震災前後に書いた原稿が、まだあった。震災直後の被災者受け入れや自分の異動などで全く忘れ去っていた「生活雑感」。前回ブログ同様、一応記録としてアップしておく。
【3月末頃の記述】
サッカー、なわとび、将棋。
7歳の息子が現在、夢中になっているもの。
ヴァイオリン、英会話、将棋。
49歳の私が現在、嗜んでいるもの。
ヴァイオリンと英会話については、いまのところ優位性を維持している。
将棋については、このところやや押され気味だ。
決して強いとは言えないが、複数の将棋愛好家の方々から「アマの2段はある」と評価されている。
駒の動き方を覚えたばかりの小学1年生には、まだ負けるはずはない。
で、あった。
が、どうも最近様子が変わってきた。
しばしば、息子は私が見落としていた手を打ってくるようになった。
児童クラブで将棋を覚えてきたばかりのころ、「あの駒がなければうまくいくのに…」、そういう視点で将棋を見ろと教えた。
その効果だと思う。定跡などまったく知らないのに、このところ、「あの邪魔な駒を動かしてから攻める」ということができるようになってきた。
自然と身に付けたのだろう。「歩の打ち捨て」を多用する。で、大人より自由な発想でやってくるので厄介だ。
継ぎ歩で相手の歩を誘い出してから、その内側に香車を打ったり、桂馬や大駒を外側に飛ばさせておいてから、中央部に攻めて来たり…。
定跡の本を読んでいないのに、戦法を調えて将棋をしている。
◇
こちらとしても、大人相手ならば当然見えてくる手。しかし、小学1年生が相手となると、つい油断して見落としてしまう手だ。
将棋は一手で展開がガラリと変わるゲームだ。しばしば窮地に追い込まれ、はめ手みたいなことをして、ようやく勝ちを拾うという展開も増えてきた。
1週間ほど前から、妻は息子に勝てなくなってしまった。以前は全勝、1ヶ月前ごろには五分五分、で、今は10回やって10回負けている。
継ぎ歩でやられると、結構くやしいものだ。相手に「躍らされた」のだ。妻は相当に勝気な性格だから、妻から「泣きのもう一回」を本気でせがんでいる始末だ。
ただ、妻を笑ってばかりもいられない。以前は余裕をもって勝っていたのに、ここ1週間ほどは、勝負どころではきちんと時間をかけて考えなくてはいけない状況に追い込まれてきている。
◇
と、ここまでの書きかけが、パソコンに残っていた。
記憶が曖昧なのだが、震災の2~3日前に書いた原稿だろう。
◇
双葉のおじいちゃんが我が家に避難してきたのは3月14日。落ち着いてからは、息子の将棋の相手をしてくれていたらしい。
妻に言わせると、おじいちゃんはかつてはごく限られた実家周辺の地域内では将棋自慢だったらしい。
しかし、何度かやっているうちに息子にまったくかなわなくなってしまったという。当初は積極的に将棋の相手をしていたおじいちゃん、未だ負けず嫌いの気性抜け切らず、ここのところは数多の遊びの中で、将棋にだけは近づかないという。
そこで、私が息子を止める役を担った。当初はわざと負けてあげたが、次第に局面が切迫するようになり、最近はきちんと負かすようにしている。
【4月初旬の記述】
3月20日から顔を合わせていない。3日前、息子から電話が来た。「お父さん、守りは何ページに書いてあるの?」。
3月20日に別れるとき、「本を読まなくては将棋は強くなれない」と教えた。
「じゃあ、お父さんと会うまで将棋の本を読むから、一緒に暮らせるようになったら、まず将棋をしよう」と息子が言った。
息子の周囲で、息子に将棋で勝てるのは、もはや私だけになってしまった。息子は、とにかく私を倒したくてたまらない。会津の避難先では、同年代の子どもがいなくて、屋外遊びがままならないらしい。体を動かさずには居れない年代だ。随分と鬱積しているだろうと考えていたら、震災前に買ってあげた「子ども将棋入門」のおかげで周囲の高齢者に迷惑を掛けずにいられるらしい。
【4月10日の記述】
震災後、初めていわき市の実家へ行った。
母が避難先の東京から帰ってきたためだ。
今回の震災の威力をあらためて実感した。瓦が落ち、建物のそこかしこにひび割れがあった。かなりお金のかかった家だったのだが、自然の力を前にしては、こんなものか。
母はもともと気丈な人である。「戦争のときより随分と楽。なんの不足もない」。曲がった腰を無理やり伸ばして見せた。
◇
実家に寄る前、常磐道・四倉インターで下りて、新舞子、薄磯と海沿いの道を辿った。
いわき中央インターから四倉インターまでの区間、私の車以外には通行車はなかった。四倉インター手前で「この先、進入禁止」の看板。インターを下りると、今度は自衛隊の車が目立った。
まず、四倉港前の知人宅に寄った。建物は半壊だが、ひと気はない。近くで瓦礫を片付けていた人に聞くと、家族全員が無事でどこかの避難所にいるという。震災後、何度か家族で片付けに来ていた、とのこと。
港に下りてみると、その光景に面食らった。
魚市場に、巨大な漁船が横たわっていた。2階建ての建物の上には津波の運ばれたボートが姿勢正しく乗ったまま。コンクリート柱には、新しい型のステーションワゴン車が「く」の字になってへばりついている。車内を見ると、ハンドルに海草が巻きついている。
新聞やテレビで何度も見たはずの絵だが、眼前にあると、やはり圧倒される。
実家を見て震災の威力を実感したが、こちらの場合は逆に「実感」に乏しい。眼前にして尚、にわかに受け入れ難い現実である。
この港を見下ろす丘に、かつて交際した女性の墓がある。
花を飾る石の器がずれていたが、まだいい方だった。
墓石が倒れているものも、さらには割れてしまったものもあった。
クレーンで墓石を持ち上げている老夫婦がいた。
「墓参りできるだけでも、いい方だっぺ。家も、墓も、流された人だっていんだっぺ」
そうか。津波は人々の「現在」だけでなく「過去」まで奪い去ってしまったのか。
◇
宮城県の沿岸部に住む親戚宅では津波による犠牲者があった。
その地区は火葬場までなくなったので、先日、一族で郡山市までやって来て火葬した。直会の会場手配を請け負った。しかし、墓もなくなったらしいが、どこに埋葬するのだろうか?
◇
現在、私の自宅に避難している妻の両親にしたって、先祖からの墓はもうない。いや、幸運にも津波の襲来から免れているかもしれないが、原発から至近距離なので、現地を確認する術はいまのところない。
被災者は高齢者が多い。終の棲家どころか、死後の居場所さえ失ってしまったのだ。
津波が奪い去ってしまったものの大きさに、ただただ愕然とするほかない。
◇
ただ、あらためて思う。原発は「未来」をも奪ってしまったのだ。なんと罪深いことか。
【4月14日の記述】
13日午後9時。息子から電話があった。単身赴任の父親を励ます“定期便”である。
本来よりも5日遅れて、4月11日に新学期がスタートした。
2年生になって3日目、きょう、息子にとって残念な出来事があったらしい。
学年で一番サッカーが上手なようじろう君が、母親の実家のある東京に引っ越すという。
「あしただけ、みんなにさよならを言うために学校に来るんだ」。息子はしょげていた。
原発事故の放射能汚染を懸念してのものらしい。学校の校庭は放射性物質への懸念や地割れで使えず、体育館も半壊しているので、学校では運動ができない状態だという。
ようじろう君は、抜群にサッカーがうまい。
半年ほど前の日曜日、校庭に息子とサッカーをするために行った際、何度かようじろう君のプレーを見たことがある。走力もボールさばきも、ほかの子どもたちとはまったく次元が違った。
ようじろう君自身、プロのサッカー選手になるつもりで練習しているというから、外遊びのただの一種類としてやっている子どもたちとは熱意が違う。
思い切り運動ができる環境に移ることは、きっといい選択なんだろう。
ただ、見送る者はさびしい。
ようじろう君のは革のサッカーボール、息子のはゴムのサッカーボール。革のボールを上手に扱うようじろう君は、息子のあこがれだった。
◇
こんな小さな別れも、この災害からうまれた。
でも、きっと、未来へのすばらしいステップになるんだと思う。息子にも、ようじろう君にも。
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