瑞原唯子のひとりごと

「東京ラビリンス」第10話・嘘

「知らなかったなぁ、誠一が絵に興味あったなんて」
 久しぶりに二人の休日が重なったとある日曜日、澪と誠一は、都立西洋美術館のイタリア・ルネサンス美術展に向かっていた。誠一の提案である。たまには美術館できれいな絵を見るのもいいんじゃないかと言われ、澪も賛成したが、その彼らしからぬ高尚な発言については少し驚きを感じていた。
「誠一が興味あるのってエッチなゲームくらいかと思ってたのに」
「それを蒸し返すなって……」
 誠一は苦笑すると、ブルゾンのポケットに両手を突っ込んで空を仰いだ。
「実はそこまで絵に興味があるわけじゃないんだよな。今まで美術館なんて数えるほどしか行ったことないし。今回、ルネサンス展を見に行く気になったのは、たぶん怪盗ファントムの影響なんだろうなぁ」
「えっ……?!」
 唐突に出てきたその名前に、澪の心臓はドクンと跳ねた。
「澪も知ってるよな? 世間を騒がせている絵画泥棒」
「うん、聞いたことはあるよ」
 早鐘のような鼓動を必死に抑えながら、控えめにそう答える。いつもと違う不自然な口調になったが、誠一に気付いた様子はなく、ポケットに手を入れたまま淡々と足を進めていた。
「そいつに関連して、最近テレビや雑誌でよく絵画の特集が組まれていてな。あれこれ見ているうちに、何となく興味をひかれるようになったんだよ。そういうのは俺だけじゃないみたいで、美術館の入場者数はどこも増加傾向にあるらしい。だからといって、怪盗ファントムを容認するわけにはいかないけども」
 怪盗ファントムを容認しない――警察の人間としては至極まっとうな発言である。彼がそう考えるだろうことはわかっていたし、覚悟もしていたつもりだったが、それでもはっきり口にされるとやはり居たたまれない気持ちになる。
「もし、美術館でファントムと鉢合わせしたらどうするの?」
「もちろん捕まえるさ」
 誠一は力強く断言する。が、すぐにふっと微笑んで振り向いた。
「といっても今日は来ないだろうし、心配しなくても、俺たちのデートが邪魔されることはないよ」
 無論、澪が心配しているのはそういうことではない。だからといって訂正するわけにもいかず、うつむいたままハンドバッグを後ろに持ち直し、そうだといいんだけど……と曖昧に言葉を濁した。
「怪盗ファントムは予告なしに盗まないから大丈夫だよ。美術館が通報してない可能性もないとはいえないけど、少なくとも都立西洋美術館というのはありえないだろうな」
「え? どういうこと?」
 澪は瞬きをしながら顔を上げた。
「怪盗ファントムがこれまで盗んだ絵画は、すべて近代日本人作家の作品なんだよ。先代からずっとね。だから、西洋美術しか扱っていない都立西洋美術館には、怪盗ファントムの目当てとなるものはないはずなんだ」
「へぇ……」
 先代のことはよく知らないが、澪たちがこれまで盗んだものは、確かにすべて近代日本人作家の作品である。ただ、それを決めているのは祖父であり、澪としてはそんなことに気付きもしなかったし、何か意味があるのかもわからない。
「もうひとつ豆知識」
 澪の感嘆したような反応が嬉しかったのか、誠一はそう声を弾ませる。
「怪盗ファントムは東京都内でしか活動してないらしいよ。おそらく東京都民なんだろう。自分の土地勘のあるところだけに標的を絞っているという説が有力だ。やることは大胆なくせに、意外と慎重なところがあるんだよな……だから捕まらないんだろうけど」
 またしても澪の知らない事実を誠一から聞かされる。核心に迫る内容ではなく、ただの分析でしかないが、澪の不安を煽るには十分だった。
「随分詳しいみたいだけど、誠一、ファントム担当じゃないよね?」
「仕事は関係ないよ」
 誠一は苦笑しながら答えた。それから、少し目を細めて静かに続ける。
「刑事が言うのは問題かもしれないけど、実は俺、子供のころ怪盗ファントムに憧れてたんだよ。テレビのニュースとか食い入るように見ててな。もっとも、そのころはまだ怪盗の意味もよくわかってなかったし、単純に見た目やパフォーマンスが好きだったってだけの話だけど」
「そ、そう……」
 澪の顔が僅かに引きつった。よりによって自分と最も親しいといえる人が、子供の頃のこととはいえ、怪盗ファントムに憧れていたなんて――いや、子供の頃だけなら問題はなかった。さすがにもう憧れてはいないだろうが、今でも関心はあるらしく、怪盗ファントムの動向には大いに注目しているようだ。これではちょっとしたことで正体を疑われかねない。ただの雑談でも上手く対処できる自信がないのに、核心を突かれでもしたら、嘘をつくのが苦手な自分ではごまかしきれないだろうと思う。
「もしかして、呆れてる?」
「えっ?」
 誠一の声で現実に引き戻された。苦笑を浮かべる彼を目にすると、慌ててふるふると首を横に振る。
「そうじゃなくて……遥も同じようなこと言ってたから、ちょっとビックリしちゃって」
「遥が? そっちの方が意外だな」
 これがきっかけとなり、話題は怪盗ファントムから遥へと移っていく。なんとかこの状況を乗り切れそうなことに、澪はほっと安堵するが、同時に小さく刺すような痛みが胸に走った。しかし、そのことは、意識の奥底へそっと静かに沈められた。

「やっぱりけっこう人が来てるね」
 混雑というほどではないものの、美術館の正面は、小学生からお年寄りまで多くの人たちで賑わっていた。二つあるチケット売り場にも列が出来ている。誠一の言うように怪盗ファントムの影響もあるのかもしれないが、このイタリア・ルネサンス美術展には誰でも知っているような有名な作品が展示されており、絵画や美術に詳しくなくても興味をひかれる人は多いのだろう。
 誠一が前売り券を持っていたので、チケット売り場ではなく直接入口の方へ向かう。そこにも多少の列はできていたが、進みは早く、ほとんど待つことなく入れそうだった。二人はその最後尾に並び、ほどなくして受付まで来ると、誠一は係の女性に前売り券2枚を手渡した。
 ――瞬間。
 澪たちの背後を何かが勢いよく通り抜けていった。つむじ風が起こり長い黒髪を舞い上げる。不思議に思いながら美術館内に振り向くと、その視線の先には――。
「怪盗ファントムだ!!」
 館内にいた誰かが叫んだ。黒いジャケットとプリーツスカートを身につけた人物が、長い黒髪を大きくなびかせながら、唖然とする人々の間を、素早い身のこなしで縫うように突っ切っていく。
 それを目にした途端、澪は我を忘れて駆け出していた。
「おい、澪!」
 呼び止める誠一の声も耳に入らない。脇目もふらず、黒い背中だけを追って全力疾走する。
 すぐに距離は縮まる。
 後ろからジャケットの腕を掴んでうつぶせに引き倒すと、手首をねじり上げながら馬乗りになり、もう片方の手を背中側に押さえつけた。顔を覆っていた白い仮面は、床に倒れた衝撃で顔から外れ、カラカラと軽い音を立てながら滑るように転がっていく。
 あっというまの出来事だった。まわりはみな怪訝な顔をしている。
「澪! 大丈夫か?!」
 少し遅れて誠一が走ってきた。その手には澪の白いハンドバッグが握られている。追いかけるときに放り投げた記憶があるので、それを拾ってきてくれたのだろう。
「うん、私は平気」
 澪は拘束の手を緩めることなく、小さく微笑んで答える。
 誠一はほっとしたように息をついた。そして、両手を腰に当てながら、まじまじと見下ろして言う。
「しかし、まさか怪盗ファントムを捕まえるとはな」
「……えっ?」
 澪はあらためて捕らえた人物に目を落とす。見事なくらいに怪盗ファントムそっくりの衣装を身につけているし、髪型もほぼ同じといってもいいくらいだが、自分でなく、遥でもなく、全くの見知らぬ女性である。
「違うの! この人はただのニセモノ……よね?」
「そうだけど悪い?! 放してよ! 痛いじゃない!!」
 彼女は横目でキッと睨みつけながら、じたばたして拘束を振り払おうとするが、澪は逃さないようしっかりと握りしめる。先ほどの身のこなしからすると運動神経は悪くなさそうだし、女性にしては腕力もある方だと思うが、この体勢ではどう頑張っても澪から逃れることはできないだろう。
「だよなぁ、ファントムにしちゃあ、脚が太いと思ったんだ」
 澪たちを見下ろしていた野次馬のひとりが、両手を腰に当てながらそう言って、ガハハと豪快に笑い声を響かせた。つられるように、あちらこちらで遠慮がちに失笑が起こる。
「脚だけじゃなく全体的に太めなんだよな」
「それに本物はもうちょっと背が高いだろ」
「そうそう、足もこんな短くねぇしな」
 今度は若い男性たちのグループが、口々にそんなことを言い始めた。
「悪かったわね!!」
 偽ファントムは頭から湯気が立ちのぼりそうなくらい真っ赤になっていた。自業自得といえばそうなのかもしれないが、さすがに同じ女性として少し気の毒になり、澪は同情的な眼差しを彼女に向ける。しかし――。
「どちらかっていうと、こっちの嬢ちゃんの方がファントムっぽいよな」
 突然、野次馬の矛先は澪に向けられた。一瞬、澪は何を言われているのか理解できず、指をさされたままぽかんとするが、その意味に気付くと大きく息をのんで目を見開いた。
「私?! ちょっとそれ絶対に違いますから!」
「おいおい、そんなにムキになって否定することもないだろう。嬉しくないのか? 怪盗ファントムって巷じゃスタイル抜群の美少女怪盗とか言われてるんだぞ?」
「嬉しいわけないじゃない! は、犯罪者なんだからっ!!」
 澪は顔を上気させながら必死に反論したが、なぜか相手の男性は腰を屈めて噴き出した。
「確かにそうだ、悪かった悪かった。にしても真面目な嬢ちゃんだなぁ」
 彼が陽気にそう言うと、まわりもつられて笑い出した。誠一も一緒になって笑っている。
 どうやら怪しまれてはいないようだ。そのことについてはほっと胸を撫で下ろしたものの、からかわれたように感じてムッとし、澪は無意識のうちに偽ファントムを掴む手に力を込めていた。
「痛っ! いつまでこうしてるつもり?! いいかげん放しなさいよ!」
 偽ファントムが再びじたばたして喚き始めた。
「もともと何も盗むつもりはなかったの! ただの大学サークルの余興よ! 怪盗ファントムの格好で美術館を一周してくることになって、私は先輩の命令で仕方なくやっただけなんだから」
「大学生にもなって、やっていいことと悪いことの区別もつかないのか」
 誠一は説教じみた口調でそう言いながら、ブルゾンの内ポケットから携帯電話を取り出した。それを見た偽ファントムの顔がさっと青ざめる。
「ちょっとやめてよ! 何も盗んでないじゃない!!」
「でも君、入場料、払ってないよね?」
「は?!」
 彼女は全力で目を丸くした。
「払うわよ、払えばいいんでしょう!」
 やけっぱちのように声を張り上げる彼女に、誠一は冷ややかな視線を投げかけた。再びブルゾンの内ポケットに手を差し入れると、黒い手帳を取り出して開き、床に倒された彼女の鼻先にそれを掲げる。
「警視庁捜査一課の南野だ」
 偽ファントムはぎょっとして目を見開き、絶句した。野次馬たちからは「おおー」と感嘆の声が上がる。誠一は警察手帳をしまうと、手にしていた二つ折りの携帯電話を開いた。
「君が本物か偽物かもまだわからないからな」
「サークルの余興だって言ったでしょう?!」
「言いわけは取り調べのときにしてくれ」
 そう言うと、素早くいくつかのボタンを押して携帯電話を耳に当てる。観念したのか、彼女はもう暴れることも騒ぐこともなかった。
「捜査一課の南野です」
 おそらく警視庁のどこかに電話したのだろう。ここでの出来事や現在の状況などを的確に説明していく。普段はほとんど意識していないが、こういう一面を見ると、やはり誠一は刑事なのだと実感せざるを得ない。タイル張りの床に押さえつけられた偽ファントムの後ろ姿が、おぼろげに自身と重なり、澪はその手首を掴んだままきゅっと口を引き結んで眉を寄せた。


…続きは「東京ラビリンス」でご覧ください。

ランキングに参加しています

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「小説」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事