瑞原唯子のひとりごと

「東京ラビリンス」第38話・拒絶よりも残酷な

「何度目かな、ここへ来るのは」
 先導する悠人に続き、大地はぐるりと部屋を見まわしつつ足を踏み入れ、やけに浮かれた声音でそんな独り言を呟いた。楽しい話をするわけではないと承知しているはずだが、ニコニコと微笑み、まるでこの状況を楽しむかのような素振りを見せている。
「同じ屋根の下で暮らしてるんだから、たまには呼んでくれよ」
「ほとんど帰って来ないくせに勝手なことを言うな」
 悠人はまとわりつく友人をぞんざいにあしらいながら、いつもの肘付き椅子に腰を下ろし、彼にはすぐ隣のベッドに座るよう手振りで促した。悠人の部屋は来客をもてなせるほど広くなく、ソファの類は置かれていないため、座ってもらうところはそこくらいしかない。大地は文句も言わず素直に腰掛けたものの、いまだ部屋のあちこちを興味深げに観察していた。私的な空間を探られることに落ち着かないものを感じながら、遠慮がちに彼の横顔を窺う。
「あんな昔の冗談を実行するとはな」
「おかげで自由の身になれた」
 大地は振り向いてにっこりと微笑む。しかし、悠人はふいと冷ややかに目を細めた。
「僕が忘れているとは思わなかったのか」
「おまえは忘れないよ、一生ね」
 彼の口調はまるで確信しているかのようだった。いや、彼には実際に確信するだけの根拠があるのだ。それが何なのかは悠人自身にもわかっている。それでもほんの僅かに顔をしかめただけで、あえて素知らぬ態度で机に向かい、閉じてあったノートパソコンをゆっくりと開いた。

 画面に表示された見取り図と照らし合わせながら、悠人は大地から警察庁での話を聞き出す。
 彼の監禁されていたところには、ベッドが備え付けられた八畳ほどの居室に加え、自由に出入りできるユニットバスもあったらしい。しかし、手元の見取り図にはそのような部屋は存在しない。部屋の外の様子がわかればと思ったが、移動時は常に目隠しをされていたので、一度たりとも見ていないとのことだ。ただ、取調室に向かうときはエレベーターで上がる感覚があったという。そこからわかるのは、監禁部屋があるのは地下三階の取調室よりさらに下ということくらいである。
 メルローズに関してもこれといった手がかりは得られなかった。姿を目にすることもなく、声を耳にすることもなく、またそれらしき物音も聞こえず、見張り以外の気配はまるで感じなかったという。おそらくかなり離れたところに留置されていたのだろう。そして、やはりその場所は見取り図に載っていないと思われる。なにせ、彼女は大地以上に慎重に扱わねばならない存在なのだから――。

「おまえ、嘘は言っていないだろうな?」
「この期に及んで嘘なんてつくかよ」
 メルローズの居場所が思うように探れないもどかしさから、悠人は半ば八つ当たりのように言いがかりをつけたが、大地は取り立てて気分を害した様子もなく、地味な紺色のネクタイを緩めながらさらりと答えた。
「ここでの話も、書斎での話も、すべて僕の知りうる範囲での事実さ」
 疑っていたわけではなかった。警察庁での監禁の様子はもちろん、実験に至ったいきさつについても――少なくとも小笠原でフェリー事故に遭ったことは紛れもない事実であり、その点には同情もするが、やはりどうあっても彼の選択が正しかったと認めるわけにはいかない。
「……どうして相談してくれなかった」
「おまえに相談してどうにかなるか?」
「間違った道に進むのを止められた」
「随分な思い上がりだな」
 大地は愉しげに鼻先でせせら笑う。
 思い上がり、と言われても仕方がないのかもしれない。これまで一度たりとも忠告を聞き入れてもらえたことなどなかった。そして、ひどく腹立たしさを感じつつも仕方のないことだと諦めていた。だが、ここまでの事態となれば話は別である。椅子をまわし、ベッドに座っている彼と膝を突き合わせて口を開く。
「おまえの様子がおかしいのには気付いていたが、大事故に遭ったんだから無理もない、そっとしておくのがおまえのためだと思っていた。だが、こんなことになるなら無理にでも聞き出せば良かった。そうすれば……」
「公安に口外するなと言われていたんだ」
「おまえがそんなものに縛られるとは思えない」
 大地はフッと笑う。
「どちらにしろ誰にも言うつもりはなかったよ。あんなもの理解してもらえるわけないからな。情けない話だが、あれからしばらくの間は、事故を思い出しては恐怖で身を震わせていた。あのときの僕に必要なのは美咲だけだった。美咲が身も心も捧げてくれたおかげで、僕の冷えた心はあたためられていったんだ」
 カッ、と悠人は頭に血が上るのを感じた。
 事故からしばらくして美咲と会ったとき、大地に助けられた命だから彼のために使いたい、という少し不穏なことを口にしていた。そのときのやけに大人びた表情が脳裏に焼き付いている。おぼろげながらではあるが嫌な予感はしていた。なのに、どうしてあのとき何も行動を起こさなかったのか――。
「美咲をおまえから引き離すべきだった」
「僕が壊れたままでいればよかったと?」
「美咲はまだ子供だった」
「じゃあ、おまえが美咲の代わりになってくれた?」
 大地は膝に手を置き、少し前屈みになってじっと悠人を見つめる。含みのある口調、挑発的な眼差し、引き上げられた口角――煽っているだけだということはすぐにわかった。が、痛いくらいに暴れる鼓動は止められず、彼の視線に絡め取られるように硬直したまま、何も言葉を返すことが出来ない。
「冗談だよ」
 そう言って大地は人懐こい笑みを浮かべると、上体を起こして背筋を伸ばす。
「おまえにあのときの僕の傷は癒せない。それができるのは、同じ事故を経験し、同じ秘密を共有した美咲だけだ。別に美咲をないがしろにしたつもりはないよ。力尽くってわけじゃないし。まあ、最初に限っていえば多少強引だったのは否めないけどね」
 想像などしたくもないのに、意志に反してその光景を思い浮かべてしまう。脳裏に響く幼い美咲の泣き声に、涙に、悠人はギリと奥歯を軋ませる。大地が身勝手な人間であることは承知していたが、それでも美咲にだけは優しくしていると信じていた。なのに――。
「そのうえ、おまえは美咲を歪んだ研究の世界へ導いた」
「ああ、おまえには感謝しているよ」
 話の繋がりがまるで見えない。問いかけるように眉を寄せると、大地は思わせぶりに微笑を浮かべる。
「小笠原のフェリー事故に遭ったときには、もう研究に取りかかる下地が出来ていた」
 まさか、あのことを知って――。
 悠人はゾクリとして小さく息をのんだ。杞憂でないことは、彼のしたり顔を見れば明らかだった。
「何も知らないと思っていたのか。おまえが毎週のように美咲を大学の図書館に連れて行ってたことなんて、当初からすべて把握していたよ。ま、正直あまり面白くはなかったけど、美咲も楽しそうにしていたし、知らないふりをしてやっていただけさ。おまえに出来るのはせいぜいその程度だろうしな」
 もしかしたら美咲と出かけていることを勘付かれているのでは、と感じたことは何度かあったが、ここまで何もかも突き止められているとは思わなかった。今さらながら驚きと困惑で言葉にならない。
「おまえは臆病なんだよ」
 大地は少し後ろに両手をついて天井を見上げた。ベッドのスプリングがギギギと軋む。
「僕の実質的な婚約者である美咲を奪うことなんて出来なかった。彼女への想いが日ごとに膨らんでいくことを自覚していても、そして、彼女の気持ちが自分に傾きつつあることがわかっていても」
 悠人の鼓動は次第に速さを増していく。喉はすでにカラカラだった。
「事故以前の僕は、美咲にとって『大好きなお兄ちゃん』でしかなかったからね。彼女が他の異性に恋心を抱いても責められはしない。もっとも、まだ愛とも恋ともつかない淡い想いだったみたいだけど。いずれにせよ、その相手がおまえで良かったと心から思ったよ」
 僕で良かった――?
 ふと猜疑と期待の綯い交ぜになった表情が浮かぶ。それはほんの一瞬だったはずだが、目ざとい大地が見逃すことはなかった。フッと含みのある嗜虐的な笑みを零し、答えを口に上す。
「おまえなら、何の気兼ねもなく叩きのめせるからな」
「…………」
 腹立たしく思うと同時に納得した。叩きのめせる理由を見つけてさぞや歓喜したことだろう。何かにつけて悠人の神経を逆なでし、その反応を見るのが、彼の悪趣味な楽しみごとの一つなのだ。
「まあ、そうする前に美咲を僕のものにしてしまったわけだけど。本気になったおまえとやり合ってみたい気持ちもあったよ。美咲の心がおまえに傾いても、美咲を奪い去ったとしても、僕はありとあらゆる手段を用いて奪い返すけどね」
 悠人は無言のまま表情を硬くし、瞳だけを揺らした。
 大地はニッと口角を上げて言葉を継ぐ。
「なぁ、どんな気持ちだった? 僕と美咲のことを引きずりながら、僕たち住む家に居候して、僕たちの父親に仕え、僕たちの子供を育てるってさ。美咲はもうほとんど気にしていないようだが、僕はそんなおまえを見るのが楽しくて仕方なかった。どんな気持ちでいるのか考えると胸が躍った。まさか澪に向かうほどこじらせているとは思わなかったけど」
「違う、それは関係ない!」
 悠人は身を乗り出して否定した。しかし、大地は涼しい顔で言い返す。
「無意識かもしれないが、無関係とは言えないだろう。澪が好きだという気持ちまでは疑っていないよ。ただ、僕と美咲の子供だから興味を持った、執着した、そして意地になって手に入れようとする――違うか? あ、別におまえと澪のことを反対しているわけじゃないからな。おまえなら澪を大切にしてくれるだろうし、おまえもようやく少し報われるだろうし」
 相も変わらず勝手なことばかり言いやがって、と悠人は自嘲を滲ませた。
「澪との結婚はもう諦めている」
「えっ、どうして?」
「切り札をなくしてしまった」
「いくらでも方法はあるだろう」
 大地はそう言って得心のいかない顔で腕を組み、首を捻った。
「父さんも二人の結婚を望んでるんだから、頼めばどうにかしてくれるはずだぞ。自分の力で手に入れたいんだとしても、まだいくらでも策を弄する余地はある。少なくとも諦める段階じゃない。おまえにしてはめずらしく積極的に頑張っていたのにどうしたんだ? もしかして、澪に人間以外の血が混じっているとわかって嫌になったのか?」
「そんなことは思ってない!」
 悠人はカッとして声を荒げた。それでも、大地は淡々と畳みかける。
「僕の子じゃなかったから興味をなくしたか?」
「……澪の気持ちを無視できないと思っただけだ」
「どうだかな」
 澪に対する気持ちが冷めたわけではない。確率としてはとても低いだろうが、澪が恋人と別れることになったら、そして澪さえ了承してくれるのなら、彼女と結婚したいと今でも思っている。だが、「俺の子じゃなかったから」と問われ、一瞬ドキリとしたことは否定できない。
 大地は気楽な口調で続ける。
「ま、澪に執着するのをやめて、普通に恋愛してみるのも悪くないかもな。おまえ、一度だってまともに恋愛したことないだろう? 佐藤由衣にしても俺が付き合えって言ったからで、結局、最後まで好きになれなかったみたいだし」
 元交際相手の名前を耳にして、悠人は我知らず眉間に皺を寄せた。
「おまえのせいで二年近くも無駄にした」
「女を知れて良かったじゃないか」
 大地はむしろ感謝しろとばかりに尊大な暴言を吐き、クスクスと笑う。
「佐藤と付き合ってなければ、多分その年まで童貞だったよ」
「それでも構わなかった。好きでもない女とでは虚しさしか残らない」
 彼女と付き合ってわかったことの一つがそれだった。事の最中はいい。余計なことを喋らなくていいし、何も考えなくていいし、他のことをするよりもよほど気が楽である。けれど、終わったあとはいつも虚しさしか残らなかった。これが好き合っている相手ならきっと違うのだろう。
「だったら、さっさと別れれば良かったんだ」
「誰のせいだと思って――」
「そんなに怖かったか? 僕に絶交されること」
 彼女と付き合わなければ絶交する――大地が軽い気持ちで口にしたその言葉を真に受けて、二年近くも付き合い続けた。苦痛を感じても耐え続けた。傍から見れば馬鹿みたいに映るかもしれないが、当時はそのくらい彼に絶交されることを怖れていたのだ。なぜなら、彼はただ一人の友人であり、秘密を共有する仲間であり、そして――。
「……その質問には、あのとき答えただろう」
「できれば言葉で聞かせてほしいね、その口から」
 大地は目を細めて蠱惑的な視線を送ると、固く引き結ばれた唇にすっと手を伸ばす。男性にしては細くきれいな指先が、微かに触れたその瞬間――悠人の中で何かがぷつりと切れた。その手を叩きつけるように薙ぎ払うと同時に、上体をベッドに押し倒し、膝立ちで跨がりながら首に両手を掛ける。真上から見下ろした彼は、鳩が豆鉄砲を食ったように目を丸くしていたが、ややあって状況を把握すると愉快そうにふっと笑う。
「僕はさ、美咲とおまえになら殺されても構わないと思っている。絞めたいのなら絞めろよ」
 彼が話すたび手のひらに振動を感じ、体の芯がゾクリとした。
 たったこれだけのことで――。
「どうした?」
 そっと穏やかに問いかける唇に、薄い微笑が浮かんだ。
 悠人はきつく目をつむってググッと両手に力を込めていく。そこから彼の体温と脈動が伝わる。彼の体が柔らかくないベッドに沈むと、潰れた呻き声が上がり、苦しげにもがき始めたのがわかった。彷徨っていた彼の手がジャケットの袖口を掴む。やがて、その手がだらりと落ちた気配に気付くと、ハッと大きく目を見開いて力を緩めた。
「大地!」
 ぐったりとした彼を見て体中から血の気が引いた。しかし、すぐに彼はゲホッと咳き込んで身を捩った。うっすらと痕の付いた首に手を当て、背中を大きく揺らしながら、ぜいぜいと荒い息遣いで喘いでいる。
「おまえは中途半端なんだよ」
 吐き捨てるようにそう言うと、またがっていた悠人を押しのけてベッドから体を起こした。大きく息をつき無造作に前髪を掻き上げる。そして、酷薄な眼差しを悠人に向けて口を開いた。
「いろんなものを引きずっているせいで、本当の望みは何なのか、自分でもわからなくなってるんだろう。僕は決して見失わない。そして、いくら非難されようとも、誰から恨みを買おうとも、本当に欲しいものは必ずこの手で掴み取る」
 格好をつけているわけでも大袈裟に言っているわけでもない。実際に大地はそういう生き方をしてきたのだ。他人の事情を顧みず強引に突き進んでいく彼に、許し難い腹立たしさを感じながら、同時に焦がれるように強く惹かれてもいた。けれど――。
「僕は、おまえのようにはならない」
「覚悟もないくせに、物欲しそうな顔ばかりしやがって」
 大地は唾棄するように言い放つ。
 それでも、きっと見えない鎖で縛り付けたまま解放してはくれないのだろう。たいして興味もないくせに、好きでも嫌いでもないくせに、ふらりとやってきては心の中を素手で掻きまわし去っていく。いっそ完全に拒絶してくれた方がどれだけ楽かと思う。
「話はもう終わったのか?」
 物思いに耽っていると、大地はぶっきらぼうにそう言って立ち上がった。軽く右手を挙げ、ポケットに左手を差し入れながら、迷いのない足取りで立ち去ろうとする。
「……どこへ行く」
「決まってるだろう? 僕の妻のところだよ」
 彼はドアノブに手をかけたまま振り返ると、艶然と微笑を湛え、立ち尽くす悠人に横目を流して答えた。僕の妻、というところには露骨なアクセントがつけられている。
 今さら、こんなことで揺さぶられたりはしない――。
 悠人はそう自分に言い聞かせるが、それでも心がざわつくのは止めようがなかった。唇を噛みしめながら去りゆく背中を睨めつける。しかし、扉の閉まるバタンという音で我にかえると、何をするつもりかわからない彼を追って駆け出した。


…これまでのお話は「東京ラビリンス」でご覧ください。

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