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チェロローグ + へようこそ! 万年初心者のひとり語り、音楽や身の回りのよしなしごとを気ままに綴っています。

女子挺身隊聞き書き 日本航空機工業松戸製作所の母 2

2022年08月17日 | ぼくのとうかつヒストリア

軍需工場での毎日

前述のとおり、経理課で働いた母は、工場とは別棟の事務棟にいました。事務棟には、他に社長室をはじめ、総務課、勤労課(学徒動員を含む工員の労務管理をしていた)、建設課、資材課がありました。

経理課は給与計算と原価計算とに分かれていて、母は給与の係でした。松戸製作所の社員約150名、工員、動員学徒等約2,000人の給与計算や支払いを3人で担当していました。月に一度、東京の大手町にあった本社へ、3、4名で出かけて行き給与をもらってきていたそうです。現在からは考えられません。


丸の内の風景(戦後〔占領時代〕の絵はがき)
右側の建物は明治生命館で、日本航空機工業の本社はこの裏側辺りにあったと思われます(詳細は確認中)。戦時下でもあり、現金に関わることでもあり、母はこのような風景を眺める余裕はなかったと思います。


社長(当時は松戸工場長)は今里廣記(1908-1985)で、会社で何度か姿を見かけたそうです。体格がよくて色黒だったそうです。他に伊藤という役員がいたと言っていたので、恐らく、津田沼製作所として合併吸収した伊藤飛行機株式会社の伊藤音次郎(1891-1971)常務だろうと思われます。


仕事は、原則、月曜日から土曜日まで、9時から5時までの勤務で、月給は30円でした。そのうち半分は食費(寮費)として天引きされたそうです。
昼食は社員食堂でとったのですが、ひどいものだったらしく、聞き取りの時も不快そうでした。
社員の昼食は水っぽい雑炊で、大根には虫がついていたそうです。毎日1本宛松戸の高梨牧場から牛乳が配給されていたといいます。また、時々、パンや乾燥バナナが配給されることがあったようで、これはおいしかったと話していました。
一方、工場の監督に来ていた軍人の食事は白いご飯で、時にはかつ丼が提供されたりして厚遇されていたそうです。そう話す母の表情は少し険しく見えました。


寮生活

東葛地区出身者にあてがわれたのは、松戸の平潟(ひらかた)の社員寮でした。ここは江戸川の舟運で栄えた平潟遊郭の名残りでしたが、昭和18年には軍の命令で閉鎖されていました。それを日本航空機工業が松戸製作所の寮として買収したものでした(『松戸市史』下巻)。

平潟遊郭は江戸川土手に出る緩くカーブする道路を挟んだ一帯ですが、母は、周辺のことまではよく覚えていませんでした。現在、町名は変わり住宅地としてすっかり様変わりしてしまっていますが、当時の面影を残す平潟神社や来迎寺(近年、改築されている)が唯一の生き証人と言ってもよいでしょう。しかし、母はこれらの社寺についても知っていませんでした。慣れない会社での仕事と寮生活と軍国的風潮などから、社寺仏閣に特段の興味を持つ余裕はなかったのでしょう。一方、和風と洋風の建物が混在していた街並みであったことは覚えていました。

平潟の寮は、三枝寮(さんしりょう)と呼ばれていました(妓楼としての屋号は確認中)。舎監として、寮長、寮母と料理人がいました。寮長は歌舞伎の猿之助の親類と言っていたようです。また、寮母も梨園の関係者らしくすらりとした美人であったとのこと。松戸の工場長であった今里廣記は、歌舞伎界にも縁があったということなので、これらのことに関係があるのかも知れません。

三枝寮を前にした集合写真(昭和19年頃、松戸市平潟)
入隊の記念写真と思われますが、戦闘帽に国民服でカーキ色一色です。顔や髪型にはまだあどけなさが残ります。前列中央の男女が、寮長、寮母、左端が板前と思われます。建物の意匠に元遊郭の雰囲気が窺えますが、女子寮に元遊郭をあてがうとは…


寮の建物は和風の3階建てで、妓楼らしく1階は二畳(三畳かも知れません)程度の狭い部屋がいくつもあって迷うほどだったといいます。ここに2人ずつ入れられて寝起きしたのです。3階は広間と4畳半の部屋がありました。この建物に30人くらいの女性が寮生活を送っていました。家具などはなく、着の身着のままの状態で寝起きしていたそうです。入浴は、内風呂があり、順番に2、3人で入ったといいます。トイレは1階のみ。そういう環境でした。

服装は上下ともにカーキ色の国民服で戦闘帽を被っていました。寝る時もそのままだったようです。ノミ、シラミにたかられる不衛生な生活でした。戦争末期のことで、寮でも料理は不味く量は少ないものでした。
厳しい生活でしたが、同じ部署で働く友人もでき、自由だった休日には松戸や金町の家にお邪魔してご馳走になった思い出を話してくれました。ただし、電車で家に帰ろうとしても思うように切符が買えない時代だったので苦労したようです。


三枝寮内での集合写真(昭和19~20年頃、松戸市平潟)
寄宿していた女子挺身隊員の集合写真。42名の顔が見えるので、おそらく全員と思われます。最前列の3人の男性の身分は不明。


寮から工場への通勤は、会社がチャーターした貸切バス(京成バス)を利用していました。バスは京成バスの車庫前から出ることになっていたので、そこまではたんぼ道を歩いて行きました。川がいくつかあったと言っていたのは、坂川、六間川のことと思われます。車庫は、流山街道際にあり、向かい側には玉三白玉粉(川光物産)の店舗と工場があったそうです(根本付近と思われます)。

バスは、五香・六実方面に向かって走り、途中で高梨牧場や八柱霊園(日暮)が見えました。五香の交差点(現在の五香十字路)に来ると、お寺(善光寺)の角を右折して踏切(鉄道連隊演習線で当時は線路はなく踏切のみがあった)を渡るとじきに工場(松戸製作所)に着きました。

工場は、鎌ケ谷方面に向かって道路(現在の県道57号線)の左側(現在の新京成線元山駅付近)にあり、松戸飛行場と松戸高等航空機乗員養成所が右側(自衛隊側)にありました。それ以外は畑と山林だけの田園風景が広がっていました。
つづく


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