瑞原唯子のひとりごと

「遠くの光に踵を上げて」番外編・明日に咲く花 - 選択

 ユールベルは図書室の返却カウンターに、古びた3冊の本を重ねて置いた。
 卒論用に借りた本の返却期限が迫っていたので、今日はこのためだけにアカデミーへ来たのだ。他に用はない。せっかくなのでサイラスの部屋へ寄っていこうかと考えるが、この時間は、まだ担当している1年生のクラスで教壇に立っているはずである。アンジェリカはいるかもしれないが、彼女と二人きりになるのは気が進まない。授業が終わるまでここで時間を潰そうと、本棚から適当に一冊を選び、窓際の席について読み始めた。
 授業時間中であるものの、図書室にはちらほらと人がいる。ユールベルと同じように卒業間際の4年生なのだろう。みな静かに黙々と本を読んでいた。ページを繰る音だけが、近くで、遠くで、遠慮がちに聞こえる。半開きになった窓からは、そっと、微かな風が滑り込んだ。

 ガラガラガラ――。
 扉を開く無遠慮な音が、静寂の空間に響き渡った。
 意識的に見ようとしたわけではないが、音につられて、ユールベルは何気なく扉の方に目を向ける。その瞬間、ハッと息を呑んで立ち上がった。何故という疑問が脳裏を掠めるものの、それを考える余裕などない。気づかれないよう慌てて顔を逸らすと、読んでいた本を本棚に返し、うつむいて足早に図書室を去ろうとする。だが――。
「……っ!!」
 すれ違い際、先ほど入ってきた男に上腕を掴まれた。
 逃げようとしたのは彼と会いたくなかったからである。だが、彼の目的は自分であるはずがないと思っていただけに、この展開に驚かずにはいられなかった。
「何をするの?! 離してっ!!」
「おまえに話がある」
 その男――ラウルは無表情でそう言うと、ユールベルの腕を掴んだまま、脇に抱えていた本を返却カウンターの上に置いた。そして、逃れようと足掻くユールベルを引きずるようにして図書室を出ていく。
 去りゆく二人の背後では、小さなざわめきが起こっていた。

「私が図書室にいるって……どうしてわかったの……」
 図書室からさほど離れていない廊下の壁に押しつけられ、ユールベルは怯みそうになりながらも、上目遣いでじっと睨み、訝るように声を低めて尋ねた。
「勘違いするな。用があって行った図書室に、たまたまおまえがいただけだ」
 ラウルは無感情に見下ろして答える。
 その冷たい言い方にムッとし、ユールベルは掴まれた腕に力をこめてそれを示す。
「だったら、これはどういうつもりなの」
「おまえが医務室に来ないからだ」
 ラウルはポケットから紙切れを取り出し、それをユールベルの前に差し出した。メモ用紙を四つ折りにしたようなもので、この状態では、書いてある内容まではわからない。
「……何?」
「この王宮医師におまえのことを頼んでおいた。医務室の場所も書いてある。私と顔を合わせたくないのならここへ行け」
 ユールベルは頭の中が真っ白になり、絶句した。
「面倒だろうが定期的に診せろ。医師としての最後の忠告だ」
 力の入らないユールベルの手に、ラウルは無理やりその紙を握らせた。そしてもう用はないとばかりに、少しの未練も見せることなく、長い焦茶色の髪を揺らせて背を向けようとする。
 とっさに、ユールベルは彼の手首を掴んで引き留めた。
 白いワンピースがふわりと風をはらみ、緩くウェーブを描いた髪が揺れ、後頭部で結んだ包帯がひらりとなびく。そして、無言のままゆっくりとうつむき、縋るように、彼を掴む手に力をこめた。
「……私のことを……見捨てるの……?」
 喉の奥から絞り出した声は小さく震えていた。
「おまえが私のところに来るというのならそれでもいい。自分で選べ」
「……どうして……そんな突き放したことを言うの……っ!」
 包帯をしていない方の目から雫がこぼれ、タイルに落下して弾けた。膝から体が崩れ落ちそうになり、両手でラウルの服を掴んでしがみつく。ラウルはそれでも無表情を崩さなかった。
「おまえはもう子供ではない。自分のことは自分で決めろ」
 その言葉はユールベルの胸に深く突き刺さった。
「みんな……みんなそう言うの……18だから子供じゃない、自立しろ、全部自分で選べって……そんなの本当は厄介払いしたいだけなんでしょう? やっと突き放せてほっとしているんでしょう? 物わかりのいいふりして、おまえのためだなんて言って……そんなのずるいわ! 卑怯よ! 嫌いだ、来るなって言われた方がまだましだわ!!」
 考えるよりも先に言葉が飛び出していた。何を言っているのか自分でもわからなくなっていた。頭の中はぐしゃぐしゃである。ただ、怖かった。我を忘れたように彼の胸を何度も叩き、溢れくるまま感情をぶつけて泣きわめく。
 ラウルは微動だにせずそれを受けていた。しかし、やがて面倒くさそうに溜息をつくと、ユールベルの細い手首を掴んで止め、その華奢な体を軽々と肩に担ぎ上げた。
「何する……のっ……!」
 ユールベルは背中側に頭を落とされ、逆さになったまま、広い背中を叩いて必死に抗議する。しかし、ラウルはまったくの無反応で、まわりの視線も気にせず、暴れるユールベルを抱えて大股で歩いていった。

…続きは「遠くの光に踵を上げて」でご覧ください。

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