! と言えるのかもしれませんね。


人は見たいものを見て、信じたいものだけを信じている

2017年06月08日 | 日記

人はたいてい『自分が見たいもの・信じたいもの・心地よいもの』を好みますよね。だから “難しい事や努力を要する事は拒否して、簡単にわかるもの(誰かが結論付けたもの)” ばかりチョイスしがちです。

ちなみに 世間では「わからないことをわからない」と答えることがあまり許されていません。学校でも 家庭や会社でも「わからない」と答えれば、教師や親・上司・取引先などは何と言うでしょう? 「わからないまま放置しないで 自分でちゃんと調べてわかるよう努力しなさい」と叱られるのがおちでしょう。したがって、そういった習慣が【わからない事をわからない】と、けして認めない大人を作り出してしまうとも考えられます。

経営をしてるとよくわかりますが・・人にきちんと対応する! 誰にでもわかるよう簡単に説明できる! といった能力は たいへん高度なものです。また、その逆もしかりで・・説明もしないで結論だけを述べる! ちゃんとわかるように解説できない! のは、じつは 知らない・わかっていないから! とも見なされます。 

【わからない事をわからないと言えない生活】は『わからない事を他に悟られせまいとする人物』を育てる可能性があり “わからない事を悟られまい” とするがゆえに・・信じたいものだけを信じ、見たいものしか見ない習慣も生じてくる。まずは 何事もやってみる! わからないのはやった事がないだけ! これが当たり前の世の中になれば、安易に誰かや社会が結論付けた常識に左右されない、実行あるのみ! の自立した人物も多く輩出されるような気がしてならないのですが。


哲学の成り立ちとまっさらな認識活動

2017年05月12日 | 日記

認識とは ①物事を見分けて本質を理解し、正しく判断しようとする心の働き ②人間(主観)が事物(客観的対象)を認めて、それらを知ろうとする働き です。

まとめますと『①は「本当の事が知りたい」との人間の切なる願いであり ②は自分と社会との客観的関係性を知る働き』になりますが・・つまり 人間は「本当の事が知りたい。生きる意味って何なの?」その答えを見出すために、これまで認識活動を行ってきた! と言っても過言じゃないわけですね。

しかし今は、そういった人間の切なる願いである認識活動も、時代とともにどんどん純粋さを失くして「理屈や解釈がいっぱいつけられた、たんなる論理と化す」傾向も見てとれます。

そもそも 認識論には「人が理解できる限界について考察する学問」として発展してきた経緯もあり、これって最初は『科学哲学』や『科学認識』と称されていたと聞きます。哲学の始祖であるプラトンは、つねづね「知識なんてものは、師や賢者が一方的に教えられるものではない。弁論術による対話を通じてようやく到達できるものである」と弟子たちに言い聞かせており、つまり彼は「これが真実だ!なんてものはすべて嘘である」と皆に口酸っぱく説いていたことになりますし・・また その弟子のアリストテレスやソクラテスなんかも「知には常に何らかの前提が存在している。だから その前提となる事象そのものが、その都度問われるべきである」としていました。

彼らが提唱した 最初の哲学に基づくなら・・やはり、何かを認識する際には、今ある前提のすべてをいったん排除してしまう必要が出てくるかもしれませんね。何もない まっさらなところから、新たな気持ちで物事を再認識してゆく。これが理解を深めてゆく上では、最も大切なことなのかもしれません。


品性の意味とは

2015年02月23日 | 日記

世間では、よく品が大事と言われます。【品・品性】とは “道徳的” な基準から見た その人の性質・人格・人柄ですが・・では、この “道徳” とは一体どんなものなのでしょう。

【道徳】とは 人々が善悪をわきまえて正しい行為をなすために、守り従わねばならない規範の総体で、外面的・物理的強制を伴う法律とは異なり、自発的に正しい行為へと促す内面的原理として働く。これは小・中学校で行われる指導領域のひとつで、昭和33年に教育課程として設けられた。と辞書には出ています。つまり、これって 学校教育の一環として作られた “道徳の意味づけ” ですが・・まさしく一般の方が想像する道徳とは、このような当時の教育関係者がこしらえた道徳そのもの! と言えるかもしれません。

しかし 元々の道徳の意味とは 《道と徳を説く》であって、中国の老子の哲学なんですよ。老子のいう「道徳」とは、人や物の存在を成り立たせる根本的な原理を指し、物事が “道理としての道” に合っていて、はじめて他に何かを与えられる “徳“ になりえるというもの。つまりこれを『道と徳がひとつとなった』道徳と表してるのです。したがって、この視点から上記の例に照らし合わすなら【品性】とは『物事の道理に合っていて、他の徳を与えているかどうか』といった基準から見た その人の性質・人格・人柄となりますから、その意味合いもずいぶん変わってくるではありませんか。

たとえば ファッションなら、自分の装いが 他も含めたすべての環境と共にあり、なおかつ その行いの産物として、自他ともに何らかの効能を生み出す。これが品格ある装いになると思われます。よって、その装いに シチュエーションに応じた環境が考慮されており、自身だけでなく、相手に何らかの効果を及ぼさないなら、これは当然、下品ということにもなってしまうわけですね。つまり、その場その場で装いとは変わるものであって、もし「装いをマニュアル化してる」ならば、そんな装いなんて 何も効果を与えない! ということでしょう。

さらに老子はこうも述べています。「上徳の人物は、そういった哲学を自らが身につけてる事すら意識しないが、下徳の者は、自分の“異なる品性“を維持するためだけに毎日努力している」 さらに老子は、世間で言われる偽りの「礼・礼儀なんて、いさかいがあることを前提とする人たちのあだ花にすぎない」 ようするに、彼らがいう礼節など、はなから間違ってるのだから、そんなもてなしをすれば、相手の気分を害するので争いが起きるに決まっている。よって、最初から諍いが生じる礼など尽くしてるゆえに、何事にも言い訳を用意しておく必要があるのだ! と述べてるわけです。

一流のデザインは『機能・性能・効能』を兼ね備えてこそ。上徳をもたらす者が、自らにも他の人にも徳をもたらすなら、徳とは 維持するものでもなければ、画一化されたものでもないのでは? その時々で機能・性能・効能も異なるように、こういった道理は変化の中にしか期待できないと思うのです。すべては一体であり密接に関連しています。ゆえに自然に関する概念も、人間社会すべてに共通してるのが道理でしょう。

まさしくそういった観念に従った生き方こそが共生と呼ばれる気がしますが、ならば デザインも立体として一体形成型なのは当然であって、3Dプリンターなどの技術を通じて 科学はやっとここへ追いつきつつあるようにも感じられます。

すなわち、道など説かなくても、それが科学技術という実証によって、自然な形で社会へ反映される時代になってきた! これからは、鮮明で壮大な立体の世界が待ち受けてることが予想されますから、セルフデザインこそが、あなたの環境そのものを変えてしまう時代の幕開けなのかもしれませんよ。だとしたら 仕事にも装いにも、品ある性能や効能・機能性を追求してゆきたいものです。


ストレスの正体。ストレスとはいったい何でしょう?

2015年01月14日 | 日記

現在はストレス社会と言われます。しかし そもそもストレスの正体って、いったい何なのでしようか? 少し難しくなりますが、ストレスの正体をはっきりさせるために、これを科学的見地から考察してみる事にいたします。

辞書でストレスを引きますと「寒冷・外傷・精神的ショックなどによって起こる 精神的緊張や生体内の非特異的な防衛反応。または その要因となる刺激や状況。生物学的には、何らかの刺激によって生体に生じた歪みの状態を指す。」と出てきます。つまり、その人にとって 嫌な事・不快な事・怪我の他に、物理的な寒暖などによって “通常ではない刺激や状況” が生じ、肉体的・精神的な歪みが出る! これをストレスと呼ぶ! という解釈ですね。

しかし 何事においてもそうですが・・・こういった意味付けにおいて留意せねばならないのは、上記のような解釈が『商用利用目的で創作されたもの。いわゆる “お金儲けやマーケット的な観点で流布された作り話話ではないか?”』という疑念をつねに持っておくことではないでしょうか。

そもそもストレスとは、医学とはまったく無関係の「元々は材料力学上の専門用語に属する言葉」であって・・つまり そういったある意味 “別分野の使えそうな語句” を、商売に利用できそうだ!として、適当にそれらしく関連付けたものが、現在の常識になってしまったのではないか? といった考え方・物の見方なんです。

材料工学におけるストレスの意味とは・・たとえば スプリングを引き伸ばしたり、ゴム球を押し縮めたりした時に、その物質の内部に生じた歪みや応力の度合いを指す用途で使われ、ここには以下のような解釈があり・・それは ①この加えられた力は、その後 元に戻る力(復元力)として働く!といった力学的認識 ②その物質にかかった力が物理的限界を超えた場合には形態自体が崩壊する!といった物質の加工や形成に関わる論理的見解の二つになるでしょう。

さて、このように分けてみますと・・最初の辞書の解釈が『いかにも』に感じられてくるから不思議ですね。ようするに “もしも この材料工学用語を人間に置き換えるとしたら” ①人間にはストレスが必要である。それは元に戻る力を呼び覚ますからだ。これを利用すれば、免疫力の向上がはかられるのみならず、あらゆる実践的・経験的知性の鼓舞にもながるだろう。よって ストレスとは人間にとって有益かつ良いものである!との結論が導かれるはずなんです。ただし ②ストレスが限界を超えた場合には、人格的・肉体的崩壊が起こるかもしれない。だから その都度、解消したり緩和したりして、ストレスを蓄積させない事が重要になる。よって 人間にとって、ストレスとは有益であるとともに悪いものにも成りえる。といった二つの側面が出てくるのは当然に思われますよ。しかしながら、たいていのマーケットでは良い点が排除されて、悪い部分だけがクローズアップされてはいませんか? これは世間で言われる その他のリスクに関しても同様かもしれませんね。

まとめますと・・・物事には必ず良い面と悪い面がある! けれど その悪い面だけを殊更に強調して恐怖を植え付け「これを克服せねばならない」といったリスク回避における飢餓感を植え付ける行為が世間では横行していて、その最たるものが、何でもかんでも『ストレスが原因。ストレスは速やかに解消すべきもの。』といった観念かもしれない! ということなんです。

そもそもストレスの原因は、ストレッサーと呼ばれ、その外的刺激の種類から ●物理的ストレッサー(寒冷、騒音、放射線など)●化学的ストレッサー(毒・薬・麻薬など)●生物的ストレッサー(病や孤独感など)●感染心理的ストレッサー(不安心理)に分類されています。また ストレッサーが作用した際に生体は、刺激の種類に応じた特異的反応(パターン的免疫作用など)と、刺激の種類とは無関係な一連の非特異的反応(イレギュラー的ストレス反応)の二つを引き起こすことも知られてるみたいですね。

ただ 本来、ストレス反応とは、ホメオスタシス(恒常性=元に戻してバランスを取ろうとする力)によって、一定に保たれてるわけですから・・・それは同時に、生体の諸バランスが崩れた状態(ストレス状態)から回復する! といった作業が、体内で常時行われているがゆえに維持されるものでもある!ということも示します。よって人間とは、つねにバランスを崩した状態から復元を繰り返すことで生命を維持する!安定的であると同時に、不安定な生物である!ともとらえることができるのです。

もちろん過剰ストレスが限界を超えてしまうと、そのせいで身体や心に摩耗も生じますが、この身体的・精神的摩耗の事を、専門用語ではアロスタティック負荷と呼び・・・たとえば、外敵に襲われるような緊急事態においては、生理的・心理的な反応が即座に起こり、すみやかな避難や回避行動を起こさせたりするのですが、それも本能的な生きる力によるものでしょう。つまり、この生体反応こそが、交感神経系によって副賢髄質から分泌されるアドレナリンの効果と一致して、心拍数増加や心拍出量増加・筋肉血管拡張・呼吸数増加・気管支拡張・筋収縮力増大・血糖値増加などの『緊急事態の回避に有効なストレス反応』を生じさせ、日常生活の危険から私たちの身を守ってくれてもいるわけですね。

ここまで考察してみますと・・・なんとなく、ストレスの正体もおぼろげながらに見えてくると思われますが・・通常のストレスとは、身体内の反応を促進する有効なものだが、それは心拍や呼吸などの変化を伴わないため、普段は自分では意識できないし、また意識されてもいない。しかし、異常および過剰なストレスは、危機回避のために有効なものであると同時に、その際には心拍・呼吸などの増加を伴うため、本人にも その認識が明確に生じる!ということになります。

従って、通常ストレスに関しては何の問題もないし、むしろ免疫力・経験値向上のためには、すすんで作り出すべきものでもあるが・・・それは普段意識されていないのだから、殊更に恐れたり避けたりする必要もないはず。しかし異常や過剰なストレスが生じた時には、それは明確に本人が意識できるので、それに立ち向かうかどうか?は、その都度本人が決めることになるわけで・・・要するに、そういった緊急事態において、心拍や血流の増加が【はっきりとその本人に自覚された際】に、ここへ立ち向かうための闘争を選択するのか? ただ避けるための逃走を選ぶのか? は本人次第であり、その対処法いかんで、人生も決まってしまう!という側面も垣間見えてくるのです。

ちなみに科学では、アドレナリンが この闘争・逃走のどちらにも有効であることがすでにわかっていますから「ストレスが自覚された際に闘争と逃走のどちらを選ぶのか?は、ご本人の選択の問題である」ことは、もはや科学的な純然たる事実と言える気もします。いずれにしろ、私たちには・・ストレスを回避したり、上手に騙しだましつきあうといった消極的な言動だけではなく、あえて活用するという手だてもありそうです。そう考えると、もしかしたら、素晴らしい偉人たちは『あえて自らへ降りかかるストレスを真正面から受け止めて、これを有益なものへと活用できる達人だったのではないか?』そんなふうにも思えるから不思議です。


恥の文化から生じる意気と野暮

2014年12月24日 | 日記

恥じらいや羞恥心とは「自らを恥ずかしいと感じられる事」です。よって、一般的に言われる“恥知らず“の本来の意味とは『自分を恥ずかしいとは感じられない事』を指すのでしょう。しかるに野暮とは、意気の反対語ですから【意気とは何か?を知らない。恥知らずだとわからない。】ゆえの行いと言えるかもしれません。

ちなみに意気とは・・気質・態度・身なりなどがさっぱりと垢抜けしていて、自然に親しむ事を好み、色気のある事ですが、これは江戸における美意識(美的観念)のひとつであり、江戸時代後期に江戸深川の芸者(辰巳芸者)に関して、当時の民がこのように形容したのが始まりとされています。要するに、身なりや振る舞い・生き方が洗練されていて、カッコよい様を賛美した言葉。これが意気なのです。

また野暮とは・・人情の機微に通じず わからず屋で融通のきかない様。言動や趣味などが洗練されず無風流で無骨な事。くどくどしい説明などを用いて利発さを装ったり他を卑下し金銭への執着が激しい人などを指しますが、現代では、非実用的で表面的な見栄えの重視、ブランドへの無批判な信仰と依存、時代遅れのファッションや規則に固執する役人根性 、過剰な多機能なども野暮とみなされてるようです。

1930年に『いきの構造』という著書を出した 九鬼周造によりますと・・意気とは「他の言語に全く同義の語句が見られないゆえに、日本独自の美意識として位置付けられる」そうで、いわゆる一種の理想主義だとも表現されてますが、ここでは、ある種のやせ我慢とか反骨精神にこそ、それが顕著にあらわれると記されており、さらによく “いき” は、しばしば「粋(すい)」とも表されますが・・この粋は、本来 恋愛や装飾などの美を突き詰めた文化様式(読み物や着物など)に使用されるものであって、江戸文化の「意気(いき)」とは異なるとの見解もあります。つまり 彼が述べる意気とは、外側の見かけや物質に対する形容ではなく、その人物の中身としての理想・・人としての究極の様を表したものである!といった解釈もできるでしょう。

従って、意気に関する正しい使い方とは・・その方の生み出した二次媒体(仕事の成果や装いなど)ではなく、一時媒体としての その方本人(その仕事を成し遂げた方の“人となり“や 素晴らしい装いをしている本人のセンスのよさなど)に関する形容であることがわかってきます。

つまり 人が意気でいるためには「気質・態度・身なりなどがさっぱりと垢抜けしている=生き方に清潔感がある」「自然に親しむ事を好む=自然科学に精通している」「色気がある=性的魅力 すなわち異性にもてる」「身なりや振る舞いが洗練されている=動きや会話が卓越してる」「カッコ良い=態度・行動が爽やかで誰もが心ひかれる様」を身にまとわねばならないわけで・・もちろん 爽やかとは【心と体が正常で言動が偏らず、何事にもバランスが取れていて、すべてが正常に機能した揺るぎない状態】ですから、心身ともに健全かつ健康である!と同義語になるのは申し上げるまでもないでしょう。

江戸時代の日本人って「意気な人になれ。野暮は蔑まれるべき態度。」と公に推奨しながら、すべての方が健常者であるべき!との指針も世情へ反映してた いかにも意気な人たちだったのかもしれません。


正しさとは事実であって損得ではない

2014年12月02日 | 日記

“正しさ” とは何でしょう? 辞書を引きますと「道理にかなっている。事実に合っている。正確である。」と出てきますが・・これって、つまり 自然科学や哲学における “真理” のようなものかもしれませんね。しかし現在、巷で使用されてる意味は、これとは “似ても似つかないもの“ であり、おそらくは『得があれば正しい。損になれば間違い。』と 受け取られてるように感じます。

正しさというものを分類してみますと・・現代社会では「本人の得になる事=道徳・作法」「社会の得になる事=常識・法律」といった解釈がなされてるのがわかりますが、ようするに これらはもはや、現代では『道徳や作法を守らないとあなたが損をする。常識や法律を順守しないと社会が損をする。』といった考え方に様変わりしてる事も よくおわかりになるのではないでしょうか。

ただやっかいなのは、人間がそういった “正誤の基準=損得を瞬時に判断している点” にこそあるような気がしてならないわけで “瞬間に判断している“ ということは、すなわち【無思考】と同じ。つまり 思考が働く前に結論を下す! これが瞬時の判断になる次第です。従って 人には「これは正しい事なのか?」と熟考する習慣がなく、いつも無思考に正しさを判断してることになるのですが、この “無思考の瞬時の判断“ そのものを【思想】と呼ぶのかもしれません。

もし 人が常時 “その固定化した思想” によって “すべてを無思考かつ自分や社会の損得のみで判断してた” としたらどうでしょう? その選択は常にワンパターンになってしまいませんか? ようするに人は・・一度それが「自分の得になる」と信じ込めば、何も考えることなく 思い返すこともなく・・ずっと「瞬時に、それと似たような事象に関しては正しいと判断する」ものなんですが、これについては、また 反対も真なりで、一度それが「自分の損になる」と感じてしまえば、その後は無思考に 似通った出来事を誤りと思い込んでしまう」そんな見方もできるでしょう。

さて、そもそも得とは? また 正しさとは何なのでしょう? それって 哲学的・自然科学的にいえば、じつはあり得ない事になってしまうのですね。何故なら、もしあなたが “道理に合う事。事実。正確な事“ のみをしているなら、その目算通り・額面通りの事象が起こるだけだからです。つまり 自らが思い描いたとおりの物事が発生するのであれば、こんなの得にも損にも成りえない! そこには起こるべくして起こった事実のみがある! こととなり・・・あえて 損得など考える必要もないゆえに、そんなの初めから存在さえしないことになるわけです。

したがって、もしその方が損得で正しさを判断するような言動や行動をとるのであれば・・これは 未来を予測できていない証拠にも成りえるのでは? との考え方もできますよね。つまり 正しさを損得で選択するのは・・未来を予測したり、事実をきちんと捉えられていないから! とも、とらえることが出来るように思います。


連鎖で作られて崩壊したバブル経済

2014年11月13日 | 日記

物事って、たいていは【連鎖と波及で出来てる】ように思います。つまり「この連鎖や波及の流れが行き着く先を、ある程度世間より早く読み取れたならば、ほとんどのビジネスはうまくいく」とも考える事ができるかもしれませんね。ところで、あの日本のバブル経済って どうやって発生し、そして崩壊したのでしょう? これを例にとって、連鎖と波及について少し考察してみることに致します。

まずは、電電公社がNTTとして民営化されたところからが始まりですよ。これを機に、証券会社と政府が「なんとか日本にも株式文化を根付かせようではないか」と、よこしまな考えを持ったと推測されるのです。そこへ新聞などのメディアが乗っかり、ことさらに「株を購入するようけしかけ」そしてほどなく、この思惑はまんまと成功。今まで株には縁のなかった一般の方々が、一斉に株を購入し始めたがために、日経平均が38,000円代へ突入する事態を向かえたのです。

すると、当然ながら “大企業は株式を新たに発行するだけで莫大な資金調達ができます” から、銀行からお金を借りなくなってしまいます。企業がお金を借りてくれないので困り果てた銀行は、貸し出しの目を “じつはお金を借りる必要性がまったくない一般市民“ へと移してしまうのですね。そこで「この絵画を買いませんか? お金はいくらでも当行が貸し出します」「この土地やマンションを買って運用しませんか? お金も貸しますし、新たな買い手も私たちが探しますよ」といった、いわゆる当時よく見られた “銀行によるお金を借りてください行脚” が全国で始まってしまったのですね。

こうなると、土地や建物・絵画などの値段は上昇の一途を辿り、ついには【運用に縁なき一般市民が土地も建物も購入できない状態】が発生してしまいます。そこで「私たちにも家をよこせ」といった地元のクレームに困り果てた政治家たちはどうしたのか? とうとう官僚へ圧力をかけて、強制的にこの流れを断ち切るよう指示を出さずにはいられなくなって、ほどなく財務省から銀行に対して貸出禁止のお達しが出される。お金の流れが完全に止められれば、当たり前のように 誰もお金を借りられなくなって・・その後はご存じのとおり、土地を買わない、もちろん絵画など買わない!  価格も価値も大暴落!あえなく バブルは崩壊といった具合になったわけです。

上記を簡単に図式化してみますと『株式マーケットを構築するために官民一体となって株価のつりあげ工作が行われる ⇒ 企業がお金を借りなくなったために、銀行は一般市民へ過剰な貸し出しを行うようになる ⇒ 不動産ころがしなどが始まり 価格が高騰する ⇒ いったん あぶく銭を手にすると、みんなもはや歯止めがきかなくなる ⇒ 不動産価格高騰のため 家を買えない人が続出 ⇒ 政府が強制的に貸し出しを終了させる ⇒ バブル崩壊』という流れになるでしょう。

ちなみにリーマン・ショックでは、これが『低所得者向け住宅金融(サブプイムローン)』へ名目が変わっただけで、じつは貸出過剰の流れとしてはほとんど同じことが起こっただけ・・まさに、これって連鎖と波及以外の何物でもありませんでしょ。よって、世間では「あんな狂乱は二度と起こらないよ」なんて、まことしやかにささやかれたりしてますが・・実体は、おそらく また金融マーケット手法による同様の流れが出来れば、再度同じような現象が起こるのは目に見えてるような気がしませんか。これらを回避するにはきっと、ビジネスが連鎖と波及で出来てる事を、よくよく認識しておく必要があるのかもしれませんね。


利益誘導社会を生き抜くために

2014年11月10日 | 日記

「世の中なんて・・国の政策にしろ 経済や健康関連にしろ、何もかもが嘘だらけだ。」とお思いの方も多いのではないでしょうか? もちろん経済や国の政策などは マーケットと同じく “ある程度は創作せねば立ち行かない” のも確かですよね。しかし、ものは考えよう。どうせすべて嘘なら『その目的そのものを変えてしまう方策』もある気がします。

つまり 世の中では、ある種の【利益誘導】が目的化してるわけですから・・そこから生じる益が ①利益誘導を目論む者のみにあるのか? または②誘導している側と誘導されている側 双方に生じるのか? が問題になってくるということなんです。

しかるに、利益誘導という目的は同じであっても、誘導先が“自分だけなのか?” それとも“自他共なのか?” は【その方策が知的であるかどうか?】にもかかわってくるように思われてなりません。目的が自己利益なら、それはたんなる捏造や嘘にすぎませんし、それが社会貢献という他の利益を念頭に置いたものなら、嘘も知的となり、より多くの要素を含む発展・進化を目算したものになるのも道理でしょう。

ただ、ここでひとつの疑問が頭をもたげてきませんか? それは上記の①でも②でもなく・・自己犠牲によって、他の利益にのみ生きる人生もあるのではないのか? といった考え方です。けれど、それはボランティア活動限定でのお話かもしれませんね。経済においては 一方的な自己犠牲はタブーとされており、それでは継続性が生じないので、結果として誰のためにもならない! との解釈もあるからです。

よって、双方の益を目指す知的行為こそが経済の基本となるのは間違いありません。ならば やはりビジネスの基本は、最初の目的を見直すことに尽きるような気がしますね。「これは自らと社員だけの益なのか? それとも 自らを含めた すべての方に益がある事業なのか?」を、経営者はつねに再考しておく必要があるのでしょう。


能力を発揮して人生を謳歌する

2014年10月21日 | 日記

謳歌とは「声を合わせて歌う事。声をそろえて褒めたたえる事。」ですが・・これが “人生を謳歌する“ になると『恵まれた幸せを 皆で大いに楽しみ喜び合う事』といった意味になるかもしれません。ただ “恵まれた幸せ“ を感じるには【すでに恵まれていた事を自覚できてる必要がある】のも事実ではないでしょうか。

ところで、なぜ人って『人間は元々素晴らしい生き物なんだ』と思えないのでしょうね? それって、幼い頃から「人間は未熟な生物だから、使い方もわからず能力を発揮したらとんでもない事になる。よって 社会や常識が許す範囲の言動しかしてはならない。自由にしてはいけない。」と教育されたり、周りからもそう言われ続けてきたからかもしれませんよ。ならば、大人になっても「自分なんて何もできやしない・与えられた役目だけを果たすべき・誰にも迷惑をかけない範囲でやれることだけをやるのが分相応」なんて思い込んだとしても不思議ではありませんよね。

けれど、そもそも その能力をいかんなく発揮してこそ、人の素晴らしさって 初めて実感できるものではないでしょうか?  小さい時から「発揮するな」 と言われ続けてきた私たちには “能力の発揮の仕方がわかりませんし、そのための訓練を何も受けていない” のが実情に感じられます。

しかるに 最新の科学によれば『赤ちゃんは あらゆる言語や音に関する聞き分け能力を有している』らしいですね。ようするに、これは “大人になるにつれて、普段の生活で使われない不必要な音が省かれていく” ことを示します。しかし、もしも『あなたが普段の生活で使わない音が徐々に聞き取れなくなっている』のなら “普段使っていない音を意識してもう一度使うようにすれば、その能力は取り戻せるかもしれない” とも考えられませんか? 


つまり「音に関して 人間の能力を最大限に発揮したいのであれば、赤ちゃんの時の聞き分け能力をもう一度取り戻す必要がある。そして、そのコツは使う事にある。」というわけですが・・人間の能力が【使わなければ使わないほど失われてゆくもの】なら【人生を謳歌すればするほど能力が取り戻せる】のも、また事実かもしれません。そう考えれば、人生は いろんな変化を楽しんで、より多くの能力を発揮して使った者勝ち! とも言える気がするのですが。


世がマスカレード (Masquerade)ならば・・・

2014年10月10日 | 日記

マスカレード (Masquerade)には、仮面舞踏会のほかに “見せかけや虚構” といった意味があります。見せかけや虚構と聞くと、いかにも悪いイメージを持ちがちですが・・じつはこれって「想像力によって、人物・出来事・場面などを設定して、これらを緻密に組み立てながら、事実ではないことを事実らしく作り上げる行為」を指しているのですね。つまり、マスカレードとは 小説などの創作物すべてに共通する 何かを作り上げるための基本中の基本と言えるものなんです。

では、ビジネスって事実だけで成り立つのでしょうか? いろいろ深く考察してみれば、現在では当たり前の 自家用車も家電商品も、一家に数台も必要なものではありませんよね。よって、厳密に申し上げれば 便利・簡単とか、先進的な暮らしなんてのも、虚構によって作られた一種のマーケットには違いないのです。

そもそも事実とは『自然科学へ属するもの』であって、それは実証科学の分野に限定される事象と言えますが・・もちろん 経済やビジネスは、一部を除いてここには属さないのは申し上げるまでもないでしょう。したがって言い変えれば、ビジネスにおいて問われるのは「フィクションを、いかに既成事実化して真実へと変えてゆくか?」に尽きるような気もするのです。

もしも、世の中のほとんどが マスカレードならば・・作られたものは 新たに作ることでしか払拭できないもの。ならば きっと、何が正しいかを論じるより、新しいものを創造することこそが重要で・・その過程において、役立たない古いものが無価値となって消滅してゆくだけの事なのかもしれませんよ。


医学と科学 そのスタンスの違いについて

2014年09月19日 | 日記

1967年にマーギュリスが提唱した『細胞内共生説』これは「ミトコンドリアや葉緑体・中心体などは 人の細胞内で人間と共生する他の生物」とする説で・・現代科学では、ほぼ これも実証されてきてるのが現状です。

ちなみに ミトコンドリアとは・・独自のDNA(ミトコンドリアDNA)を持つ生物で、多くの生命現象に関わる酸素呼吸の場として活動するもの。葉緑体は・・光合成をおこなう 半自律性の細胞。中心体は・・コケ植物や藻類の一部に見られる細胞を持つのですが、それぞれが独自の核を有する 人とは異なる生命体として、私たちの体の中でたしかに存在するものなのだそうです。

このうち、ミトコンドリアについては、古くからガンの発生に対する関与が指摘されていて「ガンとは・・ミトコンドリア遺伝子の突然変異によって引き起こされたもの」との指摘が随時なされてもいるのですよ。その理由としては「特定の発がん性化学物質が、DNAよりも ミトコンドリアDNAのほうへ結合しやすい事」「ガン組織は 正常組織よりもミトコンドリア遺伝子に高い割合で突然変異が蓄積している」などの観察結果が挙げられています。

けれど、こういった見解って、世間でははあまり取り上げられていませんよね。なぜか? 簡単に言えば、それは・・ここにいくつかの矛盾があるからなんです。ひとつは「母性遺伝するガンの存在が完全には まだ確認されていない事」二つ目は「DNAの影響を完全に排除して、ミトコンドリア遺伝子単独でのガンへの影響を検証する手法がいまだ確立されていない事」が主な理由になっているわけです。しかしながら 2008年の筑波大学のマウス実験では、ガンの転移や悪性化に ミトコンドリアが関与していたとの発見もなされていますし、最近では 人間のガン細胞株においても、ミトコンドリアの突然変異が ガン細胞の転移を誘導しえることなども徐々に明かされてきています。

ここからわかってくるのは、医学と科学とでは、それを研究・実施する者の認識形態が完全に異なるということではないでしょうか。そもそも 医学というのは 臨床の世界であって、法律と同じように 過去の事例に基づいて処置法も蓄積されてきた経緯があり、多くの再現パターンによって、まずは その経過が明らかにされねば「手を付けない」といった世界観があるわけです。しかしながら、科学は あくまで仮説と考察による推論構築からなるものであって、それらは必ずしも再現性のみで語られるものではなく、可能性や未知を解明する手法に由来するとも理解できそうです。

したがって、医師から言わせれば「科学なんて所詮は現場主義ではなく ただの想像にすぎない。どんな副作用があるかわかったものじゃないのに、そんなことしたら患者に責任がとれないじゃないか。」となるでしょうし、科学者からみれば「医学なんて50年は遅れている。新たな可能性へ挑戦もせず、同じことばかりしてるじゃないか。それじゃあ、ただの作業員と変わらないよ。」となるかもしれません。つまり 双方ともに一理あって、いかんともしがたい状況があるのですね。

これって、いかにも難しい問題ですが・・最近のiPSの臨床にしても それはしかり! かもしれません。加齢黄斑変性やタナトフォリック骨異形成症に関する見解も、医学畑の方は「そんなの まだまだこれからだ」と言われるでしょうし、科学関係の方は「すごい功績だよ」と興奮を覚えずにはいられないでしょう。個人的には私は後者のスタンスであり、可能性を信じますが・・ある意味 事故を防ぐには前者の立ち位置も重要ですよね。ただ、何事も「否定のための否定」では 未来が立ち行かないことだけはたしか。大切なのは、たとえそこに矛盾があろうとも、両方の見解を同時に持ち・・未来を信じて将来に期待を抱きつつ、大胆に行動しながらも、かつ慎重に前へと歩を進めることかもしれません。