瑞原唯子のひとりごと

「オレの愛しい王子様」第16話 指名



 あれから十日が過ぎても、創真と翼の関係は何も変わっていなかった。
 終わらせたよ、と遊園地から帰るときに言っていたので、予定どおり綾音に告白してふられてきたのだろう。寂しそうでありながらどこかすっきりとした様子で、気持ちに一応の区切りがつけられたことが窺えた。
 しかしながら創真との今後についてはまだ何も話をしていない。さすがにふられてすぐには難しいだろうし、翼が自ら話したくなるまでゆっくり待とうと思っている。もう焦る理由はないのだから。

「そうだ、おまえあした夜九時にうちに来られるか?」
 穏やかに晴れわたっているのに空気が肌を刺すように冷たい朝。いつものように翼と登校していると、校門が見えてきたあたりでふとそんなことを尋ねられた。
「まあ、大丈夫だと思うけど……」
 やけに遅い時間だが、西園寺の家であれば親が反対することはないはずだ。先方から呼ばれたのならなおのこと。ただ、どういう用件なのか見当もつかなくて小首を傾げる。
「そんな時間に何するんだ?」
「祖父から話があるらしくてな」
「オレに?」
「僕と両親も呼ばれている」
「ああ……」
 面子からして拉致事件に関係する話ではないかと察しがついた。わざわざ創真を呼ぶということは創真が怪我をした件だろうか。ただ、もう謝罪は受けたし終わった話だと思っていたのだが——。
「おはよう、諫早くん!」
「うわっ」
 後ろから東條が挨拶しながらガバリと肩を組んできた。創真はすこしつんのめり、思わず口をとがらせてじとりと横目で睨んだものの、彼はおかまいなしに肩を抱いたまま覗き込んでくる。
「深刻そうな顔してたけど何かあったのか?」
「……別に」
 隠すようなことではないが、話していいのかどうかわからなかったし、東條に拉致事件を思い出させてしまうのも憚られた。しかし、彼はどう思ったのか創真の向こうに白い目を向ける。
「ま、どうせまた翼のことなんだろうけど」
「このところずいぶん僕に当たりが強いな」
「諫早くんの味方だからな」
 苦笑する翼に、東條は悪びれることなく当然のように答えた。
 遊園地で綾音にデレデレしていたことにまだ腹を立てているのだろう。あれ以来、ことあるごとに創真にくっついて味方アピールをするようになった。翼には意図が伝わっていない気がするけれど。
「行こうぜ」
 東條はがっちりと創真の肩を抱いたまま歩き出し、そのまま横から頭をくっつけてきたかと思うと、そっと耳打ちするように言う。
「いつでも話くらい聞くからな」
 それは遊園地でも言ってくれたことだ。創真の表情はわずかにゆるむ。
 そのとき——いつのまにか創真たちに追いついて並んで歩いていた翼が、こちらを横目で見ながらどこか苛ついたような表情を浮かべていたことには、まったく気付いていなかった。

 翌日、指定された時間に西園寺の家を訪れた。
 案内された部屋に入ると、翼とその両親、それに姉の桔梗がすでに席に着いていた。桔梗が来るとは聞いていなかったので驚いたが、にっこりと優雅に微笑みかけられて我にかえり、あわてて会釈する。
「創真、こっちだ」
 翼にひどく不機嫌そうな声で呼ばれて、隣に座った。
 それきり広い部屋はしんと静まりかえった。口を開かず、音を立てず、みんなただ姿勢を正して座っているだけである。創真は迷ったが、やはり気になるので翼に顔を近づけてそっと話しかける。
「桔梗さんも来てるんだな」
「祖父に呼ばれていたらしい」
「あの事件の話じゃないのか?」
「何の話かは聞いてないよ」
「そうか……」
 どうやら創真がひとり勝手に思い込んでいただけのようだ。しかし、わざわざ部外者の自分を呼びつけるような話など他に見当もつかない。小首を傾げながら思案をめぐらせていると——。
「皆、来ておるな」
 ゆっくりと扉が開いて、皆をここに呼び集めた当人である西園寺徹が現れた。当主にふさわしい風格を見せつけるように堂々と中央を進み、彼のために空けられていたいちばん奥の席につく。
「創真くん、遅い時間にすまないね」
「あ、いえ……」
 どう応じればいいかわからず漠然とした返事をしてしまったが、彼は気にしていないようだ。マホガニーの上でゆったりと両手を組み合わせて小さく息をつき、真剣なまなざしを皆に向ける。
「まず最初に、ここでなされた話はすべて他言無用に願いたい。良いな?」
「承知しました」
 翼の父親の征也が静かにそう答えて、他の皆も頷いた。
 その硬い雰囲気にいやがうえにも緊張が高まり、創真はごくりと唾を飲む。そのまま徹を見つめて次の言葉を待っていると、長くはない沈黙のあと、彼はあらためて前を向いて厳かに口を開いた。
「私は、西園寺家当主と西園寺グループ会長を辞することに決めた。時期は来年度。後任はどちらも予定どおり征也になるだろう」
 それを受けて征也が頭を下げる。
 ちらりと隣に目をやると、翼は眉をひそめて納得のいかないような顔をしていた。征也が過去にしたことを思うと無理もない。それでも反対の声を上げたりはしなかった。
「そして次の後継者だが……」
 途端に翼はハッと我にかえったように表情を引き締め、背筋を伸ばす。
 次期後継者は新当主就任時に指名を行うのが慣例らしい。生まれたときから後継者として育てられてきた翼も、指名を受けてようやく正式な後継者として認められる。その内示がこれから出るのだろうと思ったが——。
「桔梗を指名するつもりだ」
「……えっ」
 幽かな声を落として翼は凍りついた。
 創真も驚いて頭の中がまっしろになったが、桔梗はたおやかに頭を下げ、征也は心苦しそうな面持ちで目を伏せていた。この反応からすると二人とも知っていたのだろう。けれど母親の瞳子は初耳らしく、顔面蒼白になりながら大きく目を見開いている。
「き、桔梗って……どう、し、て……」
 わなわなと唇を震わせながらそう声を絞り出したかと思うと、縋るように徹のほうへと身を乗り出す。
「どうして翼ではないのです?!」
「瞳子、落ち着きなさい」
「桔梗は女ではないですか!!」
 征也の制止などまったく耳に入っていないかのように、悲痛な声で喚き散らした。けれど徹はすこしも動じることなく丁重に答えていく。
「男子でなければならないというのも時代錯誤だろう。ここで変えていくのがいいと判断した。時代遅れの慣習にしがみついていては生き残れない」
「いまさら、そんな……」
「すまなかった。瞳子さんが女児を産むたび周囲に落胆され、次を望まれ、ひどく追いつめられていたのはわかっていた。だからこそ変えたかったのだ」
「う……っ……」
 瞳子は泣きそうに顔を歪ませてうつむくと、その顔を両手で覆い、細い肩を震わせながらしゃくり上げ始める。その姿は大人とは思えないくらい頼りなくて、弱々しくて、いまにも壊れてしまいそうだった。
 征也は静かに立ち上がって内線電話で使用人を呼び、彼女を休ませるよう命じた。

「私ではなく、桔梗姉さんを選んだ理由を聞かせてください」
 瞳子が使用人に支えられながら退出し、話を再開する場が整ったところで、翼がそう切り出した。まだ顔色は優れないものの落ち着いてはいるようだ。まっすぐ徹を見据えたまま理性的に畳みかけていく。
「私も女です。慣習を変えたいだけなら私でもよかったはずです。だからそれ以外の理由があるのでしょう。私でなく桔梗姉さんでなければならなかった理由が。せめてそれを聞かせてください」
「能力、資質、適性などを総合的に判断して桔梗を選んだ」
 返ってきた答えはそれだけだった。
「そう、ですか……」
 あからさまに納得のいかない表情を浮かべながらも、翼は口をつぐんだ。そのままうつむいて膝の上でグッとこぶしを握り込んでいく。あらゆる感情をそこに押し込めようとするかのように——。
 翼は生まれたときから西園寺の後継者となることを定められていた。性別を偽ることを強要され、後継者にふさわしい人間であれと言い聞かせられて。それゆえ翼自身もそうあろうと努力してきた。
 それなのに、いまになってこんなにもあっさりと切り捨てるだなんて。それも普通に女として生きることを許されてきた桔梗を選ぶだなんて。翼の気持ちを思うと胸が押しつぶされそうになる。
 ただ、徹はおそらく何もかも承知のうえであえて桔梗を選んだのだ。その意味するところを悟ったからこそ翼も口をつぐんだのだろう。だとすれば部外者の創真に言えることなどありはしない。
 そういえば、オレはなんでここに呼ばれたんだ——?
 翼を支えるつもりで後継者教育にも同席してきたのだから、まったくの無関係とはいえないが、西園寺家からすると家族でも親族でもない部外者である。なのにこんな内々の場にどうしてわざわざ。
「さて……」
 徹が静寂を打ち破り、その声で創真は思考の海から引き戻される。
「いささか気の早い話だが、そうなると桔梗には婿を取ってもらわねばならない。後継者はあくまで桔梗だということをわきまえて、控えめながらも公私にわたって誠実に支えてくれる、身辺に問題のない人間を」
 本当に気が早いなと他人事ながら微妙な気持ちになったが、桔梗本人は美しい居住まいを崩していない。うっすらと微笑さえ浮かべている。どうしてそんなに余裕でいられるのか不思議に思っていると。
「私は、創真くんを桔梗の婿にしたいと考えている」
「え……オレ?!?!」
 混乱したまま自分を指さして聞き返す。何かの間違いではないかと思ったが、徹は真面目な顔で頷いた。
「ご両親には許しを得ている。君は後継者の補佐となるために勉強を続けてきた。この西園寺の家で。つまり西園寺家は君に投資してきたということだ」
「ちょっと待ってください!」
 彼の言わんとすることを明確に理解して、あわてて声を上げた。
「そんなの後出しじゃないですか。オレは翼を支えるために勉強してきたんです。翼しか支える気はありません。投資とか言うなら、そもそも翼を後継者にしないとおかしいですよね?!」
「創真、もういい……」
 振り向くと、翼がうつむいたまま力のない自嘲を浮かべていた。創真は息もできないくらいにギュッと胸を締めつけられ、固まってしまう。それを見計らったかのように徹が声をかけてきた。
「創真くん、もちろん君の意思は尊重するつもりだ。ただ、ここで感情的に断ってしまうのではなく、落ち着いて一度じっくりと考えてみてほしい。まだずいぶん先のことなのだからな」
「…………」
 頑なに拒むとかえって面倒なことになる気がして、ひとまず曖昧に頷いた。けれど気持ちが変わることは絶対にない。納得してもらうには、しばらく考えたふりをしてから断るしかないだろう。

「話は以上だ」
 皆はすぐに退出するが、翼だけは深々とうつむいたまま動こうとしなかった。その暗然とした様子に創真は声をかけることも躊躇してしまう。それでもせめて隣にいようと思っていると——。
「悪いが、今日はもう帰ってくれないか。ひとりで気持ちを整理したい」
「……わかった」
 すこし迷ったが、ひとりになりたい気持ちもわからないではないし、その願いを無視してまで居座ることなど自分にはできない。またあしたな、とあえて普段どおり軽く挨拶をして部屋をあとにする。
 翼はずっと下を向いたまま一瞥もくれなかった。

「創真くん」
 ひとり玄関に向かう途中、ふいに背後から名前で呼びかけられてビクリとする。おずおずと振り返ると、桔梗がどこか寂しそうに微笑みながら肩をすくめた。
「怯えなくても取って食いはしないわ」
「あ、いえ……すみません……」
「私、あまり良く思われていないのね」
「そういうわけじゃないですけど」
 あわてて否定したが、桔梗の婿にと言われてあれほど感情的に反抗したのだから、いずれにしても彼女からするとあまり気分はよくないだろう。いまさらながら気付いて気まずさに目を伏せる。
「でも、桔梗さんこそオレなんかとじゃ……」
「私は創真くんでよかったと思っているわ」
「えっ?」
 思わず顔を上げると、桔梗はくすりと小さく笑って言葉を継ぐ。
「創真くんのことは前々から買っていたもの」
「……だからって好きでもないのに結婚なんて」
「好きよ、創真くんのこと」
「…………」
 わけがわからなかった。いきなりそんなことを言われて素直に信じるほどおめでたくはない。好きだなんて出任せだろう。それなのにいったいどうしてこんな結婚を望んで受け入れようとするのか——。
「いい返事を待ってるわ」
 桔梗は一分の隙もないきれいな笑みを浮かべて一礼すると、身を翻し、艶やかな黒髪をなびかせながら颯爽と歩き去っていく。その後ろ姿を、創真はもやもやした気持ちのままただ黙って見送った。


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