瑞原唯子のひとりごと

「東京ラビリンス」番外編・青い炎 - 僕の大切な女性として

「見つけたんだよ、運命の相手」
 それは、大学生活にも慣れてきた六月初旬のことだった。
 大地はめずらしく小走りで大講義室に駆け込んでくると、先に席を取っていた悠人の隣にはずむように座り、声をひそめながらも興奮がありありとわかる口調でそう言ってきた。
 しかし、悠人は風邪ぎみでぼんやりしていたせいか、すぐには理解できなかった。いつもより働かない頭でゆっくりと考える。――数秒後、ハッと目を見開いて隣に振り向くと、彼は肯定するように満面の笑みを浮かべていた。

 とうとう来てしまった、この日が――。
 大地は運命の相手を見つけるために様々な女と付き合ってきた。付き合ってみて違うと判断したらすぐに別れるのだ。短ければ一週間、長くても二ヶ月がせいぜいである。これまで数十人と付き合ったがどれも違ったらしい。けれど六年を経てようやく見つけたのだという。
 友人ならばすぐにでも笑顔で祝福すべきなのかもしれないが、さまざまな感情が入り乱れてそれどころではなかった。見つかればいいなとかつて彼に告げた言葉は決して嘘ではない。だが、心の奥底には見つからなければいいという陰湿な思いもあったのだ。

「相手は、誰だ」
 努めて平静を装いながら、若干うわずった声で尋ねる。
 大地は数日前から文科一類の同期生と付き合っていたはずだが、昨夜までは運命などと一言も口にしていなかった。この一晩でいったい何があったのだろうか。その彼女に運命を感じる出来事があったのか、それとも新しく運命的な出会いがあったのか――。
「きのう、僕が返却に行っただろう?」
 その曖昧な物言いはまわりに聞かれる可能性を考慮してのことだろう。怪盗ファントムとして盗んだ絵画を本来あるべき場所に戻しに行った、というのが実際の話だ。もともとは悠人が行く予定だったが、風邪をひいて熱も出ていたので大地に代わってもらったのである。
「その途中で出会ったのか?」
「届けた相手だよ」
 さらりと返された答えを聞き、ついと眉を寄せる。
 きのうの絵画は、夭折した天才画家である相沢修平の遺作「其の瞳に映るもの」で、本来はその中に描かれている彼の娘に贈られたものだった。それをあくどい美術商が騙して奪い去ったことを知り、怪盗ファントムが奪い返して本来の所有者である娘に返したのだが、確か――。
「それって小学生の女の子じゃなかったか?」
「今はね。でも何年かすれば結婚できるよ」
「…………」
 彼は本気のようだ。しかしながら小学生相手に運命を感じるなど、さすがにどうかしているとしか思えない。ロリコンと言われても仕方がない。本人もいままで気付いていなかったが、実は……ということだろうか。
「そんな顔するなよ」
 考えが表情に出ていたのだろう。大地は苦笑しながらそう言うと、明確に否定する。
「ロリコンじゃないぞ。好きになった子がたまたま八歳年下というだけさ。いくらなんでも小学生に手は出さないから安心しろ。これからずっと一緒に生きていくんだからな。あせって嫌われるような真似はしない」
 そう言われたところで不安が払拭されるはずはない。百歩譲ってロリコンではないのだとしても、きのう会ったばかりの小学生にそこまで入れ込めるなど、まったく理解不能である。彼が真摯であればあるほど空恐ろしく思えてくる。
「どうしてその子なんだ?」
「見た瞬間、雷に打たれたみたいに感じてこの子だと確信したんだ。間違いないよ。ちょうど僕の誕生日だったのも運命としか思えない。赤い糸って本当にあったんだな」
 恥ずかしげもなくそんなことを口にする彼を見て、悠人は眉をひそめる。
「向こうは運命なんて感じてないだろう」
「そうだろうね」
 大地は意外にもあっさりと肯定して頬杖をついた。現実を認識するだけの冷静さはあるようだ。
「おまえを好きにならなかったらどうする?」
「そんなことはありえないと思ってるけど」
「……随分な自信だな」
「好きになってもらうからね。何がなんでも」
 そう言うと横目を流し、形のいい唇にうっすらと挑発的な笑みをのせる。
 悠人はぞわりと粟立った。その言葉から、その表情から、何か不穏なものを感じたのは気のせいではないだろう。どういうつもりかはわからない。ただ、彼がおかしな気を起こさないよう願わずにはいられなかった。

 その日のうちに、大地は付き合い始めて間もなかった文科一類の彼女と別れた。好きな人ができたからと正直に告げて。もう運命の相手を見つけたので他の誰とも付き合う必要はない。わかってはいたが、彼がいかに本気であるかをあらためて思い知らされた気がした。
 翌日以降は別行動になることが増えた。彼が何をしているのかは聞いていないが、おそらく運命の少女に関係することだろう。大学の講義でさえときどき休んでいる。それでも学業を棒に振るほど愚かではないらしく、出席しなくても支障のないものを選んでいるようだった。
 数週間が過ぎたころ、橘の家でいつものように大地と向かい合わせに座り、互いに黙々とレポートを作成していると、にわかに部屋の外が騒がしくなった。複数の男性らしき声や足音が聞こえる。
「うるさくて申し訳ないな」
 悠人の手が止まったのを見て、大地は軽く肩をすくめながら謝罪の言葉を口にした。いや、と悠人は曖昧に応じながらも廊下の方に意識を向ける。どうやら何か大きなものを運び入れているようだ。家具だろうか。
「美咲の部屋を整えてるんだよ」
 思案顔の悠人に、大地がそう端的に教えてくれた。声からは嬉しさがにじんでいる。
「美咲って、もしかして例の運命の相手か?」
「そう、近々うちで暮らすことになってね」
「……ちょっと待て」
 悠人は頭を押さえながらうつむいた。
 彼女はまだ小学生だ。常識的に考えればいくらなんでも同棲など早すぎる。一瞬、彼女の親は何をしているのかと激しい怒りを覚えたが、そういえば両親ともに亡くなっていたのだと思い出した。だからといってこんな横暴が許されるはずは――。
「誤解するなよ。美咲は妹になるんだ」
「……何だって?」
 そろりと怪訝に顔を上げ、思いきり眉をひそめて聞き返すと、正面の大地はくすりと笑った。
「父と母の養子になる。つまり僕の妹だ」
「それは、おまえが望んだことなのか?」
「もちろん父さんも賛成しているけど」
 あまりにもわけがわからなくて目眩がしてきた。ようやく見つけた運命の相手だというのに、自ら進んで義理の妹にするなどありえない。うつむいて眉間を押さえる。
「おまえ結婚するんじゃなかったのか?」
「美咲が十六歳になったらすぐにでもね」
「…………」
 ようやく理解した。
 悠人は知らなかったが、彼がこれだけ得意気に答えているということは、義理の兄妹でも法律上は結婚できるのだろう。つまり、結婚するまでは妹としてそばに置こうとしているのだ。結婚まで待ちきれなかったのか、逃げられないよう囲うためなのか、いずれにせよあまりにも自己中心的だと云わざるを得ない。彼女が何も知らないのなら騙しているも同然だ。
「そこまでやるのは異常だぞ」
「逃がすつもりはないからね」
 のぼせ上がっている大地が暴走するのはまだわからなくもないが、父親の剛三までもが容認し協力していることが何より解せない。大人としても親としても止めて然るべきなのに。ダン、と勢いよくテーブルに手をついて立ち上がる。
「剛三さんと話をしてくる」
「まだ帰ってないよ」
 冷静な声でそう告げた大地の口もとは緩んでいた。そんな彼を睨みながら悠人は仕方なく腰を下ろす。深夜まででも、朝まででも、帰ってくるのを待とうと心に決めて。

「彼女を養子にするのは反対です」
 剛三が帰るなり、悠人は彼の書斎に乗り込んでそう訴えた。
 執務机で筋張った両手を組み合わせながら座っていた彼は、必死な悠人とは対照的に、悠然とした居住まいで面白がるような表情を見せている。悠人が言うことなど初めからわかっていたかのように。
「心配しなくていい。彼女の意に沿わないことはするな、彼女の自由は奪うな、と大地にはきつく言いつけてある。ただ普通に我々の家族として迎え入れるだけだ。瑞穂も前々から娘をほしがっていたのでな。信じられんか?」
「そういうわけでは……」
 剛三は思ったよりも真面目に考えていたようだ。息子に協力はしているが、盲目的に言いなりになっていたわけではなく、少女の不利益にならないようにという配慮が窺える。瑞穂なら愛情をそそいで可愛がるかもしれない。それでも――。
「ただ、彼女を騙していることには違いありません。いずれ大地と結婚させられるなんて、そのつもりで養子にされたなんて、彼女は何も知らされていないのでしょう」
「彼女が望まないかぎり大地と結婚させることはない。大地も了承している」
「…………」
 そこまで言われてしまうと返す言葉がない。すべて彼女の意思に委ねられているのなら、少なくとも表面上は何の問題もないといえる。だがどうしても納得することはできなかった。手のひらにうっすら滲む汗を握りしめながら、必死に頭をめぐらせる。
「君も知ってのとおり、彼女は孤児だ」
 ふいに深みのある低い声がゆったりと響いた。悠人は怪訝に顔を上げる。
「しばらくは父親の友人が面倒を見ていたが、それでは問題があるということになり、児童養護施設へ送られることが決まっていた。それよりは橘の養子になる方がいいと思わんか? 彼女にとっても悪い話ではないということだ」
 確かに、橘家の方が恵まれた環境であることは疑いようがない。それでも――。
「……悠人君」
「はい」
 剛三は顔を上げ、感情の読めないまなざしを悠人に向けた。
「君の気持ちを否定するつもりはさらさらない。心の中は自由だ。そこにとどめる限りはどんな思考も感情も許される。だが、行動に移せば当然ながら咎められることもある。君もわかってはいるだろうが、大地には結婚して子をなす義務があるのでな。そこは理解してほしい」
 瞬間、茹だったように顔が熱くなった。
 まさか――大地に抱いている気持ちを見透かされているのだろうか。この物言いはそうだとしか思えない。暗に邪魔をするなと言われているのだ。頭の中が気持ち悪いくらいぐわんぐわんとまわり、まるで地面まで波を打っているように感じる。
 養子縁組に反対したのは倫理的に間違っていると思ったからで、彼女と大地を近づけたくないからというわけではない。けれど、そういう浅ましい気持ちも心のどこかにあったのではないか。剛三の説明に頷こうとしなかったのもそのせいかもしれない。
 大地への気持ちを見透かされたことも、無意識の狡さを自覚させられたことも、何もかも恥ずかしくて居たたまれない。いまにも火を噴きそうなほど全身が熱くなり、目まで潤むのを感じながら、ぎこちなく一礼して逃げるように書斎をあとにした。

 数日後――。
 大地に運命の相手と言わしめた少女が橘の家にやってきた。シンプルながらも上質な紺のワンピースと白いカーディガンを身につけている。靴下も靴も上等そうだ。大地が選んだかどうかはわからないが、橘の用意したものであることは間違いない。
 この少女を見るのは今日が初めてである。
 絵画に描かれていた彼女なら盗んだときに目にしたが、意志の強そうな理知的な光を瞳に宿し、複雑な思いを秘めた表情を浮かべ、幼いながらも年齢不相応な危うさと美しさを感じさせた。しかし、それは作者である父親の贔屓目でしかなかったのだろう。
 実物はまったく違う。それなりに可愛いもののとびきりの美少女ではなく、不安そうに瞳を揺らしておどおどしており、拍子抜けするくらい地味で平凡な子という印象だ。こんな子が大地の運命の相手だとは到底信じられないし、信じたくもなかった。
「この子が今日から僕の妹になる橘美咲。小学六年生だ。そしてこいつは同じ大学に通う友人の楠悠人。僕がいないときでも家にいたりするけど、まあ気にしなくていいよ。半分同居人みたいなものだから」
「よろしくお願いします」
 大地が初対面の二人をそれぞれ紹介すると、彼女は緊張ぎみにそう言っておずおずとお辞儀をし、悠人は気持ちの入っていない口調でよろしくと返した。その態度から、表情から、歓迎していないことが伝わったのだろう。彼女はますます不安そうに顔をこわばらせた。
「じゃあ、あとで美咲の部屋に行くから」
「うん、お兄ちゃん」
 大地にぽんと頭を叩かれると、ようやくほっとしたようにすこし表情をゆるめた。そして悠人と目を合わさないままそそくさと一礼し、逃げるように小走りで部屋を出て行く。廊下には執事の櫻井が待機しているのが見えた。
 パタンと扉が閉まると、悠人は仏頂面のまま横目を流して言う。
「お兄ちゃんと呼ばせてるのか」
「だって兄だろう?」
 ニッ、と大地は不敵な笑みを浮かべた。
 どうせろくでもないことを考えているのだろう。いずれ妻に迎えるつもりの少女に「お兄ちゃん」と呼ばせるなど、悪趣味としか思えない。悠人は眉をひそめて咎めるようなまなざしを送る。
「いくらでもそんな顔を見せればいいさ、僕にならね」
 大地が笑いながらそう応じた直後――ふと、彼のまとっていた空気が別人のように変わった。
「でも美咲を怯えさせるのだけはやめてくれよ。おまえの気に食わない気持ちはわかるけど、美咲には何の非もないんだから。別に仲良くする必要はない。ただ僕の大切な女性として尊重はしてほしい……友人ならね」
 ゾクリ、と凍えるように背筋が震えた。
 これは彼からの警告だ。友人としてそばにいたいのであれば彼女を尊重しろと。彼女を傷つけるなと。きっと悠人のことなど何もかも見透かしていたのだろう。彼女を歓迎していないことも、彼女を見下していたことも、彼女に嫉妬していたこともすべて。
 それでも邪魔はしないと決めていた。
 あの卒業式の日以降も、大地は今までと変わりなく友人として接してくれている。だから自分もあくまで友人として接するようにしていた。剛三に釘を刺されてからはなおさらだ。ただ、さきほどはすこし感情が先走ってしまっただけのこと。それすらも許さないというのか――。
「そんなに大切なら僕の前に連れてこなければいい」
「おまえならわかってくれると信じてるさ」
 大地は肩を抱き、屈託のないきれいな笑顔を見せる。
 そうやっていつも悠人を都合よく扱おうとする彼が憎らしくてたまらない。そして彼の思うままになってしまう自分に腹が立って仕方がない。しかし、もう後戻りできないくらい深みにはまってしまった。悠人は唇を引きむすび、彼の重みとぬくもりを肩に感じながらそっと目を閉じた。


…本編・他の番外編・これまでのお話は「東京ラビリンス」でご覧ください。

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