誠一は溜息まじりに弱気な独り言を漏らすと、蛍光ペンを持ったまま、背筋を反らして大きく伸びをした。凝り固まった体に感じる適度な刺激が心地良い。思わず欠伸も出そうになるが、自席ではまずいと思い、眉をしかめながら何とか噛み殺した。
机の上には、下着メーカーから入手した通販購入者リストが広げられている。
怪盗ファントムに繋がる情報として、スポーツ紙の写真や下着のことを捜査二課に報告したが、彼らはあまり重要視していないようだった。容疑者に対する裏付けのひとつとしてなら有用だが、ここからファントムの正体を割り出すのはほぼ不可能に近い、ということである。その意見には誠一も同意する。だからといって、放置しておくのももどかしく、自分ひとりで捜査することにしたのだ。
まず、可能性がありそうな14~39歳女性を対象にしてみたが、9割方がこの範囲内であり、あまり絞り込むことは出来なかった。さらにそこから東京都内在住の者を選び出してみる。今はこの作業を進めているところであり、それなりに減りそうな手応えを感じているものの、数百人の単位では残りそうだった。
あとは一人ずつ回ってみるしかない。本人と会えば、体型等からもっと絞り込めるはずである。
だが、たとえある程度の目星を付けられたとしても、おそらく捜索令状は請求できず、ファントムに繋がる確実な証拠を得るのは難しいだろう。やはり決定力に欠けるのだ。おまけに、あまり考えたくはないが、通販以外に直営店での販売もあるというのだから――。
それでも絞り込んでおくことに意味はあるだろうと、折れそうな気持ちを立て直し、再び蛍光ペンを握って購入者リストに向かった。
「手伝ってやろうか?」
飾り気のない白いマグカップを手にした岩松が、香ばしい匂いを漂わせながら、背後からひょっこりと覗き込んできた。
「いえ、黙認してもらえるだけで有り難いです」
目の前でファントムを取り逃がした誠一に同情しているのか、岩松をはじめとする捜査一課の同僚たちは皆、この担当外の捜査を黙認してくれていた。もちろん、それは本来の職務が忙しくないときに限られる。
「あれ、これ澪ちゃんじゃないか?」
何気なくリストに目を落としていた岩松が、そのうちのひとつを指さして顔を近づける。そこには確かに彼女の名前があった。下手に詮索されると立場が危うくなりかねないので、澪から情報を得たことは伏せていたが、彼女も通販購入者であるため、当然ながらリストには名前が挙がっているのだ。
「そうみたいですね」
誠一はごまかし笑いを浮かべて曖昧に答えた。
「澪ちゃんがファントムだったりしてな。ホントよく似てるしなぁ」
「ちょ、悪い冗談はやめてくださいよ」
思わずギョッとして振り向くと、岩松はニッと白い歯を見せる。
「そろそろ予告時間だぞ」
どことなく面白がるようにそう言って、彼はそばにあったリモコンでテレビをつけた。リポーターの興奮した声がフロアに響く。その場にいた同僚たちも、ほとんどが手を止めて振り向いた。まるで野次馬のように、呑気に談笑しながら、怪盗ファントムの登場を待っている。
テレビのデジタル時計が予告時刻ちょうどを告げた。
そのとき、ライトアップされた怪盗ファントムの姿が、ブラウン管の大きな画面に映し出された。凛とした佇まい、すらりと長い手足、艶やかになびく黒髪――顔は仮面で隠されているものの、確かに、澪によく似ていると認めざるを得ない。
ふぅ、と誠一は溜息をついた。音を立てないように立ち上がると、そっと扉を開け、空調のきいていない廊下に足を進めた。冷たい壁にもたれかかりながら、携帯電話を取り出して澪にかける。
トゥルルルル、トゥルルルル――。
何度か呼び出し音が鳴ったあと、留守番電話センターに繋がり、感情のない女性の声が流れてきた。誠一はゆっくりと電話を切る。別に繋がらなくても不思議ではない。ただ、自分の欲した安心が手に入れられなかっただけのこと。そう思いながらも、指先にはいつのまにか力がこもっていた。
「事件だ、現場へ向かえ!」
扉越しに聞こえた、緊迫感の漲る声。
誠一はハッとして顔を上げる。ガラスの向こうでは、慌ただしく人が動き始めていた。岩松もすでに刑事の顔になっている。それを見てすっかり現実に引き戻されると、携帯電話を内ポケットにしまいながら、急いで捜査一課のフロアへ飛び込んでいった。
「悪かったな、あまり電話もできなくて」
「ううん、お仕事だもん」
澪は屈託のない笑顔でそう応えると、いつものように小さな丸テーブルの前に座った。すでに何度となく遊びに来ているので、緊張感はなく、まるで自宅にいるかのようにくつろいでいる。誠一はそのまま台所へと向かい、ガスコンロにヤカンをかけて、マグカップの準備を始めた。
電話もできないほど忙しかったのは、この一週間、大きな事件の捜査にかかりきりだったからである。
ちょうどテレビで怪盗ファントムを見ていたときに第一報があり、それからは、ほとんど家に帰ることなく捜査に当たっていた。報道で初動捜査の遅れを指摘され、長期化するなどと言われていたため、皆いつも以上に躍起になっていたように思う。その甲斐もあってか、きのう、一週間も経たずに容疑者を逮捕することができたのだ。
「あんなに早く犯人を捕まえちゃうなんてすごいね」
この逮捕にどのくらい自分が貢献できたかわからないが、こう素直に感嘆されるとやはり頬が緩む。その相手が恋人であれば尚のことだ。
「ファントムの方はまだ全然だけどな」
照れ隠しにそう言うと、澪は複雑な表情を浮かべた。
「そっか、全然……なんだ……」
「すまない、無理を言ったのに」
「ううん、気にしないで」
彼女はパッと笑顔を作ると、胸元で小さく両手を振った。せっかく情報を提供してもらったのだから、良い結果を聞かせてやりたいと思うが、あまりこちらに充てる時間もとれず、意気込んでみても簡単にいくものではない。彼女に気を遣わせてしまったことにも、申し訳なく思う。
「やっぱり難しいよね」
「まあな……」
あれだけで怪盗ファントムを突き止められる可能性はかなり低い。限りなくゼロに近いくらいだ。諦めたわけではないが、それが捜査に当たってみての率直な感触だった。戸棚からティーバッグを取り出しながら、クッションを抱える澪をちらりと盗み見る。
「今のところ、いちばん怪しいのは澪なんだよな」
「えっ?」
「岩松さんもそう言ってるし」
手を止めることなく淡々とそう言うと、彼女は息を呑み、大きく目を見開いたまま硬直した。むきになって抗議してくるかと思ったのに、それとは対照的なこの反応に、誠一は少しばかりの当惑と焦りを感じた。
「冗談だよ」
「えっ……」
澪の表情が、驚きから怒りへと変化していく。
「もうっ! ひどい!!」
感情のままに声を上げると、膝にのせたクッションに勢いよくこぶしを振り下ろした。小さな口をきゅっと引き結び、うっすらと涙の溜まった瞳で、迫力があるとは言いがたい睨みをよこす。それを、誠一は軽く笑って受け止めた。
澪が、怪盗ファントムであるはずがない――。
久しぶりに彼女と会って、話して、あらためてそう確信した。この素直でまっすぐな子が、犯罪に手を染めるなど考えられない。何より、こうも騙されやすくては、刑事たちの目を欺いて盗みを働くなど、とても出来はしないだろう。疑う方がどうかしているのだ。
だが、それはあまりにも安易な結論である。個人的な感情で刑事としての目を曇らせ、ただ自分の信じたいものを信じただけの結果にすぎない。そのことに、このときの誠一はまだ気付いていなかった。
ヤカンがカタカタと揺れ、シューシューと白い煙を吐き始めた。
誠一はコンロの火を止めると、ティーバッグを入れたマグカップに熱湯を注ぐ。そのとき、居間で座っていた澪は、唸る携帯電話をハンドバッグから取り出し、ディスプレイで相手を確認してからその電話に出た。
「はい、師匠?」
師匠というのは、橘財閥会長秘書をしている楠悠人のことだ。澪たち兄妹にとっては、保護者代理であり、武術の師匠でもあるらしい。それだけでなく、澪のことが好きで結婚を望んでいるとも――誠一はヤカンを握りしめたまま、ティーバッグの沈んだ紅茶に視線を落とした。
「えっと、少しなら……」
澪は、誠一の方を気にしながらも、電話の向こうの彼にそう答えた。
「三者面談? ……はい……私はいいですけど、師匠は忙しいのに……うん……」
三者面談というのは、教師、生徒、保護者の三者で行う進路関係の面談だろう。疑っていたわけではないが、このことで、本当に彼は保護者代理なのだと実感する。誠一はヤカンをコンロに戻し、十分に役目を果たしたティーバッグを取り出して捨てた。そして、湯気の立ち上るマグカップを両手に持って、澪のいる丸テーブルへと向かう。
「本当に少しは自重してください」
澪はほんのりと頬を染めながら、少し口をとがらせて電話の相手に言っていた。
誠一はテーブルにマグカップを置くと、彼女のすぐ隣にクッションを引いて腰を下ろす。彼女は少し動揺したようだが、戸惑いの目をよこしただけで、逃げようとも電話を切ろうともしなかった。
『今、どこ?』
受話器から相手の声が漏れ聞こえる。澪は困惑ぎみに眉を寄せた。
「……友達の家です」
『友達、ね』
少し笑いを含んだ声音。その答えが嘘であることは見透かされているようだ。しかし、澪は謝るどころか、逆にムッとして声をとがらせた。
「いけませんか」
『春までは待つって言ったからね』
待つ? いったい何を――誠一が疑問に思って横目で窺うと、彼女は暗く表情を沈ませていた。何かはわからないが、無性に嫌な予感がする。耳に全神経を集中させながらも、平静を装って紅茶を口に運んだ。
『あまり遅くならないうちに帰ってこいよ』
「わかっています」
いかにも保護者といった悠人の発言に、澪はやや反抗的な口調で答えると、携帯電話を切ってすぐハンドバッグにしまった。そのままじっと下を向いていた彼女の前に、誠一はもう一つのマグカップを差し出して尋ねる。
「楠さん?」
「うん……」
澪はマグカップに手を伸ばしながら、小さな声を落とす。
「一緒に住んでるのか?」
「そうだけど……」
「大丈夫なのか?」
彼女に気のある男が同じ屋根の下で暮らしているとなれば、心配するのは当然のことだろう。澪には武術の心得があり、並みの男であればねじ伏せられるが、悪いことに相手はその武術の師匠なのだ。もし彼に変な気でも起こされたら、逃れるのは難しいのではないかと思う。しかし、澪は心底意外だというように、目をぱちくりさせながら、慌てて両手をふるふると振った。
「一緒の家だけど部屋は別々だし、全然大丈夫だから! 小さいときからずっと一緒に住んでるんだもん。今さらそんな……ていうか、無理やりどうこうする人じゃないよ……」
「ならいいんだけど」
今のところ、危険な事態には至っていないようだが、今後もそうだという保証はどこにもない。彼女が彼のすべてを理解しているとは限らないのだ。だが、それを言ったところで、聞き入れてはもらえない気がした。もう一度、紅茶を口に運んで、遠くを見やりながら小さく息をつく。
「俺たち、結婚できるのかな」
ぽつりとそうつぶやくと、隣で紅茶を飲みかけていた澪は、大きく目を見開いてゲホゲホとむせた。気管に入ったらしく、肩を揺らしながら涙目で咳き込み続けている。誠一は慌ててその背中をさすり、覗き込んだ。
「大丈夫か?」
「う、うん……」
明らかに動揺した声。彼女はおずおずと上目遣いで誠一を窺う。
「でも、いきなりどうしたの?」
「いきなりでもないだろう。この前、澪のそういう話が出ていたし」
この前というのは、誠一が初めて橘家に連れて行かれたときのことである。澪は何を言いたいのか察したらしく、きまりが悪そうな、困惑したような面持ちで目を伏せた。そんな彼女の頭に、誠一はぽんと優しく手を置いて言う。
「少し、話してもいいか?」
澪はこくんと頷いた。
誠一はマグカップに手を掛けると、細波が揺れる紅い水面に視線を落とした。向かい合って話すのが何となく躊躇われ、そのまま彼女に目を向けることなく口を開く。
「澪には結婚なんてまだ現実味のない話だろうけど、俺はもうすぐ30だし、同級生や同期でも結婚した奴らがちらほら出てきてるんだ」
「うん……」
澪はそう相槌を打ちながら、崩していた膝をゆっくりと引き寄せて抱えた。短いプリーツスカートからすらりとした脚が伸びている。真面目な話をしている今の誠一には目の毒だ。反対側にそっと視線を逃がすと、小さく呼吸をし、落ち着いた口調で語っていく。
「だから、結婚については否応なく意識させられる。もちろん俺には澪しかいないし、今すぐってわけじゃないけど、いつか澪と結婚できればって……漠然とそんなことを思っていた。けど、そのたびに絶望的な現実がちらつきもした。俺なんかじゃ、澪の家とは到底釣り合わないし、澪の家族に反対されるだろうってな」
澪は黙って聞いていた。その横顔は長い黒髪に隠されている。
「それが怖くて、最近はなるべく考えないようにしていた。澪はまだ若いからと自分に言い訳をして……要するに逃げてたんだな。澪の置かれた立場を聞かされて、身を引けと言われて、そのときはっきりと自覚したよ」
だからといって、どう行動すべきかはまだわからない。ただ、逃げている場合でないことだけは確かである。
「澪は……どうなんだ?」
「どうって、何が……?」
「楠さんでもいいのか?」
澪は首を横に振った。眉根を寄せて自分の足もとを見つめる。
「師匠のことは好きだけど、そういうのじゃなくて、ずっと本当の家族みたいに思ってて……なのに、急にこんな話になって……私……」
彼女は溢れくる感情を押しとどめるように、声を詰まらせた。やがて小さく息をついて言葉を繋ぐ。
「結婚とかまだよくわからなけど、私、誠一とずっと一緒にいたいよ……」
気持ちは同じだった。
誠一は左手を伸ばして澪を抱き寄せた。体ごと自分に寄りかからせ、腕の中に閉じ込める。このぬくもりを失いたくない。けれど、彼女の家族が、本当に楠悠人との結婚を望んでいるのだとしたら――。
不意に、澪が首を伸ばして唇を重ねてきた。
あたたかく、柔らかく、それでいて確かな感触。ほどなくして名残惜しげにそっと離れる。それでも息の触れ合う距離でとどまったまま、視線を上げ、濡れた漆黒の瞳をまっすぐ誠一に向けた。
ドクンと心臓が収縮し、体の芯が熱くなる。
今度は誠一の方から彼女に唇を重ねた。ただ触れ合わせるだけでなく、衝動の赴くまま、少し性急に舌を割り入れる。まだあまり慣れていない彼女が、ぎこちなくも懸命に応えてくれるのが愛おしい。艶やかな黒髪から、頬、鎖骨、胸、腰、そして剥き出しの太腿へと、彼女の形をなぞるように右手を滑らせていく。指先にしっとりとした素肌を感じながら、顔の角度を変え、息が上がるほどに深く口づけをかわす。
「れ、い……」
「やめ……ないで……」
時間を気にして手を引きかけた誠一は、その吐息まじりの甘い声で、僅かに残っていた理性をすっかり崩壊させられた。何の解決にもならない行為にただ呑み込まれていく。まるで、互いの存在を確かめ合うかのように、互いの不安を紛らわせるかのように。そして、行き詰まるこの状況を、一時でも忘れようとするかのように――。
…続きは「東京ラビリンス」でご覧ください。
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