Casa de Celia

iHasta la victoria siempre!

語り継ぐ者の1人でありたい

2005-06-29 | Monologo(独り言)

 引き出しの奥から古い手帳が出てきた。
 1995年夏、中国を訪れたときに、思ったことごとを書き留めたものだ。
 昨今、「南京虐殺なんてウソっぱち」と言って恥じない人がいる。そうした主張を目にするたびに、苦いものを感じてきた。そんな折に、この手帳を見つけたのも何かの縁かもしれない。
 10年前に訪れた南京の街と、そこで伺った証言者の話をここに転記しておこうと思う。
 語り継ぐ者の1人でありたいから。


【南京の街】
 褐色のレンガ造りの街並みを、プラタナスとヒマラヤ杉の並木が覆っている。木陰になっている古い家の前で、背もたれのあるいすに座ってくつろぐお年寄り、軒先に台を一つ置いて、何か調理して打っている店。彼らの上を時間がゆっくり過ぎていく。南京は、そんな穏やかな街だ。

【南京虐殺記念館へ】
 正式な名称は「侵華日軍南京大遇難同胞紀念館」。それだけで、中国を侵した日本軍によって南京の同胞はまるで動物が屠られるように、人としての命を顧みられることなく殺されたのだという中国の慟哭が伝わる。
 花と黙祷を捧げ、施設に入る。緑の美しい広場には埋葬されずに放置された人々の慰霊碑が点々と立つ。一つひとつの碑に、の状況が碑文として刻まれているという。周りは、残虐行為を描いたレリーフの壁に囲まれている。
 記念館の中には虐殺・強姦といったコーナーごとに写真に説明が加えられ、展示してある。
 全部、日本人の仕業なのだと、そして、私は日本人なのだとの思いを刻みながら一枚一枚の写真の前に立つ。自然に頭を垂れ、祈りを捧げている私がいる。
 写真の半分ほどは、本などで目にし、見覚えのあるものだった。しかし、南京の街を実際に歩き、穏やかに暮らす人々を見てきた私の目は、写真の不鮮明さを補う。

 別室で記録映画を見て、それから、2人の体験者にお話しを伺った。
 恋人と思われる人と家族の大半を失ったその人は、当時を語るうち、通訳がいることも忘れて、じかに訴えてくる。言葉はわからなくても、彼の怒りと悲しみが胸に鋭く突き刺ささる。

【証言者/潘開平さん(78才)】
 1938年12月13日、南から日本軍が入ってきて、南京が占領された。
 私は、両親が早くに死んだので、おばと弟と3人で暮らしていた。
 12月14日、3人の日本人が来た。私は人力車の仕事をしていたので手に豆があり、帽子のあとが日焼けしていたので軍人だろうと言われた。
 大方巷(地名?)に閉じ込められた。たくさんの人がいた。3日間、飲まず食わずで置かれたあと、7、80人の日本人が来て、一人ひとりを縛った。その300人くらいの中国人は、5、6人一組に繋がれ、南京の西の石炭港まで護送された。その先には機関銃が据えられていて、日本軍に囲まれた。一人が「撃て」と言うといっせいに撃ち始めた。午後3時頃だった。
 その時、私は3日間、食べていなかったので自然に倒れた。となりの人は弾に当たって死んだ。機銃掃射が終わると日本兵は死体を銃剣で刺して死んでるかどうか検査する。そのときに自分も死体と一緒に腕を刺された(袖をまくり、肉が割れたような深い傷を示す)。
 夜になって正気を取り戻したときは、縛られたまま上の死体は固くなっていた。腹の力で這い出ると、7人が生きていた。枕木で磨いて縄を解いた。それぞれ逃げようということになり、難民区に戻った。
 揚子江の水で傷を洗ったが、すでに水が血に染まって赤くなっていて、服も赤く染まってしまった。近くの家に入って服を盗んで着替えて逃げた。
 市内に戻り、近所の老人に3日間食べていないと言って食べさせてもらい、ワラの中に隠してもらって、しばらくしてから家に帰った。弟とおばは泣いて迎えた。腹が減っていたので、何か食べさせてくれといった。
 1週間して、日本人がまた来た。隣の家の24歳の出産したばかりの女性が暴行された。
 日本人の南京での罪は語り尽くせない。水さえ赤く染まった。あの時の300人の死体は埋葬する人もなく、慈善団体が埋葬した。町も焼かれた。言い尽くせない。
 昔の罪は人民の罪ではない。一握りの軍国主義者の罪である。平和のために、ともに努力しなければならない。私は広島にも行った。日本人も被害者である。
 歴史の教訓は次世代に伝えなければならない。

【証言者/伍生善さん(73才)】
 私は、家族を7人殺された。家も人も焼かれた。
 寧海路の近くで、家は大きく、商売をやっていた。12月13日、午後1時、飛行機で爆弾が落とされ、難民区に入った。
 午後7時、3人の日本人が来た。2人は銃を持って、1人は日本刀を持っていた。水を指につけ、机に「支那軍」と書いた。脅されて外に出された。自分と父親は家から離れなかったが、銃剣で追い出された5人は今も消息がわからない。翌日、捜しに行ったが見つからなかった。帰ると、祖母が泣いていて「家が燃やされた」と言った。翌日、おじいさんと日の丸を揚げて捜しに行った。やはり見つからなかった。
 自宅に帰ってみると、まだ煙が上がっていた。手伝いのおじさんがいたが、捜したら焼けて一隅に炭になっていた。
 17日、1人の日本人が来て、祖母に「きれいな女はいるか」と聞いた。祖母は耳が遠いので聞こえなかった。すると、銃剣で刺された。綿入れを着ていたお陰で助かった。次に日本人は祖父を刺した。祖父が柱になっていたような家で、彼が死んで一家は非常に困った。
 生活に追われて店をはじめた。日本兵が来たが、近所でよく知っている女の人が買い物に来た。すると日本兵は自分の買い物をせず追いかけて行った。髪の毛をつかんで壁に打ちつけて強姦しようとしていた。私は、死んでもこの女性を守ろうとして日本人の手をつかんだら、「ばかやろう」とののしり、私の顔を銃剣で刺した。私はそこで気を失った。
 3ヶ月後、家のベッドで気がついた。あの女性はと聞くと、辱めを受けて自殺したということだった。
この戦争で、家族が7人、そして隣人を失った。
 中国人民にもたらされた災いは、一握りの軍国主義者のためにもたらされたものだ。もうことようなことがないために、両国人民が努力し合わなければならない。


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