瑞原唯子のひとりごと

「東京ラビリンス」第37話・責任の所在

「橘大地さんの取り調べを許可願います」
 誠一は、執務机で書類を眺める楠長官の前に立ち、すっと背筋を伸ばして声を張った。緊張で体がこわばっているのを感じるが、それを悟られないよう強気な視線を送る。しかし、彼は無感情な一瞥をくれただけで、再び手元の書類に目を落とした。
「昨日の今日で何を取り調べる?」
「伝言の返事を預かっています」
 昨日の取り調べは監視カメラでチェック済みなのだろう。伝言の内容も把握しているに違いない。それゆえ、詳しい説明をしなくとも何のことかわかったようだ。顔を上げ、興味深げな瞳を見せつつ口角を上げている。
「悠人は何と言っていた?」
「ここでは言えません」
「良かろう、許可する」
 楠長官は間髪入れず急にそう言うと、フッと鼻先で笑った。どうも彼にはこの事態を面白がっている節が見受けられる。国家の一大事であるかのように言っていたのに、あまりに警戒心が不足しているのではないだろうか――思わずそんな余計な心配をしつつ、堅苦しい表情を保ったまま深く一礼した。

 誠一は金属製の扉を開け、見張りの男性とともに取調室に足を踏み入れた。
 中央はアクリル板と壁で完全に仕切られ、その両側にパイプ椅子が置かれている。それ以外に目立ったものはない。もちろん絨毯やカーテンなどのインテリアもなく、地下なので窓すらなく、冷たい床と壁だけに囲まれた無機質で殺風景な部屋だ。天井にひっそりと据え付けられた複数の監視カメラが、否応なしに緊張感を高めていく。
 見張りの男性が扉付近に立ち、誠一はアクリル板の前に置かれたパイプ椅子に座る。
 正面にはすでに大地が座っていた。疲れた様子もなく、相変わらず人懐こい笑顔を見せている。下方は不透明な壁に阻まれているため、足下がどうなっているかはわからないが、少なくとも手は拘束されていないようだ。彼の後方には、いつものようにスーツを着た見張りの男性が待機していた。一見、ただ突っ立っているだけのようだが、その立ち姿も目配りも巧みで隙は窺えない。
「さっそく会えて嬉しいよ」
「楠悠人さんに伝えました」
「悠人は何て?」
 その話題を切り出されることは予想の範囲内だったのだろう。大地はニコニコと笑みを浮かべて先を促す。誠一は内ポケットから手帳を取り出し、栞紐の挟まれているページを開いて目を落とした。
「……彼の言葉をそのまま伝えます」
 静かにそう切り出すと、言いづらさを感じつつも努めて平坦に読み上げる。
「僕がいつまでもそんなくだらない挑発に乗ると思うなよ。おまえみたいな愚かな奴なんかもう愛想が尽きた。いい気になって自惚れるなよ馬鹿。今後、僕の前に姿を見せることがあったら殺してやる」
「これはまた辛辣だね」
 どんな反応を見せるのか些か不安だったが、彼は愉快そうにくすくすと笑っていた。そして「この状況で言われてもね」と独り言のように小さく呟く。それを聞いて誠一は確信した。彼は「この状況」をわかっているのだと――。
「橘さん、体はなまっていませんか?」
「ここに来るまではそれなりに運動もしてたんだけどね。ここではほとんど運動もさせてもらえないし、一ヶ月でかなりなまってしまったかな。でも、後ろの男一人くらいなら問題ないよ」
「では、よろしくお願いします」
 雑談としか思えない会話からの流れだったため、見張りの男性は理解が遅れたのかもしれない。ハッとして腰の無線機に手を伸ばそうとした瞬間、大地にすばやく手を捻り上げられ、為すすべもなく鳩尾にこぶしを叩き込まれていた。男性は小さく呻いて気を失い、冷たい床に崩れ落ちた。
「監視カメラは大丈夫なのか?」
「ダミーの映像と音声を流しています」
 そう答える誠一の隣で、誠一側の見張りの男性がアクリル板を丸く切って大きな穴を開けていた。彼は、本物の見張りとすり替わっていた悠人である。いつもと違って黒縁の伊達眼鏡をかけてはいるが、基本的に変装らしい変装はしておらず、長年の付き合いである大地なら一目でわかるだろう。
「身分証と無線機を奪え。服もそいつのに着替えろ」
 悠人は手を止めることなく抑揚のない声で指示を出す。言われるまま、大地は倒れた男性のポケットから身分証を取り出し、腰にかけられた無線機を外すと、スーツを上下とも脱がせてそれに着替えた。体格はほぼ同じくらいなので違和感はない。脱いだネルシャツとチノパンは無造作に床に投げ置かれている。
「これで手足と口を縛れ」
 アクリル板に穴が開くと、悠人はそこから縄とハンカチを投げ込んだ。
 すぐに、大地は気絶している下着姿の男性を縛り始める。
「よくこんなところまで侵入できたな」
「そちら側は厳重だが、こちら側は意外とザルだ」
「さすが」
 そんな会話をしている間に、男性の両手両足はすっかり縛り終えられていた。後ろ手で拘束されているので立ち上がるのも容易ではないだろう。さらに、口にも白いハンカチが噛ませられており、大声で助けを呼ぶのも困難だと思われる。
 大地は満足げに両手の汚れを叩き払うと、仕切りの両側についている幅30センチほどの台に飛び乗り、穴をくぐって誠一と悠人のいる側に降り立った。少し離れたところに立つ悠人と向かい合い、薄い微笑とともに煽るような視線を送る。
「話はあとだ」
 悠人は挑発に乗らず、伊達眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、無表情を保ったまま冷ややかに言った。そして、金属製の重い扉を大きく開けると、身を潜めることなく堂々と取調室を出ていく。もちろんこれも作戦のうちである。誠一と大地も、同じように背筋を伸ばして彼のあとに続いた。

 警察庁を脱出したあと、悠人、大地、誠一と、補佐役で来ていた篤史は、悠人の運転する車で橘家へと向かった。その間、ハンドルを握った悠人はずっと感情の窺えない表情をしていた。大地は後部座席から何度か話しかけていたが、彼が乗り気でないとわかると、急に興味をなくしたかのように外に目を向けた。
 重苦しい沈黙が続く。
 その淀んだ空気に、誠一は息が詰まりそうな苦しさを感じた。助手席の篤史も居心地が悪そうにしている。だからといって、二人とも無理に空気を和ませようとはせず、ただじっとおとなしく座っているだけだった。

「お父さま!!」
 切羽詰まった高い声が玄関ホールの吹き抜けに響き渡る。振り向くと、澪が転げ落ちんばかりの勢いで大階段を駆け下りていた。恋人の誠一も、師匠の悠人も、今の彼女の双眸には映っていないようで、まっしぐらに父親の大地の方へ向かっている。しかし、彼から少し距離のあるところでその足を止めた。
「…………」
 何か言いたそうな顔をしているものの、口を開こうとはせず、戸惑いがちに胸元でぎゅっと両手を重ねる。しかし、大地がにっこり微笑んで両手を広げると、まごつきながらも一歩二歩と足を進め、やがてしなやかな黒髪をなびかせて広い胸に飛び込んでいった。その肩を、大地が優しく抱こうとすると――。
「汚い手で触れるな」
 敵意をむき出しにした低い声。
 澪のあとから大階段を下りてきた武蔵が、刺すように大地を睨んでいた。今にも殴りかかりそうな顔をしたまま、困惑する澪の上腕を掴んで引き離そうとする。
「落ち着きましょう」
 誠一は慌てて二人の間に割って入り、それぞれに目を向ける。
「とりあえず、今はまず書斎の方へ……」
 武蔵は顔をしかめて舌打ちしつつも、掴んでいた澪の腕から手を引いた。大地も少しおどけたように両手を挙げ、澪に触れていないことをアピールする。二人ともひとまず誠一の言葉を聞き入れてくれたのだろう。小さく安堵の吐息を落とすと、二人の間でおろおろする澪の背中をそっと押し、急かさないよう気をつけながら書斎の方へ促した。

 書斎では、剛三と遥が打ち合わせスペースで待っていた。
 警察庁から戻ってきた誠一、悠人、篤史、大地、そして玄関まで出迎えた澪、武蔵が、次々と書斎に入り打ち合わせ机の席につく。特に決められているわけではないが、上座からおおよそ年齢順になっているのはいつものことである。
「まず、始めに」
 張り詰めた空気の中、剛三がおもむろにそう口を切った。
「南野君、つい先ほど警察庁の楠長官から電話があった。今日は休暇扱いにしておくから、明日は必ず来るようにとのことだ。奪った身分証と無線機とスーツと眼鏡を忘れず持参しろとも言っておった」
 誠一はゾクリと身震いする。
 もちろんそれなりに覚悟はしていたつもりだが、配慮すら感じるこの対応は、考えが読めない分かえって恐ろしい。正式に懲戒解雇の処分を下されるのだろうか。あるいは自己都合退職を勧められるのだろうか。もしくは、そのような生温いことではなく――。
「私は、どうなるんでしょうか……」
「そう怯えずとも取って食ったりはせんだろう。今のところ首を切るつもりもないようだぞ。どうやら、まだ君に利用価値があると思っていそうな口ぶりだったからな」
 剛三の言葉はあまり慰めにはならなかった。もっとも、今は誰のどんな言葉も慰めになりえない。結局、謀反を起こした相手のもとへ行くのは自分なのだ。恐怖と不安が胸中で大きく渦巻くのを感じながら、誠一は覚悟を決めるように小さく頷いた。

「それでは本題に入る」
 張りのある重低音を丁寧に響かせて、剛三は仕切り直した。場の空気がつと引き締まる。ただ、大地だけはまるきり緊張感のない顔で、不思議そうに皆の様子を覗っていた。その姿は、どこか楽しんでいるようにも見えた。
「大地、おまえが警察庁からの救出を望んだ理由は何だ」
「理由?」
 彼はそう聞き返しながら腕を組み、首を傾げる。
「理由と言われても、これといって……いい加減あそこにいるのも飽きてきたし、そろそろ外に出たいと思っただけです。待遇はそれほど悪くなかったんですが、何もやることがないし、外を見ることもできないし、一ヶ月もいればうんざりしますよ」
「ふざけるな!!」
 ダンッ、と武蔵は跳ねそうなくらい激しく机を叩きつけて立ち上がった。一瞬、大地は驚いたように目を見張ったが、すぐにフッと鼻先で小さく笑って言い返す。
「僕が何か期待を持たせるようなことを言ったか?」
「このタイミングで思わせぶりすぎるだろう!」
 そう言いながらも、自分の分が悪いことに気付いたのか、武蔵は苦々しい顔で奥歯を食いしばった。確かに大地は何も言っていない。何らかの意図があるように言ったのは悠人であり、その何の根拠もない憶測話を、各自が勝手に納得しただけのことである。
「君はメルローズの叔父なんだって?」
「……澪と遥の父親でもある」
 少し考えてから、武蔵は低い声でそう答えを返した。眉をひそめて続ける。
「おまえは他人の命を何だと思ってるんだ。実験のために身勝手に子供を作って、殺して……大事な研究のためなら何をしても許されるっていうのか? 命を弄んで神にでもなったつもりか?!」
「自分は可哀想な被害者です、って顔だな」
 大地にせせら笑いながらそう言われ、武蔵の瞳にカッと激情の炎が燃えさかった。ガシャガシャン、とパイプ椅子を蹴飛ばして机に飛び乗り、向かいに座る大地の胸ぐらを掴み上げる。
「貴様……」
 ギリギリと奥歯を軋ませ、唸るように喉の奥から声を絞り出す。借り物のカッターシャツがミチミチとちぎれそうな音を立て始めた。それでも武蔵の力は緩まない。皆、息を詰めて二人を見つめる。しかし、腰が少し浮き上がっているものの、大地はいまだ余裕の薄笑いを浮かべていた。
「先に仕掛けたのは君たちの方じゃないか」
「……えっ?」
 武蔵は訝しげに聞き返した。
 大地の目はますます挑発的になる。
「たった一日で、何の罪もない人間を643人も殺しただろう。生き残ったのは僕と美咲だけだ。あの事件さえなければ、僕たちもこんなことに手を染めずに済んだんだ。人生を狂わされたのはこっちの方さ」
「あ……あれは……」
 武蔵の狼狽ぶりは傍目にもわかるほどだった。大地の胸ぐらを掴む手も弱まる。
「知っていたから美咲を突き止められたんじゃないのか。小笠原フェリー事故の生き残りということで目をつけたんだろう? 被害者面して、自分たちの先制攻撃のことはずっとみんなに黙ってたんだな」
「違う、あれは事故だった!」
「今さら信じろとでも?」
「俺の親戚の一人が起こした暴発事故で、決して攻撃を仕掛けたわけじゃない。この国で被害が出ていたことさえ俺たちは知らなかった。証明はできないが本当のことだ。黙っていたのは確かに悪かったが、どうか信じてほしい……」
 そう言いながら、背後の澪にちらりと縋るような目を向ける。しかし、彼女はまだ理解が追いついていないのか、混乱したような面持ちで胸に手を当てていた。それでもおそらく疑うことはないだろう。誠一も、武蔵が嘘を言っているようには思えなかった。
 大地は目を細め、胸ぐらを掴んでいた武蔵の手を払いのける。
「故意にしろ、事故にしろ、あの力が日本の、ひいては世界の脅威になることは間違いない。だから、あれが何なのか解明するしかなかったんだよ。そのために君の国の生体を実験に使わせてもらった。高々数十体。君たちが殺した人数に比べれば可愛いものだろう?」
 見るものを凍てつかせる瞳、口角を吊り上げた残忍な表情――武蔵は小さく息をのみ、机に乗ったまま瞬ぎもせずに固まった。誠一も、自分に向けられたものではないとわかっていたが、その迫力に思わずゾクリと背筋を震わせた。
 しかし、大地はすぐにふっと表情を緩め、いつもの人懐こい笑みを浮かべる。
「まあ、美咲は優しいから、犠牲を出すような方法は嫌だったみたいだけどね。僕としては、世界よりも国よりも美咲の方が大事だし、美咲がやめたいといえば反対なんてしないさ」
 彼とは対照的に、まわりの皆は硬い表情をしていた。
 剛三は眉間に皺を刻み、僅かに顎を引く。
「美咲は、どうするつもりでいるのだ」
「長澤議員の金銭的支援を受け、アメリカで研究を続ける準備をしていました。もっとも、支援が完全に止められたうえ、準備半ばで追われることになり、予定は大幅に狂ってしまいましたけど。念のため、アメリカ側には緊急時の保護を要請していましたから、美咲はアメリカ大使館で丁重に保護されているはずです。準備が整い次第、アメリカに渡って研究を続けることになるでしょう。今後は非倫理的な実験は行わないつもりです。僕も、可能であればあちらで美咲を手伝いたいと思っています」
 ガシャリ、と澪は勢いよく立ち上がった。しかし、机に両手をついてうつむいたまま、顔を上げようともしない。長い黒髪で覆い隠されているため、表情は窺えなかったが、手は微かに震えているように見えた。
「……お母さまに、戻ってくるよう言ってくれませんか?」
「残念だけど、アメリカ行きは美咲自身の意志だよ。僕も、それが美咲にとって最善だと思っている。どのみちもうこの国に美咲の居場所はない。国を敵にまわしてしまったんだからね」
「研究をやめればいいじゃないですか!」
 悲痛な訴えに、一瞬、大地の瞳が小さく揺らいだ。
「やめられないよ。もう引き返せないところまで来ているんだ。それに、あの暴れ狂う光の魔神を見てしまっては……あれが何なのか追究せずにはいられない。僕も、美咲も、取り憑かれていると自覚はしているけど、研究を続けることが間違っているとは思わない」
「私たちより研究が大事なの?」
「ごめんね」
 その謝罪は肯定と同義である。彼の態度には少しも悪びれたところがなく、詫びる気持ちがあるようにも思えない。澪は泣きそうな顔で、崩れるようにパイプ椅子に腰を下ろした。
「でも、美咲は君たちの幸せを心から願っている。だから、君たちへの実験を途中で打ち切ったんだよ。その代わり、別の実験体を用意することになったけど」
「私たちの代わりが、メルローズ……」
「結局、美咲はその子たちを使った実験も拒むようになったんだけどね。もしかしたら、メルローズが美咲を正気に戻らせたのかもしれない。あの子に懐かれて非情でいることができなくなったんだ。メルローズを助けたいという美咲の気持ちに嘘はないよ。だから、絶対的に信頼できる人間に託した……はずだったんだけどね」
 大地は苦笑しながら、両の手のひらを上に向けて肩をすくめる。
 澪たちが美咲からメルローズを預かったとき、公安には渡すなと釘を刺されていたらしい。にもかかわらず、直後に奪われてしまったのだから、責められても嫌味を言われても返す言葉はない。皆、黙りこくったまま気まずそうな顔をしていた。特に、悠人は苦しさを堪えるように口を引き結んでいる。
「……大地と二人で話をさせてください」
 彼は、真剣な眼差しを剛三に向けて言った。
 剛三はまっすぐに視線を返し、僅かに眉を寄せて尋ねる。
「冷静でいられるか?」
「問題ありません」
「今の言葉を忘れるなよ」
 重くのしかかるような声で念押しする。傍で聞いているだけの誠一でも威圧を感じるのだから、向けられた悠人のプレッシャーは相当なものだろう。よりいっそう表情を引き締めて剛三に一礼し、すっと立ち上がると、無言のまま目線だけで大地を呼びつけた。大地はフッと口もとに笑みを浮かべ、扉へ歩き出した悠人のあとを追う。その足取りは、気のせいかどこか弾んでいるように見えた。

「武蔵」
 悠人と大地が連れ立って書斎を出たあと、乗っていた机から椅子に戻った彼に、剛三は静かにゆったりと呼びかけた。机の上で両手を組み合わせ、一分の隙もない鋭い眼差しを向けて尋ねる。
「小笠原のフェリー事故は、本当に故意に起こしたものではないのだな」
「ああ……さっきも言ったが、あんなことになっていたことすら、この国に来るまで一切知らなかった。攻撃するつもりだったらもっと上手くやっている。あの事故で俺らの国の結界も一部破損して、完全修復するまでに何年もかかった。そのせいでおまえらに見つけられ、侵入まで許してしまったんだからな」
 彼は淡々と答え、微かに眉を寄せた。
 おそらく嘘は言っていないだろう、と誠一は直感していたが、内容については今ひとつ釈然としなかった。彼は日本ではなく別の国から来たらしく、そして、その国には結界というものが張ってあり、外部からは見つけることも立ち入ることもできない――ということだろうか。そんなことが現実に可能だとは、にわかに信じがたい。
「武蔵の国ってどこなの?」
 澪も同様の疑問を感じたのか、怪訝にそう尋ねた。
「小笠原沖の海底一帯に広がっている。もっとも、自分たちの住んでいるところが海底だなんて、上層部のごく一部しか知らない機密事項だけどな。あくまで人為的なものだが、空もあって、昼も夜もあって、見た目は地上とあまり変わらない」
 彼の答えはますます信じがたいものだった。しかし、それを受け入れるしかないのだろう。理論を聞かされてもきっと理解はできない。ただ、彼が嘘をついていないのであれば、そういう国が間違いなく存在するのだ。澪も混乱したように顔を曇らせていたが、それ以上の疑問を挟むことはなかった。
 剛三は黙って彼の話を聞いたあと、再び口を開く。
「我々の国を攻撃するつもりはないのだな」
「俺たちは俺たちの国だけで十分幸せに暮らしてきた。わざわざ攻撃を仕掛ける理由なんてどこにもない。俺がこの国に来たのはメルローズを探すための特例で、通常は国外に出ることすら認められないくらいだ。以前も言ったと思うが、俺は連れ去られた子供たちを救出するためだけに来た。復讐をしようとは考えていない」
「信じて良いのだな?」
「信じてほしい」
 武蔵が鮮やかな青の瞳を向けて答えると、剛三はゆっくりと頷いた。
 しかし、澪は再び泣きそうな顔になってうつむいていた。その震える白い頬に、武蔵は引き寄せられるように手を伸ばすが、触れる寸前で動きを止めた。口もとに力がこもる。直後、彼女にふと薄い自嘲の笑みが浮かんだ。
「私と遥の身代わりで、メルローズが酷い目に遭ったんだもんね……」
「違う、そうじゃない、そんな言い方はよせっ!」
 武蔵は彷徨っていた手を勢いよく彼女の肩に置き、横から覗き込んだ。
「おまえには何の非も責任もないんだ、謝る必要なんてこれっぽっちもない。むしろ犠牲者だろう。責めるべきは橘美咲か橘大地か公安か……いや、そもそも俺の国での事故がすべての始まりか……」
「責任の所在についての議論は無意味だ」
 剛三は厳しい口調でそう一蹴したあと、少し声を和らげて続ける。
「それよりもメルローズの救出に注力しよう。良いな?」
「……ああ」
 武蔵は椅子に座り直してそう答え、澪も口をつぐんだままこくりと頷いた。せめてメルローズを救出しないことには、武蔵も、澪も、遥も、悠人も、篤史も、そして誠一も、自身を責め続けることになるだろう。もしかすると、剛三も責任を感じているのかもしれない。当主として彼女を守れなかったことに、そして、父親として美咲の実験に気付けなかったことに――。
「いきさつはどうあれ、武蔵、君は我々の家族も同然だ」
「……そう思ってくれるのなら、心強い」
 武蔵は視線を落としたままそう答えたが、言葉とは裏腹に、声には随分と力がないように感じられた。しかし、気を取り直したように表情を引き締めると、凛然と背筋を伸ばしてまっすぐに前を見据える。その瞳には、彼の強い決意と覚悟が滲んでいた。


…これまでのお話は「東京ラビリンス」でご覧ください。

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