瑞原唯子のひとりごと

「遠くの光に踵を上げて」第92話 本当のこと

 翌朝、ジークは早朝に目が覚めた。
 高熱のため、昨日は夕食も摂らないうちに眠った。そのため、目が覚めるのも早かったようだ。時間的には十分すぎるほど眠ったはずだが、疲れはとれていない。ただ、熱はもう下がっているような気がする。棚に置いてあった体温計に手を伸ばし、脇に挟んで計測を始める。
 コンコン――。
 扉がノックされた。
「はい」
 少し掠れた声で返事をした。声を出したのは随分と久しぶりのような気がした。
「もう起きていたのか」
 そう言いながら入ってきたのは、サイファだった。濃青色の制服を身に着けている。
 ジークは慌てて起き上がった。こんな時間に来るのは先生か看護師だと思い込んでいたので、心の準備が出来ていなかった。
「寝たままでいいよ。ちょっと様子を見に来ただけだから」
 サイファは軽く右手を上げてそう言ったが、ジークは再び身を横たえることはしなかった。上半身を起こし、彼に顔を向ける。
「倒れたって聞いたけど、大丈夫かい?」
「ちょっと熱が出ただけです。もう下がりました」
 そう答えたあと、脇に挟んだ体温計のことを思い出した。そろそろ計測時間の三分だ。そっと取り出し、横に伸びた銀色の棒を目で追う。起き抜けにしてはやや高めだが、平熱といってもいい数値だった。
 サイファもそれを覗き込んだ。そして、にっこりと笑う。
「焦って無理をしては、逆に遠回りになってしまうこともある。先生の言うことは聞いたほうがいいよ」
「はい」
 ジークは素直に答えた。ラウルに説教されると無条件に反発したくなるが、サイファが相手だと従順になることが多い。好き嫌いもあるが、それとは別に、彼には逆らいがたい雰囲気があるのだと思う。
「じゃあな」
 サイファは軽く右手を上げて、踵を返した。
「あ、あの!」
 ジークは身を乗り出して呼び止めた。
 サイファは振り返った。
「何だい?」
 だが、ジークは何も答えられなかった。唇を噛み、うつむいている。何か言いたいことがあるが、切り出せずにいるようだ。サイファにはそれがわかったが、無理に聞き出すことはしなかった。
「あしたまた来るよ」
 にっこりと笑ってそう言い、扉に向かって足を進めようとする。
 ジークはとっさに彼の手首をガシッと掴んだ。かなり強い力だった。
 サイファは驚いた面持ちで振り返った。
「す、すみません」
 ジークは我にかえり、顔を赤らめて謝った。慌てて手を放す。自分でもこんな行動に出てしまったことに驚いた。それほど思い悩んでいたのだろう。
 サイファはわずかに微笑んだ。
「言いたいことがあるんだね」
「……はい」
 ジークは目を伏せ、小さく頷いた。
「あまり時間はとれないんだ。単刀直入に言ってくれるかな」
 そう言ったサイファの声には、普段の柔らかさはなかった。
 ジークは固い表情で話し始めた。
「アンジェリカが俺に会いに来ないのは、そのうち会えなくなるから……みたいなことを言ってたらしいんですけど、それってどういう意味ですか? サイファさん、何か知ってるんですか?」
 冷静にと思っていたが、感情の起伏の激しい彼にとって、それは難しかった。口調が次第にきつくなっていった。顔を上げ、責めるような強い眼差しを向ける。
「ああ、それか」
 サイファは軽い調子で言った。
 やはり知っていた――ジークは頭に血が上っていく。奥歯をぎり、と噛みしめる。
「私もつい先日、ラウルに聞いたばかりなんだけどね」
 ジークとは対照的に、サイファはさらりと話していく。
「どうやらあの子、自分はもうすぐ死ぬと思っているらしいんだ」
「えっ?」
 ジークの目が大きく見開かれた。
「完全な思い違いだよ。自分の髪や瞳が黒いのは、遺伝子に異常があるせいだと考えているようだ」
「あっ……」
 ジークは思わず声を漏らした。
 その話は知っていた。一時期、自分もそれが真実ではないかと思っていたことがある。
「知っていたのか?」
 サイファは驚いたように目を大きくした。
 ジークは申しわけなさそうに身を小さくした。
「リックから聞いたんですけど……確か、四年生になったくらいの頃に、アンジェリカがそう言ってたらしいです。でも、すっかり忘れてて……」
「そうか、そんなに前からか……」
 サイファは腕を組み、難しい顔でうつむいた。軽くため息をつき、窓際へと歩き出す。革靴がタイルの床を打ち鳴らす。無機質な音が病室に響いた。
「何とか誤解を解いてやりたいとは思っているんだけどね。いい手が、思い浮かばないんだ」
 窓枠に左手をおき、ガラス越しの空を見上げた。青色の空に薄いレースのような雲が掛かっている。枯茶色の小さな鳥が二羽、目の前を横切った。
「ジーク、どうしたらいいと思う?」
 ゆっくりと振り返り、薄い笑みを浮かべ、ベッドの上の彼を見つめる。鮮やかな青の瞳が小さく揺れた。
 ジークは何も答えられずに目を伏せた。サイファに思いつかないものを、自分が思いつくとは思えない。自分が考えついた方法はひとつだけ――おそらくサイファもそれはわかっているはずだ。わかっていて尋ねているのだろう。決心がつかないのだ。迷っているのだ。
 そして、それは自分も同じだった。アンジェリカにとって、彼女の家族にとって、それが良い方法なのかわからない。だから、それを口にすることが出来なかった。彼を後押しすることが出来なかった。
 ギュッとシーツを握りしめた。力を込めた手は、わずかに震えていた。体中からじわりと汗が滲んだ。
 沈黙がふたりの間に横たわる。ふたりとも身動きすらしなかった。
 遠くで鳥のさえずりが聞こえた。
 微かな木々のざわめきが聞こえた。
 何も聞こえなくなった。
 何も……。
「本当に、まいるよ」
 サイファが長い静寂を打ち破った。落ち着いた声だった。
 ジークが顔を上げると、彼は寂しげに微笑んでいた。


…続きは「遠くの光に踵を上げて」でご覧ください。

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