瑞原唯子のひとりごと

「東京ラビリンス」第58話・最後の役割

 この扉の向こうに、お父さまがいる――。
 緊張で全身が汗ばむのを感じつつ、澪は飾り気のない重そうな扉の前に立ち尽くしていた。右手は胸元で軽く握られている。呼び鈴を押さなければ何も始まらないとわかっていながら、なかなかそこに手を伸ばせないまま時間だけが過ぎていった。

 澪はドイツに住んでいる大地に会うべく、一人で彼の自宅前まで来ていた。
 ターミナル駅から最寄り駅までは電車で十数分、そこからは徒歩五分ほどで、綿密に下調べをしてきたおかげもあり、ドイツ語のわからない澪でも無事に着くことができた。文句を言いつつも事前準備に付き合ってくれた遥には、いくら感謝してもしたりない。
 彼の住まいは街中にあるアパートの一室である。外観からするとそう新しくはなさそうだが、大きく重厚な作りで、まわりの建物と比べて存在感が際立っていた。あたりにはそこそこの人通りも車通りもあるが、決してうるさくはなく、のんびりと落ち着いているように感じられる。ヨーロッパの伝統的な街並みという印象だ。
 訪問予定のおおまかな日時はあらかじめ電話で伝えてあり、自宅にいてもらうことになっている。エントランス外側に設置されているプレートを覗き込み、彼の名札が貼られた呼び鈴を押すと、返事はなかったがビーッと音がしてエントランスの鍵が開いた。彼が遠隔操作で開けてくれたということだろう。
 駆け足でエントランスに入り、見たこともないレトロなエレベータに乗り込んで六階で降りる。
 彼の部屋は突き当たりにあった。
 澪が先ほどから立ち尽くしているのはここである。心の準備は十二分にしてきたつもりだったが、いざ対面となると怖じ気づき、情けなくも扉の前で凍りついてしまったのだ。しかし、このままでは不審者として通報されかねない。ボストンバッグのショルダーベルトを掴む手に力を込め、グッと奥歯を噛みしめると、震えるもう片方の手でおずおずと呼び鈴を押した。

「よく来てくれたね」
 拍子抜けするくらい普段どおりに、まるで何事もなかったかのように、大地は愛想よくにこやかに出迎えてくれた。澪は少なからぬ当惑と混乱を感じながらも、どうにか小さく会釈を返し、彼に促されるまま中に足を進めていく。
 アパートといっても、一人で住むには贅沢なくらいの間取りだった。
 澪が通されたのは書斎のようだ。剛三のそれと比べれば半分にも満たない広さであるが、執務机の他に応接用のソファとローテーブルも置かれており、仕事関係の客人くらいならもてなせるようになっていた。ただ、天井も壁も床も全面まぶしいくらい真っ白なため、書斎としてはいささか落ち着きが足りないように感じる。
「座って」
「いえ、ここでいいです」
 大地には奥の応接用ソファを勧められたが、入ってすぐに足を止め、若干こわばった面持ちで首を横に振った。その様子を見て何かを悟ったのだろう。彼は口を閉ざして無言で執務机の方に足を進めた。そして大きな革張りの椅子にゆったりと腰を下ろすと、執務机に組み合わせた手を置き、意味ありげな薄い微笑を浮かべて澪を見つめる。
「澪……久しぶりだね」
「お久しぶりです」
「会いに来てくれて嬉しいよ」
 彼の声は優しかったが、その中にどことなく甘さのようなものを感じて身構えた。頭の中には様々な護身術の訓練がよみがえる。あれだけ悠人に教えてもらったのだから大丈夫と言い聞かせて、気持ちを落ち着かせる。今日はデニムのパンツを穿いているので、普段の短いスカートよりも防御力が高い。それに、扉付近にいればすぐに逃げられるはずだ。
「緊張しているの?」
「……少し」
 澪はいまだにボストンバッグを肩に掛けたまま突っ立っていた。あからさまな警戒の様子に気分を害しただろうか。せめて荷物くらいは下ろした方がいいかもしれない。そう思って、ショルダーベルトを持つ手に力を込めたとき――。
「もう寝室へ行こうか」
「……えっ?」
 彼の唇に浮かんだ艶めいた淫靡な笑みを見て、澪はゾクリと身震いした。
「何を考えてるんですか!」
「先日のことが忘れられなくて来たんじゃないの?」
「はぁっ? バカなこと言わないでください!!」
 あまりの身勝手な言いようについ語気が荒くなる。しかし、大地は平然としたまま静かに笑みを深くした。
「でもさ、随分と気持ちよさそうにしてたよね」
「……お父さまの勝手な思い込みです」
「ひっきりなしに甘く淫らな声を上げて、僕にしがみついて、しまいには気をやっていたっていうのに?」
 具体的な指摘に、澪は茹で蛸のように顔を赤く火照らせて狼狽した。甘く淫らなという部分は否定したいが、それ以外については身に覚えがある。言い返すことができず微妙な面持ちで眉を寄せていると、彼はにこやかに追い込みをかけてきた。
「僕には感じてるようにしか見えなかったけどね」
「……でも、私はそんなこと望んでいなかった」
 それが澪にできる精一杯の反論である。潤んだ目で恨みがましく睨むが、彼はとぼけるように小首を傾げた。
「そうだっけ?」
「顔をぶって好き放題したんじゃないですか」
「ああ、そのことを怒っていたわけか」
 ようやく納得したという声音で答えると、再びにっこりと微笑む。
「顔を叩いたことは悪かったと思っているよ。澪がなかなか素直になってくれないから、少しばかり焦ってしまったんだ。あのときは精神的に余裕がなくてね。体力も落ちていたし。今ならもっと丁寧に悦ばせてあげられるよ」
 あまり反省していない様子だった、と悠人は言っていたが、あまりどころか全く反省していない。むしろ合意の上だとでも思ってそうな雰囲気だ。澪の半分を美咲と認識しているからだろうか。そんなことは美咲も望んでいないはずなのに。
「お母さまがあの世で悲しんでると思います」
「澪は死後の世界なんて信じてるんだ?」
「えっ、あ……信じてるとかじゃなくて……」
 思わぬ切り返しに、しどろもどろになりながらうつむいていく。美咲が知ったらきっと悲しむだろうと言いたかっただけで、死後の世界について論じているわけではなかった。存在するかどうかなど深く考えたことはない。ただ、漠然と信じたい気持ちはあったのかもしれない。今もどこかで自分たちを見守ってくれていると。しかし――。
「死んだらすべて終わりだよ」
 大地は醒めた声で言う。
「死後の世界も魂も生まれ変わりもない。喜ぶことも悲しむこともできない。死んだあとは無に帰すんだ。残されたのは美咲がいないという現実だけさ」
 淡々とした口調だが、そこには僅かにやるせなさが滲んでいた。荒んだ目をゆらりと澪に向けて続ける。
「いっそ僕も後を追えばよかった?」
「そんなことは思っていません!」
 澪は体の横でこぶしを握り、表情を硬くする。
「私はただ……お母さまの……」
「で、何だ?」
 発言を遮るように、大地は威圧的に声を被せて問いかけてきた。
「用事は別のことなんだろう?」
「あ、はい! えーっと……」
 危うく目的を忘れるところだった。いまだ肩に掛けたままだったボストンバッグを床に下ろし、ファスナーを開いてクリアファイルを探すと、挟んであった婚姻届を慎重な手つきで取り出した。執務机の前まで足を進めてそれを差し出し、元の立ち位置に戻る。もちろん手を掴まれたりしないよう細心の注意を払っていた。
 大地は無表情で頬杖をつきながら、その婚姻届に目を落とす。
「へぇ、結婚するの?」
「はい、だからお父さまに署名捺印をいただくためにここまで来ました。未成年だと親の同意がいるそうです。その他の欄に『この婚姻に同意します』と書いて、住所、氏名、生年月日、捺印をいただきたいのですが、お願いできますか?」
 澪が丁寧に頼んでいる間も、彼は仏頂面でじっと婚姻届を見つめていた。おもむろに人差し指でトンと示して言う。
「夫の名前が気に入らないね。これが楠悠人なら喜んでサインするんだけど」
 まただ――澪はゆっくりと奥歯を噛みしめる。橘財閥の将来を考えている剛三は仕方ないかもしれないが、篤史も、大地も、みんなして悠人と結婚させたがることにうんざりだった。悠人本人は誠一との結婚を応援してくれているというのに。
「今さら父親ぶらないでください」
「悠人の親友としての発言さ」
 大地は軽い調子で答え、婚姻届を机の脇に寄せながら話を続ける。
「長年、恋心を隠しながら誠実に澪の面倒を見ていたのに、その間にへなちょこ刑事にかっさらわれたんだぞ。あまりにも可哀想だろう。真面目な悠人を差し置いて、高校生と淫行するようなヤツが幸せになるのは許せないね」
 正論のように聞こえるが、少なくとも大地には言う資格などないと思う。彼の場合は合意もなかったのだからなお悪い。だが、そのことを論じれば先ほどの二の舞になってしまう。じとりと冷たく睨みながら、挑発の言葉に踊らされないよう用心して言い返す。
「お父さまの意見は聞いていません」
「でも、同意の署名がほしいんでしょ?」
「署名捺印だけしてくれればいいんです」
 これまでに見せたことのないひどく反抗的な態度に、大地は少し驚いているようだった。しかし、頬杖を外してゆったり両手を組み合わせると、僅かに顎を引いてニッと口の端を上げる。
「随分と勝手なことを言うね」
「お父さまは父親じゃないですから」
「でも戸籍上は実の父親だからね」
「誰のせいだと思ってるんですか」
「まあ、主に僕かな」
 微塵も責任を感じていないかのように、軽く笑いながら答える。
 それでも澪にはひたむきに訴え続けるしかなかった。
「わかってるんだったら責任を果たしてください。戸籍上の父親として署名捺印してくれてもいいでしょう? もうこれ以上は父親としての役割を求めませんから、最後に、最後だけでも私の幸せのために手を貸してください」
 その声に切実な思いが滲む。
 大地は身じろぎもせず真正面から澪の双眸を見つめてきた。先ほどまでとは別人のような真剣な顔をしている。息が詰まりそうな沈黙の中、澪は固唾を呑んで彼の出すであろう結論を待った。
「……いいだろう」
「本当ですか?!」
「ただし一つ条件がある」
 喜びに輝いた澪の表情は、一瞬で警戒心を露わにしたものに変わった。顎を引いて挑むように正面の彼を見据える。
「……何でしょう?」
「一回だけ悠人とセックスしてやってくれ」
 そういう下劣な類のことだろうと覚悟はしていたつもりだが、実際に面と向かって言われるとやはり衝撃を受けてしまう。頭が真っ白になり何も言葉が出てこない。暫しの沈黙のあと、ようやくごくりと唾を飲み込んで口を開く。
「そんなの、師匠は望んでいないと思います」
「君は案外悠人のことをわかってないんだな」
 大地の声は心底楽しそうに弾んでいた。
「君には物わかりのいい保護者の顔しか見せてないかもしれないけど、あいつの心の中はドロドロだよ。それはもうヘドロみたいにね。何十年も溜め込んできた黒いものが奥底に鬱積しているのさ。澪に格好つけようと証人を引き受けたんだろうけど、据え膳まで我慢できるとは思えない」
「…………」
 彼の言うことをすべて鵜呑みにしたわけではないが、実際にその片鱗らしき部分は何度か目撃したことがある。無理やりキスしてきたときも様子がおかしかった。そして、今回の大地と同じような取引を持ちかけてきたこともあった。もし、そういう気持ちがまだ少しでもあるのだとしたら――。
「悠人が僕のお膳立てを断ると思うなら、条件を飲んだらどうだ?」
「えっ?」
「いまここで澪がその条件を飲むと約束してくれれば、僕は婚姻届に同意のサインをする。その後、悠人が断ってきたとしてもサインは撤回しない。君は悠人に抱かれることなく、あのさえないへなちょこ刑事と結婚できるってわけだ」
 澪は大きく目を見開いて息を詰めた。ゆっくりとうつむき、眉を寄せてじっと思案を巡らせる。正直、少し心が揺れた。それでも――決意を固めるとそっと首を横に振った。
「へぇ、悠人を信じてないんだな」
「……そうじゃなくて」
 大地の挑発にも落ち着きを失わず、ひとまずそう答えて顔を上げる。
「この条件を飲むこと自体が裏切りだと思うんです」
「そんなの馬鹿正直に言わなければわからないだろう」
「わかるわからないの問題じゃありません」
 誠一を二度と裏切らないと決めた。誠一に対して誠実でいようと決めた。だから、そこは決して曲げてはならないところなのだ。条件自体が裏切りになるというのもあるが、悠人が断るという確証がない以上、どうあっても絶対に受け入れるわけにはいかない。
「そう、じゃあ彼への誠意を貫き通して、悠人と結婚すればいい」
「えっ……それ、どうして……」
 一月以内に誠一と結婚できなければ、悠人と結婚する――剛三とそういう賭けをしたことは一言も話していない。しかし、彼の言い草からすると知っているとしか思えない。困惑していると、大地は口もとを斜めにしてニヤリとする。
「誰に教えてもらったんだったかな? 遥だったか、志賀君だったか、悠人だったか」
 若干芝居がかった口調で、とぼけたように知人の名前を言い連ねていく。記憶力のいい彼がそのくらい覚えていないはずはない。おそらく澪を追いつめるために言っているのだ。そして目論見どおり澪の心がさざめいたところに、更なる追い打ちをかける。
「君の味方はいない。みんな、南野君ではなく悠人との結婚を望んでいる」
 澪はキュッと唇を噛んだ。
 それ自体が賭けに影響するわけでないことは理解している。ただ無性に寂しかった。自分の大切な人たちに、まわりのみんなに、心から祝福されて好きな人と結婚したかった。漠然とそういう幸せな夢を思い描いていた。なのに――。
「これはもういらないね」
 その声と同時にビリビリと裂けるような音が聞こえ、ハッと視線を上げると、大地は半分に折り畳まれた紙を手で破いていた。まさか、それって――声もなく青ざめているうちに、大地は破いたそれを軽く捻って足元に放り投げる。ことん、と金属製のゴミ箱に落ちたような音がした。
「なっ……何するのッ?!!」
「だって、僕のサインがなければただの紙切れだよ。必要ないでしょ? 僕は条件を飲まなければサインしないからね。それとも、大切な彼を裏切ってでも条件を飲むつもりだった?」
 大地は眉ひとつ動かさず飄々と言う。
 澪は手のひらに爪が食い込むほど強くこぶしを握りながら、奥歯を食いしばった。頭に血が上りすぎてどうすればいいか考えられない。堪えきれずにうっと小さな呻きを漏らすと同時に、開いた目から涙があふれて頬を伝い落ちた。
 どんな思いで、ここまで――。
 濡れた目元を無造作に拭ってキッと睨めつけると、黒髪をなびかせながら執務机の方へ駆けていき、大地の足元に置かれていたゴミ箱を漁ろうとする。が、そこに触れる寸前に手首を掴まれて押し返された。彼の力には敵わない。澪もむきになって押し返そうとするものの、両手首を掴まれたまま一歩二歩と後退してしまう。
「ひゃっ……!」
 不意に足元が混乱してバランスを崩し、後ろに倒れていく。
 しかし、身体が落ちるすんでのところで大地に抱き止められた。安堵の息をつくが、どういうわけかそのまま冷たい床に横たえられてしまう。狼狽える澪の身体をまたいで膝立ちになった彼は、真上から覆い被さるように、顔の両側に手をついてじっと覗き込んできた。
「もう君に勝ち目はないんだよ」
 まるで最後通告だ。
 目の前に迫っていた大地の顔が大きくぼやける。しかし、彼はふっと鼻から息を抜いて笑うと、長い黒髪を片手で弄びながら、露わになった耳元に顔を埋めてきた。熱く濡れた吐息が首筋に掛かる。
「子供のころの美咲の匂いがする。懐かしいな……悠人にやるのは惜しくなってきた」
 静かながら興奮を隠しきれていないその口調に、澪はゾクリと背筋を震わせた。掛かる吐息はますます熱を増し、濡れた唇で耳を食まれ、ついには指先が身体をなぞり始める。白い天井を見つめていた目から、堪えていた涙がつと流れ落ちた。
「こ……こんなことになるなら……私も、お母さまと一緒に死んじゃえばよかった!!」
 小さくしゃくり上げ、嗚咽まじりに激情を吐露する。
 大地の動きが止まった。ゆっくりと上体を起こして真顔で澪を見下ろすと、目尻に溜まっていた涙をそっと舐め取った。澪は驚きのあまりビクリと身体を竦ませたが、彼はそれ以上触れることなく立ち上がり、腰に両手を当てながら小さく息をついて言う。
「サインするよ」
「…………?」
 何を言っているのか理解できず、身体を投げ出したまま虚ろな眼差しだけを彼に向ける。澪の足元に立っていた彼は、無表情で身を翻して執務机へ向かうと、書類の山から一枚の紙を掲げて見せた。
 それは、破られたはずの婚姻届だった。
「えっ……それ……?!」
「さっき破ったのは別の紙だ」
 目を見開いて弾かれたように起き上がった澪に、大地は静かにそう答えた。執務机についてさらさらとボールペンを走らせ、丁寧に捺印すると、床に座り込んで唖然としている澪のもとに戻ってきた。
「これでいいか?」
「あ……ありがとうございます……」
 困惑しつつ、差し出された婚姻届を両手で受け取る。それは確かに澪が持ってきたもので間違いなく、澪の頼んだとおり同意の署名捺印もされていた。ありがたいとは思うが、急に態度が変わった理由がわからず素直に喜べない。もしかすると何か罠があるのではないかと疑いつつ、腕組みした彼をそろりと上目遣いで見つめる。
「二度とあんなことを言うな」
「えっ?」
 一瞬、何のことだかわからなかった。彼はゆるりと見下ろして言葉を継ぐ。
「君の半分は美咲なんだ」
「随分勝手なことを言いますね」
「美咲がいなくなったからな」
 ちぐはぐなやりとりだが、彼の言いたいことは何となく理解できた気がした。しかし、彼の考えていることは今ひとつ釈然としない。いまだに澪の半分を美咲と見ているのに、澪を美咲の代わりとして見ているのに、どうして署名捺印してくれたのだろう。まさか、これで澪を懐柔するつもりなのでは――。
「私は、お父さまのものにはなりません」
「そうだろうね……それでも、生きていてほしいんだよ」
 その言葉をどう受け取ればいいのか判断がつかず、微妙に顔を曇らせる。いっそ本人に尋ねてみようかと思ったが、彼は腕を組んだまま小さく吐息を落とすと、何かを振り切るようにくるりと背を向けた。
「お幸せに」
 言葉とは裏腹の突き放した口調。まるで早く帰れと言われているかのように聞こえる。いや、実際に彼がそう思っていることは間違いないだろう。悠人の長年の親友としても、美咲に執着する男としても、もとよりこの結婚を歓迎していなかったのだから。
「……ありがとうございました」
 澪は立ち上がると、婚姻届を胸に抱いて深々と一礼する。そして、振り返る気配のない広い背中をじっと見つめ、もう一度小さく頭を下げてから、ボストンバッグを引っ掴んで部屋をあとにした。その目にじわりと熱い涙を滲ませながら――。


…これまでのお話は「東京ラビリンス」でご覧ください。

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