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チェロローグ + へようこそ! 万年初心者のひとり語り、音楽や身の回りのよしなしごとを気ままに綴っています。

女子挺身隊聞き書き 日本航空機工業松戸製作所の母 4

2022年08月22日 | ぼくのとうかつヒストリア

終戦

沖縄戦は、5月末頃には組織的な戦闘は終了し、6月23日には日本軍沖縄守備軍最高指揮官牛嶋満中将が自決しました(後の沖縄県慰霊の日)。沖縄航空総攻撃は7月を最後に打ち切りとなりました。果敢な航空特攻でも戦局は変わりませんでした。やがて、本土決戦が準備される中、大型爆撃機や艦載機による空襲が地方都市にも広がり、戦争は最終局面を迎えます。


昭和20年8月15日は暑い日でした。日本航空機工業では、正午に会社の庭に集合してラジオ放送(玉音放送)を聞きました。母にはよく聞き取れず、意味が分からなかったそうですが、周りの人に聞いて戦争に負けたことが分ったようです。そして、その翌日にはほとんどの人が帰郷しました。日本全国の軍需工場は、終戦により作業打ち切り、軍需会社法による軍需会社の指定解除があり、女子挺身隊は解隊、帰郷したのでした。

日本航空機工業は、当時専務・松戸工場長であった今里廣記の人脈による情報収集でいち早く敗戦を知って予め対策をしていたようです。8月16日には会社を解散、全従業員に退職金を渡すという早手回しでした。(『私の財界交友録』)これは、企業経営者としての危機管理能力があり、従業員への配慮もあったということですが、一方で、書類など軍需工場の証拠も焼却された上に、後述のように社名も変更され、建物も解体されて歴史から消えてしまうことにもなりました。

母は給与担当だったため、8月15日以降も強制貯金の返還の仕事のため残留となりました。他の残留従業員とともに残務整理にあたらされたのです。ようやく、9月上旬にお役御免となりましたが、鉄道が混乱していたので貨物列車に乗って帰ったそうです。しばらくして、野田の町に行くとアメリカ兵がいたそうです。世の中はがらっと変わっていました。


日本航空機工業株式会社は、親会社であった日本特殊鋼材工業株式会社が日本金属産業株式会社と改称したことに合わせ、第二日本金属産業株式会社に社名を変更、軍需から民需へ転換を図りました。松戸製作所は松戸工場とされましたが、休止後、売却、解体されました。足立製作所は自転車工場に、津田沼製作所はペニシリン工場に譲渡されました(『日本金属五十年史』)。その後、松戸製作所の跡地は住宅街となり、軍需工場の痕跡すら見られないほどに変貌を遂げました。

昭和21年3月、第二日本金属産業株式会社は日本金属産業株式会社に吸収されましたが、初代社長に就任したのは今里廣記でした。同社は、昭和29年に、日本金属株式会社となり現在に至っています。

松戸飛行場は、占領軍にとっては「非軍事使用のためなら日本側に解放可能」とされ、接収はされましたが、まもなく解除され(『鎌ケ谷市史研究』no.19、2005)、自衛隊松戸駐屯地以外は開発されて工業団地となって、松飛台(まつひだい)の名のみを残すことになりました。


新京成電鉄元山駅
この辺りは、かつての松戸製作所の敷地内で、飛行機組立の大きな建屋があった辺りと思われます。(2015年11月撮影)



元山駅ホームから五香駅方を望んだ情景
津田沼行きの電車がカーブを進行して来ます。この付近に松戸製作所の事務棟があったのではないかと、私は推定しています。(2015年11月撮影)


元社長の訃報

戦後40年経った昭和60年5月、母は日本航空機工業の元社長、今里廣記の訃報に接します。テレビのニュースで流れたのを偶然聞いたのでした。今里は、郵政省電気通信審議会長、日本電信電話株式会社取締役相談役、日本精工相談役になっていました。

1985年5月30日付の朝日新聞夕刊は、「財界の『官房長官』との異名を持つ」今里の死去を報じています。享年77歳。通夜は5月31日、密葬が6月1日に大田区の池上本門寺で執り行われ、時の総理大臣、中曽根康弘首相が両日ともに参列しました。葬儀は、日本精工社葬として、6月14日に青山葬儀所で執り行われた。「財界の大物」に相応しい葬儀であったことでしょう。正三位勲一等旭日大綬章を贈られています。この時、母の戦争が本当に終わったのかも知れません。


* 


おわりに

小さい頃に母から聞いた、飛行場、特攻隊、軍需工場が何であったのか、聞き取りを進めながら自分でも調べて少しづつ理解できるようになりました。それは、平和を享受して生きてきた身には想像しにくい世界でした。まとめが終わる頃に母は他界し、残されたいくつかの問いに答えてくれる人はもういません。

この聞き書きには、機銃掃射を別として、劇的なことはありません。しかし、ごく普通の生活をしていた女性が軍需工場にとられ、1年間近くを不自由に暮らしました。
戦争は、普通の生活に静かに忍び寄り、いつの間にかすべての人を巻き込むもののように思えます。母の体験が、戦争を体験した人が少なくなり、戦争が風化していくことが懸念される現在、少しでも役に立てばと思います。

戦争が当たり前、死ぬのが当たり前という雰囲気に覆われた社会になってはならないと思います。戦争で苦しむのは最も弱い国民であり善人です。母は、実は、こう語ったのかも知れません。

終戦後、結婚し、私たち兄妹を育ててくれた母に感謝しながら、この稿を閉じたいと思います。最後までお読みいただき厚く御礼申し上げます。

(おわり)


重複になりますが、当時の女子挺身隊、日本航空機工業関係者の方、あるいは掲載した写真に写られている方、あるいは当時の様子をご存知の方がいらっしゃいましたら、コメント欄にて是非ご連絡いただければ幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。




聞き取り調査
平成27年(2015)10月~平成28年(2016)2月。流山の母の住まいにて。


お礼

鎌ケ谷市郷土資料館様
平成17年度企画展「戦争の記録と記憶in鎌ヶ谷;戦後60周年事業」及び第16回ミニ展示「鎌ヶ谷村の太平洋戦争;戦後70周年」における展示及び解説がこの聞き取り調査の出発点になりました。ここに記して感謝申し上げます。

白虎様
第45振武隊に関して貴重な情報をいただきました。ここに記して感謝申し上げます。



主な参考文献

1. 『平成17年度企画展 戦争の記録と記憶 in 鎌ケ谷』平成17年7月.鎌ケ谷市郷土資料館.
2. 『第16回ミニ展示鎌ケ谷村の太平洋戦争;戦後70周年』平成27年7月.鎌ケ谷市郷土資料館.
3. 『平成27年度館蔵資料展 松戸市平和祈念展』平成27年7月.松戸市立博物館.
4. いのうえせつこ『女子挺身隊の記録』、1998.7、新評論.
5. 古山素代『凜と咲いて;わたくしの人生紀行』文芸社、2005年9月.
6. 栗田尚弥「松戸飛行場開設のころ;辻忠尾氏に聞く」『鎌ケ谷市史研究』no.11、1998、p.42-58.
7. 栗田尚弥「「帝都」防衛からシロイ・エアーベース、そして自衛隊基地へ;松戸・藤ヶ谷飛行場小史」『鎌ケ谷市史研究』no.19、2005、p.19-41.
8. 松戸市史編さん委員会編『松戸市史』下巻2、大正・昭和編.昭和43年5月刊.
9. 日本航空宇宙工業会監修、野沢正編著『日本航空機総集』第1-8巻, 出版共同社.1960-80.
10. わちさんぺい『空のよもやま物語;空の男のアラカルト』(光人社NF文庫)2008年9月.
11. 水山嘉之「極秘・本土決戦用特攻機『タ号』」エアワールド.v. 3, no. 2, p.84-87. 1979年2月.
12. 今里廣記『私の財界交友録;経済界半世紀の舞台裏』 サンケイ出版、1980.11.
13. 日本金属株式会社『日本金属五十年史』1980.11.
14. 日本精工株式会社『回想 今里廣記』編集委員会編:回想 今里廣記.昭和61年5月.同編集委員会発行.
15. 防衛庁防衛研修所戦史室『沖繩・臺灣・硫黄島方面陸軍航空作戦』(戦史叢書87) 朝雲新聞社.1970年7月.
16. 生田 惇『陸軍航空特別攻撃隊史』ビジネス社、1977年12月刊.
17. 押尾一彦『特別攻撃隊の記録:陸軍編』光人社、2005年4月刊.
18. デニス・ウォーナー、ペギー・ウォーナー、妹尾作太男 共著、妹尾作太男訳『ドキュメント神風』下.(徳間文庫)徳間書店.1989.08.15.
19. E. Andrew Wilde, Jr., ed.: The U.S.S. DREXLER (DD-741) in World War II; Documents, Photographs, Recollections., Massachusetts, 2003.
20. John Glenn Acord, Jimmie Lewis Holbrook: Hell and high water in the Pacific; the story of the USS Lowry, DD770. Vantage press, New York, 2000.
21.『アメリカ駆逐艦史』(世界の艦船;1995年5月号増刊 第496集、増刊第43集)海人社、1995年5月.


公開履歴
2016年5月16~30日、「日本航空機工業松戸製作所と母」として5回に分けて掲載。
2022年8月15~22日、上記の改訂版(本記事)を4回に分けて掲載。


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