CELLOLOGUE

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女子挺身隊聞き書き 日本航空機工業松戸製作所の母 3

2022年08月19日 | ぼくのとうかつヒストリア

空襲

米軍爆撃機等による関東地方の空襲は昭和19年11月からで、松戸市や周辺地域にも何度も飛来しました。しかし、B-29による大都市空襲のような計画的な爆撃ではなく、余った爆弾の投棄、散発的な艦載機、戦闘機による軍事施設や市街に対する銃撃(機銃掃射)が主でした。松戸市街は焼夷弾や爆弾による大規模な被害は受けておらず、松戸製作所もほとんど被害を受けずに終戦を迎えています。
今里廣記は、松戸は空襲を受けたが「工場は余り焼けずに無事残っていた」と回想しています(『財界交友録』)。母も、製作所の方は人的、施設的にも被害はなかったと言っていました。


松戸製作所があったあたりの様子
画面奥が五香方面で、中央の道路(県道57号線)の左側に松戸飛行場・乗員養成所(現陸上自衛隊)、右側に日本航空機工業の工場があり、大きな建屋が並んでいました。
戦後、一帯は住宅街に変貌し、軍需工場があったことを示すものは何もありません。元飛行場の敷地も開発されて松飛台と呼ばれるようになり、それが唯一の痕跡かも知れません。(2015年11月撮影)


母は、松戸製作所にいた昭和19年から20年の間に2回機銃掃射に遭っています。日付は確かではありませんが、5月と11月でした。
1度目は、空襲警報が出て、経理課の他の女性社員と事務所裏手にある社宅の防空壕(松戸製作所は敷地内にあった社宅の庭に防空壕を設けていました)に逃げ込もうとした時に、バリバリという物凄い音とともに足元に銃弾が飛んできて土ぼこりが舞い上がり本当に怖かったといいます。

2度目は、工場に来た父親と守衛所の近くで面会していた時でした。突然、空襲警報が鳴ったので空を見上げると、もうそこまで戦闘機が迫っていて、いきなりバリバリと撃たれたそうです。幸い、銃弾は外れ二人とも無事でした。戦闘機はそのまま飛び去ったそうです。パイロットは、恐らく、地上に人影が見えたので銃撃したのだと思います。マスタングだったとすれば、主翼の12.7mm機銃6丁に狙われるわけですから、命中すればひとたまりもありません。

飛来した戦闘機(母はいつも艦載機と言っていました)は2回とも1機のみで、低翼単葉で鉛色をしていたと言っています。「遊びに来たのだろう」と母は言っていたのですが、遊びで殺されてはたまりません。この言葉は、「遊びのように気まぐれでやって来た」ように思えたととるべきでしょう。
また、パイロットは、Targets of opportunity(臨機の目標)として、臨機応変に何でも撃てと命令されていたので、限られた時間の中で少しでも手柄を挙げたかったでしょう。

母は2度とも命拾いをしたわけですが、二度とあんな目には遭いたくない、平和が一番だと言っていました。


特攻隊の見送り

昭和20年5月18日、会社からの指示があって、午前10時頃、社員は隣接の松戸飛行場へ特攻隊員の見送りに行きました。訓練に励んでいた特攻隊がいよいよ九州方面へ出陣するのを見送るためでした。
天気は快晴。飛行場で行われている出陣式を、母達は格納庫のあたりから並んで見守っていたそうです。
飛行場には軍人やモンペ姿の国防婦人会や関係者が列席し、搭乗員11名が一列に並んでいました。その中の1名が小さな白い遺骨箱を首から下げていたのが印象に残ったといいます。母は搭乗員の愛児の遺骨と思っていたそうです。

見送りについて、母の知っていることはこのくらいで、飛行機や離陸は見ていないといいます。母などの女子挺身隊や社員は長く飛行場にはとどまらず(10~20分くらい)、じきに職場に戻ったのでした。特攻隊は式の後に離陸、別れの挨拶に上空を旋回して飛び去りました。


二式複座戦闘機「屠龍」(キ-45改)(1/72模型)
松戸飛行場に展開して首都圏の防空を担っていた飛行第53戦隊の所属機を模型化したものです。第45振武隊の装備、機体色とは異なります。米軍側の呼称はNick。

(諸元)
乗員:2名。
動力:ハ-102空冷複列星形14気筒、1050HP×2。プロペラ:金属製可変ピッチ3翼。
寸法・重量:全幅15.0m、全長11.0m、全高3.7m、自重4,000kg、搭載1,500kg
性能:最大速度540km/h(高度6,000m)、実用情報限度10,000m、航続距離2,000km
武装:12.7mm×2、20mm×1(機首)、7.7mm旋回銃(後席)×1、250kg爆弾×2
製作:川崎航空機。生産数:1687機.(『日本航空機総集』第4巻から)


この特攻隊は、陸軍の第45振武隊です。振武隊(しんぶたい)とは、陸軍における特別攻撃隊の名称です。第45振武隊は、昭和20年2月に鉾田教導団(茨城県)で、藤井一中尉(戦死後、少佐)を隊長に12名で編成されました。機種は二式複座双発戦闘機「屠龍(とりゅう)」でした。屠龍振武隊は、陸軍の那須野(黒磯)飛行場を経由して3月28日に、同じ屠龍の基地である松戸飛行場に到着し、訓練に励みました。

ところが、4月28日の訓練中に中田少尉機が着陸に失敗、大破、同乗の坂恒夫伍長(無線手)が殉職する事故が発生しました。出陣式では、機体を失った中田少尉に代わり小川少尉が坂伍長の遺骨(分骨)を預かり首に懸けて共に出撃しようとしたのでした。
母はこの光景を見たのでした。


その後の特攻隊 

もちろん、母はその後の第45振武隊を知りません。文献をもとに松戸を出陣した後を追ってみると概略、次のようになります。(推測を含みます)


中田少尉を残し、松戸飛行場を飛び立った第45振武隊は、陸軍の小月飛行場(山口県下関市)で体当たり用の改修を受けた後、九州の知覧に移動します。遅れて、代わりの機体を調達した中田少尉が到着し、第45振武隊の再集結がなりました。

出撃は5月28日、午前5時頃でした。第9次航空総攻撃の1隊として、屠龍3個小隊9機は知覧飛行場を離陸、沖縄の海を目指します。天候は晴れ、目的地までは約650kmです。屠龍隊は、敵の眼を逃れるために1km間隔で飛行しましたが、途中、米軍に発見され5機を失います(1名が生還)。

午前7時頃、残る4機が次々と沖縄本島残波岬の北西海域に到達しました。
そこは第15レーダー・ピケット地点で、米海軍駆逐艦ドレクスラー(USS DREXLER, DD741 、1944年11月就役、アレン・M・サムナー級駆逐艦、 排水量2200トン、乗組員336名)と同型艦のローリー(USS LOWRY, DD770、1944年7月就役)と小艦艇数隻がレーダーによる監視任務に就いていました。

最初の屠龍は、すぐさま、上空を警戒していた4機のF4Uコルセア戦闘機に襲われ火を噴きながら墜落しました。続いて2機目が低空からローリーに突入を試みますが、対空砲火を受けて目標を変え、800ヤード(約730m)離れたドレクスラーの舷側に体当たり、爆発しました。ドレクスラーは機関室が破壊されて蒸気が噴出、推力を失っただけでなく傾き始めました。

この直後、コルセアを振り切った3機目の屠龍がローリーの正面に急降下。しかし、対空砲火が当たり回転しながら艦尾の海面に墜落しました。
7時3分頃、ローリーの右舷側に4機目の屠龍が低空で接近してきました。2機のコルセアが追尾していました。屠龍はローリーをパスし(二人の搭乗員の姿が見えたという)ドレクスラーに向かいました。

ドレクスラーの砲火を受けながらも屠龍はその上を越え、旋回すると正面に回り込みました。操縦者の白いマフラーが見えるほどに接近したその瞬間、左翼端をマストの索具に引っかけ真っ逆さまに魚雷発射管の上に落下、爆発しました。同時に大爆発が起こり、火の玉と黒煙が上がりました。ドレクスラーの上部は粉々になって吹き飛び、艦体は裂け海水が大量に流れ込んで転覆、艦尾から急速に沈みました。黒煙が消えるとドレクスラーの姿はもうありませんでした。


小形艦艇とローリーが約150名の生存者を救助しましたが、158名が戦死しました。ローリーでも数名が負傷したほか、3名が精神に異常を来たし病院船に搬送されています。ローリーは翌日以降も同じ地点で別の僚艦2隻とともに任務を継続しています。つまり、ドレクスラーを失ってもレーダー監視任務は継続されたわけです。

日本側は、この日の戦果として「巡洋艦一隻ほか一隻に命中炎上、艦種不詳一隻撃沈、艦種不詳一隻大破または撃沈、艦種不詳一隻撃破」(『ドキュメント 神風』)と発表しました。しかし、実際は、5月27日から29日までの合計でも、駆逐艦ドレクスラーと別の1隻の撃沈と大破、その他、小艦艇の被害にとどまるようです。

つづく


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