「橘の住所、まだなの？」
「そう急かすな」
二か月が過ぎても、橘の住所はわからないままだった。
三億円の懸賞金が取り下げられた翌日から、すくなくとも一日一回は拓海に尋ねているが、彼の返事はいつもつれないものだった。焦る様子さえ見られない。ただ淡々と否定の言葉を繰り返すだけである。
誘拐事件に関連した報道は、今ではすっかり下火となっているが、記者会見から数日はかなり盛り上がりを見せていた。誘拐事件の顛末を伏せられて不完全燃焼だったのだろう。様々な憶測をめぐらせて事件を読み解こうとしていたようだ。
七海の見た番組では、お家騒動というのが最有力として挙げられていた。後継者争いや遺産相続をめぐる問題などで、橘会長と対立する側が実力行使に出たのではないかと。その場合、身内あるいはその知人の犯行という線が濃厚らしい。
あと、実は駆け落ちだったのではないかという説もあった。橘会長が交際を反対したところ駆け落ちしてしまったので、その二人を探し出すために、もしくは懲らしめるために、誘拐されたと偽って懸賞金をかけたのではないかと。
どちらにしても、あの似顔絵の男は橘家と何らかの関係があるということだ。おそらくすでに素性も掴んでいるのではないかと思われる。もう和解しているのであれば居どころも把握しているかもしれない。
橘会長に訊けば、何らかの情報は得られる。
その確信があるにもかかわらず、住所がわからないから会いに行けないなど、くやしくてもどかしくて落ち着かない。だからといって七海にはどうすることもできない。せいぜい毎日あきらめずに拓海をせっつくくらいだ。
「ねえ、本当に調べてるの？」
「仕事の空き時間にな」
「本当にまだわからないの？」
「ああ」
拓海は食べかけのトーストに視線を落としたまま答えると、マグカップに入ったコーヒーを一口飲み、一息ついてから静かな声で言葉を継ぐ。
「七海、いまは仕事が忙しいんだ。もうしばらく待ってくれ」
「うん……」
仕事が忙しいというのは嘘ではないだろう。このところ毎日帰りが遅い。きのうも七海が寝たあとで帰ってきたようだ。今日も土曜日だが仕事に行くという。けれど。
おかしい――。
どことなく逃げているように感じる。彼が冷静沈着なのはいつものことだが、お父さんの敵を取ろうと七海に言い聞かせていたときの、あの強く鋭いまなざしがまったく見られなくなった。それどころか、この話をしているときは目を合わせてもくれないのだ。
結局、このときも一度も顔を上げることなく席を立ち、シャワーを浴びに行ってしまった。七海はその背中を横目で追いながら、釈然としない気持ちのまま食器を集め、流しに運んで洗い始める。
橘の住所を探すのが難しくて行き詰まっているのだろうか。いや、そういうことを安易にごまかして格好つけるような人ではない。もしかすると探したくないと思っているのだろうか。だとしても理由がわからない。
復讐をあきらめた――？
ふいに浮かんだ答えを認めたくなくて、顔を曇らせる。
残念ながら思い当たる節はあった。父親を殺されたあの日から敵を取ろうと言い続けてきた彼が、一年ほど前からほとんど言わなくなっていた。七海に自覚が芽生えて必要なくなったからだと解釈していたが、本当は気が変わっていたのだとしたら。
食器を洗い終えて、水を止める。
ずっと共通の目的で結ばれた仲間だと思っていたのに、どうして。裏切られたように感じてギリと奥歯を食いしばる。そうと決まったわけではないが、その可能性があるのならおとなしく言いなりになっている場合ではない。
たとえ拓海があきらめたとしても、自分はあきらめない。
ひとりで何ができるのだろうと必死に思案をめぐらせる。しかしながらやはり拓海の協力がなくては難しい気がする。だとすれば――表情を引き締めると、いまだ濡れたままだった手をタオルで拭い、くるりと身を翻してあたりを見まわした。
拓海がシャワーから出てくるまでに、まだ時間はある。
拓海の部屋はいつも鍵がかかっているので入れない。探れるとすれば、リビングに掛けてあるスーツのジャケットくらいだ。確かあの内ポケットには手帳が入っているはず。仕事用だと思うが、ときどき家でも電話をしながら広げるのを見かけていた。
案の定、内ポケットに手を差し入れると手帳があった。こんな泥棒みたいな真似はしたくないが手段を選んでいられない。何か弱みになることや暴露されて困ることが書かれていないか、手早くめくりつつチェックする。
要するに脅迫に使えるネタを探しているのだ。七海には橘の住所をどう調べればいいかわからないので、情けないが拓海に調べてもらうしかない。たとえ彼の意に沿わないのだとしても。
しかし、目につくのは走り書きの断片や暗号のようなものばかりで、内容はほとんど理解できなかった。考えてみれば当然だ。いつも携帯する手帳にそれとわかる形で機密事項を書きはしないだろう。落胆して溜息を落とし、もうあきらめて手帳を閉じようかと思ったそのとき。
「え、これ……！？」
そこには「タチバナ」という文字と住所らしきものが斜めに走り書きされていた。息を飲むほど驚いたが考えている時間はない。すぐに電話の横に置いてあるメモ帳を一枚引きちぎって書き写すと、ジャケットの内ポケットに手帳を戻した。
「いってらっしゃい、パパ」
いつもどおり玄関でひらひらと手を振りながら見送る。笑顔も態度も特に不自然ではないはずだ。拓海も何ひとつ不審に思いはしないだろう。手帳を盗み見たことに気付く様子もなく、扉を開けて出ていった。
七海は玄関に立ちつくしたまま、ジャージのポケットに手を差し入れ、書き写した紙切れをそっと取り出した。住所は東京23区内。これが本当にあの橘なのかはまだわからないが、おそらくそうではないかと思う。
どうして教えてくれなかったの？
拓海は復讐をやめたわけではなかったのだろうか。だがあえて七海に教えなかったとすれば、行かせるつもりがないということだ。彼が何を考えているのかわからない。けれど問いただしたりしたら、開き直ってあからさまに阻止されるかもしれない。
僕ひとりでも訊きに行く――。
七海に外出が許されている時間は、土日祝の日中と、平日の午後三時から日沈までである。今日は土曜なので午前中から外出しても問題ない。日が沈むまでに帰ってこれば知られることもないだろう。
さっそく白いTシャツとデニムのショートパンツに着替え、肩から掛けるホルスターを装着し、そこに手入れをして装弾した愛用の拳銃をおさめる。そしてブルゾンに袖を通してキャップを目深にかぶると、まっすぐに唇を引き結んだ。
「お父さん、行ってくるね」
そう言いながら血で汚れたイルカのぬいぐるみをギュッと抱きしめて、元に戻す。絶対にあいつの居どころを掴んでくるんだ――強い決意を胸に、扉を開けて光の降りそそぐ方へ駆け出していった。
◆目次：機械仕掛けのカンパネラ
