瑞原唯子のひとりごと

「遠くの光に踵を上げて」第86話 大切な人のために

「ここは……」
 薄く開いた目に映る、見知らぬ天井。
 レイチェルは、真上の小さな灯りに眩しさを感じ、目を細めて左手をかざした。そのとき、薬指の指輪がなくなっていることに気がついた。右手をつき、ゆっくりと体を起こして立ち上がる。体も頭も、異様に重い。それでも状況を把握しようと、ぼんやりあたりを見まわした。
 部屋はそう広くない。天井も低い。おまけに窓もなく、陰鬱な雰囲気である。天井、壁、床は、コンクリートで塗り固められているだけのようだ。空気にはわずかな湿り気と、土の匂いを感じる。地下に違いない。普通に人が住まう部屋ではないだろう。物置と考えるのが自然だが、物は何も置かれていなかった。強いていえば、自分の下に敷かれている毛布くらいである。
 ふと、部屋の隅に石段があることに気がついた。それを上りきったところに、出入り口らしき扉が見える。
 だけど――。
 レイチェルは壁に手をあてた。強力な結界が、部屋全体を囲むように張られている。この結界を破らない限り、外に出ることは出来ない。
 一歩、二歩と後ろに下がり、壁から離れると、呪文を唱え始めた。向かい合わせた手の間に、白い光が満ち、たちまち溢れそうになった。慌てて指先に力を込めて押し止める。それが安定したところで、勢いよく両手を突き出すと、壁に向けて一気に放った。速度はあった。だが、衝突する手前で静かに消滅した。まるで吸収されたかのようだった。
 私の力では無理ね――。
 結界を強引に破るには、そこに込められた魔導力を遥かに上回る力をぶつけなくてはならない。先ほどのものがまるで及ばないことは、自分でもよくわかっていた。結界を解除する呪文も得意ではない。簡単なものなら可能だが、このような複雑で強力なものを解除する知識など、持ち合わせていない。
 魔導の勉強、真面目にしておくんだったわ――。
 彼女はため息をついて座り込んだ。だが、今さら後悔しても手遅れである。成り行きに任せるしかない。壁にもたれかかり、目を閉じて深呼吸をした。
 ギギギギ……。
 突然、嫌な軋み音が部屋に反響した。
 レイチェルは目を開き、音のする方へ視線を向けた。その音を発していたのは、石段の上の錆びた扉だった。誰かが外から押し開けているようだ。ゆっくりと扉が動く。そこから伸びた光の帯が、流れるように石段を駆け下りた。

 ジークは結界を張った。サイファが放った大きな光球を防ぐ。だが、その反動で後方に弾き飛ばされた。背中から壁に叩きつけられ、げほっと咳き込む。
「サ……サイファさん! どうして!!」
 痛みに顔をしかめながら、必死に問いかけた。
 サイファは腕を下ろした。
「レイチェルが人質に取られている」
「えっ?」
 ジークは目を見開いた。
「君を殺さなければ、レイチェルが殺されてしまうんだ」
 サイファが語った答えは明快だった。しかし、その内容は重かった。ジークは頭の中が真っ白になり、何も言葉に出来なかった。
「アンジェリカに危害を加えられることはない、その確信が油断に繋がったのだろうな。レイチェルのことまで考えが及ばなかった。私の最大の弱点であることは明白にも拘らずだ。私の落ち度だよ」
 サイファはまるで他人事のように、落ち着いた口調で話した。
「だ、だったら助けに行きましょう! 俺も行きます!」
 ジークはこぶしを握りしめ、一歩前に踏み出した。
 しかし、サイファの反応は冷ややかだった。
「五人もの手練の術士を相手に、そんなことが可能だと思っているのか」
「やってみなければわかりません!!」
「そうだな、救出できる可能性もある。だが、私にそのリスクを冒す理由はない。君を始末する方が確実なんだよ」
 ジークはぞっとして身をすくませた。実に合理的な判断、そして冷酷な決断だった。微塵の迷いも見られない。これ以上、いくら反論を重ねても徒労に終わるだろう。
 サイファはさらに畳み掛けた。
「それに、今回は助け出せたとしても、君がいる限り状況は変わらない。私たちはラグランジェの人間だ。逃れる術はない」
「俺が、いる限り……」
 ジークは噛みしめるようにつぶやきながら、懸命に解決策を探った。
 自分が手を引けば……いや、それはどうしても譲れない。手を引くふりをしてこの場を収め、アンジェリカを連れ出してどこかへ逃げれば……どこか? どこへ? どこへ行ってもラグランジェ家を相手に、逃げ切れるとは思えない。
 そもそも、手を引くと言ったところで、収まるものでもない気がしてきた。きっと自分は知りすぎてしまった。手を引いたとしても、彼らにとって危険因子であることに変わりはない。だからこそ、有無を言わさず始末しようとしているのだろう。いったいどうすれば……。
「君を巻き込んだのは私だ。申しわけなく思う。だが――」
 サイファの青い瞳が鋭く光を放った。
「私は君を殺す。死にたくなければ、君が私を殺すしかない」
「サイファさん!!」
 ジークは哀願するように名を呼んだ。
 だが、サイファはそれに応えることなく、両手を向かい合わせ、再び呪文を唱え始めた。

…続きは「遠くの光に踵を上げて」でご覧ください。

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