瑞原唯子のひとりごと

「ピンクローズ - Pink Rose -」第8話 託すことのできるただ一人

 サイファが魔導省に入省して二年が過ぎた。
 最初の一年に義務づけられている公安局での勤務を無事に終え、今は内局で勤務している。現場を離れれば少しは楽になるかと思っていたが、忙しさという点ではあまり変わりはなかった。
 仕事に対する大きな不服はない。もちろん、まったくないわけではなかったが、いずれも些細なことであり、我慢できないほどではない。どこに勤めていても、多少は問題が出てくるものだろう。
 同僚とも上司とも上手くいっている。公安局のときほど密な付き合いをしているわけではないが、仕事は円滑に進められており、職場の雰囲気は良い方だろう。若手の意見もきちんと聞いてもらえ、尊重もされている。もっとも、サイファの場合は、ラグランジェの名が影響しているという可能性は否めない。しかし、サイファはその利点も欠点も理解しており、それを受け入れる覚悟はとうに出来ていた。
 そんな彼の、ただひとつといってもいい不満――それは、レイチェルと会う時間が思うように作れないことだった。

 その日は、早くに仕事が終わった。空はまだ青い。
 サイファは自宅に戻ることなく、まっすぐレイチェルの家に向かっていた。もしかすると、まだ家庭教師の時間かもしれないが、そのときは家の中で待たせてもらうつもりだった。一刻も早くレイチェルに会いたい、その一心での行動である。自宅に戻ることなど考えられなかった。
 彼女の家の前に差し掛かったところで、反対側から駆け足で近づいてくる小さな少年に気がついた。彼の方もサイファに気がついたらしく、「あっ」と小さく声を上げて足を止めた。眉間に皺を寄せ、嫌悪感を露わにして睨みつけてくる。

 この少年の名前はレオナルド。レイチェルの家の隣に住む、6歳の子供である。柔らかそうな金の髪と、鮮やかな青の瞳――そう、彼もまたラグランジェ家の人間なのだ。そのこともあってか、最近、彼女のところへ毎日のように遊びに来ていると聞く。彼の両親も自由にさせているようだ。同じ一族という気安さと安心感があるのだろう。いい遊び友達が出来たとでも思っているのかもしれない。
 それだけなら良かった。だが――。
 レオナルドはレイチェルに並々ならぬ好意を抱いていた。平たくいえば、恋をしているということになるだろう。本人がそう言ったわけではないが、見ていれば誰でもわかるくらいに態度があからさまだった。彼女といるときだけ表情が違う。必要以上に甘えたり、抱きついたりして触れ合おうとする。そのうえ、一人前に独占欲まで見せている。
 幼い憧れといってしまえばそれまでだ。
 だが、サイファは、それを微笑ましいものとして受け止めることなど出来なかった。レイチェルは自分の婚約者である。レオナルドも、ラグランジェ家の人間である以上、そのくらいのことは知っているはずだ。それにもかかわらず、彼女に独占欲を抱くなど、図々しいとしかいいようがない。
 だいたい、レオナルドという名前からして気に入らなかった。
 レイチェルが生まれる前、アリスは子供の名前についてこう言っていた。
 ――男の子ならレオナルド、女の子ならレイチェルにするつもり。
 だから、どうというわけではない。それだけのことだ。だが、何か運命めいたものを感じてしまい、どうにも面白くなかった。まるで言いがかりのような嫉妬である。自分でも大人げないことはわかっていた。それでも、心の中に渦巻く黒い気持ちは止めようがなかった。
 もちろん、サイファは理性のある大人だ。極力、それを表に出さないようにしていた。他の人の見ている前では――。

「何だ、レオナルド」
 サイファは冷ややかに見下ろし、突き放した口調で言った。
「おまえなんかに用はない。レイチェルのところへ行くんだ」
 レオナルドは敵対心を剥き出しにして答えた。だが、内心びくついていることは、手に取るようにわかった。サイファがラグランジェ本家の次期当主であることも、そのサイファに良く思われていないことも、幼いなりに理解しているのだろう。
「悪いが今日は帰ってくれ。彼女は僕と過ごす」
「おまえが勝手に決めるな!」
 冷淡に告げるサイファに、レオナルドは精一杯、強気に言い返す。
 サイファは無視して門をくぐろうとした。
 そのとき、扉が重たい音を立てて開き、中から知らない男性、続いてレイチェルが出てきた。ふたりはその場で足を止め、微笑みを交わした。
 サイファはとっさに塀に身を隠した。同時に、レオナルドを自分のもとに引き寄せた。抗議の声を上げようとした彼の口を、しっかりと手で塞ぎ、じたばたと手足を動かして抵抗する小さな体を、反対側の手で拘束する。そして、見つからないようにそっと首を伸ばし、玄関の様子を窺った。

…続きは「ピンクローズ - Pink Rose -」でご覧ください。

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