瑞原唯子のひとりごと

「オレの愛しい王子様」第20話 ともに時を刻みたい



「十六歳の誕生日おめでとう」
 あらたまって口にするのはすこし照れくさいが、それでも創真はしっかりと目を合わせてそう告げて、洋菓子店のロゴが描かれた白い紙袋を差し出す。
「ありがとう」
 翼は小さく笑いながら心得たように受け取り、創真を招き入れた。

 翼の誕生日は、今日、四月一日である。
 小学生のころから、それぞれの誕生日に一緒にケーキを食べることが恒例行事となっている。今日もそのために来たのだ。このパーティーとも言いがたいふたりだけのささやかなお祝いが、創真は気に入っていた。

「あら、創真くん」
 ケーキを使用人に託して、ふたりで翼の部屋に向かおうと二階に上がったところで、桔梗とばったり出くわした。これから出かけるのか、淡いピンク色のスプリングコートを羽織り、ショルダーバッグを肩に掛けている。
「こんにちは」
 例の日帰り旅行以来なので若干の気まずさは感じたが、素知らぬふりで挨拶をする。そうしなければもっと気まずくなる気がしたのだ。彼女のほうも何でもないかのように微笑を浮かべる。
「避けられていなくてよかったわ」
「オレが避ける理由はないですし」
「ずいぶん迷惑をかけたもの」
「別に気にしてないです」
「じゃあ、また一緒に入ってくれる?」
「えっ……いや、それは……」
 予想外の切り返しに動揺してあたふたしていると、桔梗はくすりと笑った。どうやら本気ではなくからかっただけのようだ。創真は恨めしげにムッと口をとがらせるが、彼女は笑みを崩さない。
「ゆっくりしていってね」
 そう言い置き、艶やかな黒髪をなびかせながら階段を降りていった。
 創真は無言のまま大きく溜息をついて前に向きなおる。そのとき、翼の表情が凍りついていることに気付いて息をのんだ。きっと桔梗との会話を聞いて察しがついたのだ。ふたりで温泉に入ったと——。
「ごめん……あ、いや、そうじゃなくて」
「創真は悪くないさ」
 さらりと話を打ち切るようにそう告げて、翼は足を進める。
 確かに謝罪や弁解をする道理はないのかもしれない。翼とはつきあっているわけでも何でもないのだから。創真はもやもやした気持ちを抱えたまま口をつぐみ、小走りであとを追った。

「どうぞ」
 扉を開けた翼に促されて部屋に入る。
 学習机、本棚、ベッド、テレビ、テーブル、ソファ——広めではあるが、取り立てて変わったものはないごく普通の部屋だ。何度も来ているのでもう見慣れている。ただ、学習机の上にはめずらしく無造作に本が積み上がっていた。
「それ、どうしたんだ?」
「ああ、後継者教育がなくなって時間ができたから、ただ学校の勉強だけするというのもつまらないし、視野を広げるために手当たり次第に読んでるんだ」
 へぇ、と相槌を打ちながら積まれた本を覗き込む。
 手当たり次第という言葉どおり、純文学、ライトノベル、自己啓発、哲学、心理学、宗教学、法律関係など統一感のないラインナップだった。書籍だけでなく映画のブルーレイもいくつか混ざっている。
「興味があるんだったら貸してやるよ」
「これ全部読み終わったのか?」
「ああ、そこに積んであるものはな」
「すごいな」
 学校の試験もあったのに、たった一か月半でこんなにたくさん読んだなんて。
 創真はいまのところ父親の仕事を手伝うことに時間を費やしているので、借りるつもりはないが、ちょっとした好奇心でいちばん難しそうな法律関係の本を開いてみた。
「うわ……」
「それ一読の価値はあるぞ」
「いや、オレはいい」
 渋面になりつつ本を閉じる。やたらと漢字が多くて、文章もややこしくて、日本語なのに読める気がしなかった。そんな創真を見て、翼はおかしそうに笑いながらソファに腰を下ろす。
 コンコン——。
 ちょうどそのタイミングで扉が叩かれた。
 どうぞ、と翼がソファに背中を預けたまま応じると、すぐに扉が開き、母親の瞳子がたおやかな微笑を浮かべて入ってきた。紅茶の準備をする使用人ふたりを従えて。翼は驚いたように立ち上がる。
「母上、いったいどうしたんです?」
「創真くんがいらしてるって聞いてね」
「……創真に何か?」
「とりあえず座りましょうか」
 瞳子に促されて、翼は怪訝な面持ちになりながらも無言で腰を下ろした。つづいて創真も会釈して向かいに座る。そして瞳子自身は迷うことなく翼の隣に席を取った。創真からは斜向かいの位置だ。
「お邪魔をしてごめんなさいね」
「いえ……あの、体調はもう大丈夫なんですか?」
「ええ、だいぶよくなってきているのよ」
 後継者指名の日以降、体調を崩して寝込んでいると翼から聞いていた。確かにだいぶやつれて憔悴した感はあるものの、顔色は悪くないので、よくなってきたというのも嘘ではないのだろう。
 そうこう話しているうちにケーキと紅茶がローテーブルに置かれた。ただ、創真と翼のまえだけで瞳子のところには何も置かれていない。そのまま使用人たちは一礼して退出してしまった。
 しんと部屋が静まりかえる。
 創真は何となく身の置きどころがないように感じて目を泳がせた。すぐまえにはうっすらと湯気の立ちのぼるティーカップが置かれているが、自分ひとりだけ勝手に飲むわけにもいかない。
「私、どうしても創真くんにひとこと謝りたくて」
 瞳子がどことなく緊張ぎみにそう切り出した。そして覚悟を決めたように居住まいを正すと、まっすぐに創真を見つめる。
「翼を後継者にするという私個人の身勝手な思いで、創真くんの人生まで翻弄することになってしまって、謝ってすむ問題ではないとわかっていますが……本当に申し訳ありませんでした」
「え、あ、いや……」
 頭まで下げられて、創真はあわてて体のまえでふるふると両手を振る。
「オレは別に翼といられれば何でもいいんで」
「でも無意味な勉強をさせてしまったでしょう?」
「これから役に立つこともあるかもしれません」
「それ、は……そうだといいけれど……」
 瞳子はそっと目を伏せて戸惑いがちに応じた。
 その隣では、翼がソファにもたれたまま黙って腕を組んでいた。あからさまに何か言いたそうな顔をしているが、口を開こうとはしない。気になったものの、この状況であえて尋ねるようなことはできなかった。

「食べよう」
 瞳子が退出すると、翼は肩をすくめて苦笑しながらそう切り出した。
 創真は頷き、紅茶をすこし飲んでから自分が買ってきたケーキを口に運ぶ。ほのかな酸味のあるイチゴと生クリームがよく合っているし、スポンジはきめが細かくふわふわだ。翼も一口で気に入ってくれたらしく目を輝かせている。
「おいしいよこれ。初めての店だな」
「三丁目のほうに新しくできたんだ」
「へぇ」
 いつも同じ店ばかりというのもどうかと思ったので、新規開拓してみたのだ。
 この一年、良くも悪くもこれまでにないような経験をして、ときには踏み出すことも必要だと思うようになっていた。不安はあったが、ひとまずケーキは気に入ってもらえたようでほっとする。あとは——。
「おい、聞いているのか?」
「えっ」
 我にかえると、翼が怪訝に眉をひそめながら前屈みで覗き込んでいた。思わずドキリとしてフォークを持ったまま体をすこし後ろに引く。
「悪い、ちょっとぼーっとしてて……」
「そろそろ桜が満開になるらしいぞ」
「ああ、そういえば近所の桜も咲いてたな」
「食べ終わったら見に行かないか?」
「ああ……」
 返事をしながらも頭では別のことを考えていた。もうひとくちケーキを食べて心を決めると、フォークを置く。
「あのな、翼」
 しっかりと力のこもった明瞭な声でそう切り出した。すぐさま足元のボディバッグから包装された小箱を取り出して、すっと両手で差し出す。
「これ誕生日プレゼント。もらってくれ」
「えっ?」
 まさかプレゼントだとは思いもしなかったのだろう。
 おそらく負担にならないようにと母親どうしで相談して決めたのだと思うが、この恒例行事を始めた当初から、誕生日ケーキ以外のプレゼントは贈らないということになっていたのだ。けれど——。
「プレゼントなしって小さいときに親が決めたことだし、もういいかげん従わなくてもいいんじゃないかと思って。今回、どうしても翼にプレゼントしたかったんだ」
「……わかった、ありがたくいただくよ」
 すこし考えたあと、翼はやわらかく表情をゆるめて小箱を受け取った。
 たとえ決まりに反していても、すでに用意してしまったものを断らないだろうという目算はあったが、その目算どおりにいかない可能性もなくはなかったわけで。小箱が手を離れてようやく安堵の息をつく。
「開けてもいいか?」
「ああ」
 翼はケーキと紅茶をすこし寄せてスペースを作り、そこに小箱を置くと、包み紙を丁寧に破ることなく外して箱を開ける。
「へえ、懐中時計か」
 特徴的な形をしているので一目でわかったのだろう。
 新品ながらもどことなくレトロな雰囲気を醸し出していて、裏蓋を開けると歯車などのムーブメントが見られるようにもなっている、華やかで精緻なデザインだ。
「翼に似合うと思って……手巻き式だから面倒だし、何気にかさばるし、時計として使いにくいことはわかってるんだけど。ただの自己満足だからもらってくれるだけでいい」
「いや、すごく気に入ったよ」
 本心かどうかはわからないが翼はうれしそうに応じてくれた。そっと手に取り、裏返しにしたり蓋を開けたりと興味深そうに観察する。しかし——その顔はだんだんと訝しむようなものに変わっていった。
「これ……懐中時計に詳しいわけではないが、銀仕上げだし、作りも精巧だし、かなり良い品のような気がするんだが」
 そう指摘され、創真はギクリとして目を泳がせる。
 確かに数ある懐中時計の中でもそこそこ値の張るものだった。翼に安っぽいものなど贈りたくもないし贈れるはずもない。しかし、まさかそのことを指摘されるだなんて考えもしなかった。
「えっと……翼にはまだ言ってなかったけど、西園寺の勉強がなくなったときに父親に誘われて、会社の手伝いっていうかバイトみたいなことをしてて。そのバイト代がちょうど出たところだったから……まあ……ちょっと奮発したっていうか……」
「そうか……」
 困惑ぎみだが、納得はしてくれたようでひとまずほっとする。
 本当はバイト代だけでは足りなくて貯金もつぎ込んだのだが——そのことは黙っておこうと心に決めると、つやつやの大きなイチゴをフォークで突き刺し、素知らぬ顔をして口に運んだ。

 ケーキを食べ終わると、翼の提案で高校へ向かうことになった。
 敷地内に見応えのありそうな桜並木があるのだ。もともと関係者しか入れないうえ、春休みなので先生も生徒もあまりいないはずで、のんびりと眺めるだけなら確かにうってつけだろう。
 懐中時計はさっそく時刻を合わせて使ってくれている。ときどき隣からチェーンの立てるかすかな音が耳に届いて、ドキリとする。今日だけでもうプレゼントが報われたような気がした。
「あ、学校って私服で入っていいのか?」
「おまえ本当に心配性だな」
 ふと制服を着ていないことに気付いて不安になるが、翼には笑い飛ばされた。実際、守衛に学生証を見せるとあっさりと通してもらえた。だが、こんな格好で来ているのは自分たちくらいである。
「西園寺くん、私服でどうしたの?」
 部活動のために来たと思われる制服姿の女子たちが、翼に声をかけてきた。
 その後ろには遠巻きにはしゃぐ女子たちもいる。私服といっても細身のパンツにジャケットというごくシンプルなものだが、学校でしか接点がなければそう見られるものではないし、気持ちはわからないでもない。
「ちょっと用があってね」
「その服すっごく似合ってる!」
「ありがとう」
 翼はいったん足を止めていつものように如才なく応じると、また新学期に、と甘やかな笑顔を振りまいてから桜並木のほうへ歩き出す。創真もすぐに小走りで追いかけて隣に並んだ。
 背後では女子たちが興奮して盛り上がっていたものの、ついてくることはなかった。

 桜並木に着くと、そのままのんびりと仰ぎ見ながら歩いていく。
 遠目には満開に見えたが、近くに来てみるとつぼみも少なくなかった。七分咲きくらいだろうか。穏やかに晴れた空の下で、たくさんの小さな薄紅色がささやかに揺れ、時折ひらひらと舞い落ちる。
「ここにして正解だな」
「ああ」
 桜の名所ほど立派ではないが、混雑していないのできれいに景色が見えるし、人波にもまれることなく自分のペースで眺められる。ゆっくりと息を吸い込むとあたたかな春の匂いがした。
「おまえ、頭に花びらがついてるぞ」
「えっ?」
 指でさされたあたりをはらってみるが落ちなかったらしく、翼がおかしそうに笑いながら取ってくれた。その小さな花びらは白い手を離れてひらひらと春風に乗り、すぐに見えなくなった。
 余韻にひたるように翼はふっと微笑む。
 瞬間、胸がギュッと締めつけられるのを感じた。幼稚園で出会ったあのころからずっと翼が好きで、翼だけが好きで、これからもずっと間違いなく好きでいる。それなのに、どうして——。
「オレ、桔梗さんとの結婚はもう断ることにする」
 グッとこぶしを握り込んでひとり決意を固めると、そう宣言する。
「翼に言われたからオレなりに向き合ってみたけど、桔梗さんと結婚なんてやっぱりどうしても考えられないし、その気持ちがこれからも変わらない自信はある。たった一か月半でって言われそうだけど、もう十分だ」
「そう、か……そこまで言うなら僕には何も言えないな」
 翼はすこし驚きながらも軽く肩をすくめて応じた。
 反対されなかった——そのことに関してはよかったのかもしれない。ただ、他人事のような物言いにひどく寂しさを感じてしまった。翼にも関係のあることだと思っていたのは自分だけなのか。
 シャラ——。
 その音につられるように顔を上げると、翼がチェーンのついた懐中時計を手にして時間を確認していた。その仕草がとてもこなれていて美しくて絵画のようで、思わず陶然と見とれていたら。
「いまなら祖父は家にいるはずだ。帰ろう」
「……えっ?」
 話がわからなくてきょとんとする。
 そんな創真を見て、翼は懐中時計を手に持ったまま不敵に口元を上げた。





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