21日午前11時30分ごろ、会津若松市のデニーズ町北店の有線BGM。びっくりした。ジェシ・コリン・ヤングがかかったのである。
私にとっては、世界で最も偉大な音楽家であり、精神的に最も消耗していた時期に救ってくれた、尊敬し非常に感謝している人物である。ただ、残念ながら、あまり有名ではない。ファミレスのBGMで流れるのは、本当に奇跡的な出来事なのである。
ジェシさんは、60年代にヤングブラッズというアメリカ国内ではそこそこ売れたバンドの中心メンバーとして活躍し、ニューヨークなどの都会で活動をしていた。70年代になると、メキシコ半島の田舎町に移り住み、農業を営みながら音楽活動を続け、たぶん、1年に1枚くらいのペースでアルバムを発表していた。カントリーテイストからジャズテイストまで幅広いカテゴリーの音楽をつくっていたが、私は、特に彼のポップス調の柔らかいつくりの曲を好んでいた。妻を歌った「スーザン」、娘を歌った「ソング・フォー・ジュリア」、「マイ・モーターホーム」「ライトシャイン」などなど。一番好きな「ソング・バード」などは、彼の音楽を聴かなくなってほぼ30年経った今でもそらで歌える。
3歳上のいとこの影響で欧米の音楽は小学4年生からはまった。当時は「ロックはイギリス」という風潮が支配的で、中学1年のとき武道館にクイーンの初来日公演を見に行ってから、自分の中でもイギリス、もしくはヨーロッパに偏執的にこだわった。時代の流れ、といえば格好いいが、つまり「流行」だった。ただ、ほかのイギリスのバンドは接するごとに好きになっていったが、直に見た初めてのバンドであるクイーンにはすぐ飽きた。ほかの音楽を知るにつけ、奇をてらったような軽さばかりが感じられ、ライブを見た感激は急速に失われていった。一番売れた3枚目の「ボヘミアン・ラプソディ」のころには、まったく興味がなくなって、その存在さえ忘れていた。
2年生からはディープ・パープルが中心だったが、ジョン・メイオールやロリー・ギャラガー(テイスト)、ベック・ボガード&アピス、パリスも好きだった。いま記憶が蘇ってきたが、パリスは相当にかっこよかった。ロバート・ウェルチという人はJメイオール&ブルースブレイカーズの流れを汲んでいた、売れる以前のフリートウッド・マックにいた。フリートウッドマックは、ピーター・グリーンやダニー・カーワンなどがいた時期もあり、売れる前の方が実はかっこよかった。ジョン・メイオールも、いまでも相当にかっこいい。ただ、かっこよさで言うとパリスは史上最高のバンドだった。(と、断言してしまう)
フリートウッド・マックもクイーンもそうだが、当時売れるというのは、女性受けの志向を強めていくことだった。デビュー当初はかっこよかったのに、売れ始めてから崩れていったバンドは数多い。
骨太でかっこいいのは、あまり売れ行きがよくなかった。つまりは地方ではアルバムを入手することが困難な時代だった。リンゼイ・バッキンガムやスティービー・ニックスが入る以前のフリートウッド・マックのアルバムは、いつもレコード屋に注文して1ヶ月ほどでようやく入手できた。
このころ、クリムゾンやピンクフロイドなども人気絶頂だった。しかし、この系統のバンドは売れてもあまり客に媚びる性質がなく、骨太で重いバンドもあって、こちらも周囲の友達と同等程度に好きだった。このころも、まだアメリカの音楽は、軽そうで近寄らなかった。
そのうちに父親が倒れ、家庭が不安定になった。そのころになって初めてイギリスのロックに疲れ始めた。ドイツのネクターというバンドも相当に好きだった記憶があるのだが、家庭が不安定で精神が消耗しているなかで、ヨーロッパの重厚な音楽は変に理屈っぽく感じ、まさしく心に重かった。そんなときにFMラジオで初めて聴いたジェシさんの歌「ソング・バード」は、心を軽くしてくれて、癒してくれた。音楽で人生を救われたというのは初体験であった。これまでにも、音楽で心が救われたと感じるのは、実はほかには「モルダウ」くらいしかない。
そういうわけで、ジェシさんのレコードが地方のレコード屋さんに置いてあるということは、絶対になかった。「絶対」という単語を多用する人間は信用できないが、ジェシさんのアルバムに限っては、地方では本当に入手することが「絶対」に限りなく近く困難だった。
「ソング・バード」のライナーノーツには国内のファンクラブの案内があったが、ごく仲間内の閉じられた組織らしく、マニアであることで悦に入っているような雰囲気が感じられ、なんだか気後れして敬遠した。
ただ、ジェシさんのアルバム自体は本当に大好きで、ヤングブラッズにまで遡ってレコードを手に入れて聴いていた。
今夜、ネットでジェシさんについて検索してみたら、今はハワイでコーヒー農場を経営しながら、音楽はどちからというと副業のようである。相変わらず、すてきな人だなあ、と思った。ジェシさんのように生きたい。目標である。
私はすでに音楽への興味よりも、社会や子育て問題などへの興味のほうが高く、また音楽についてのウンチクを語るような輩でもない。ただ、ジェシさんの音楽に接することができたのは、本当に人生の財産だと思っている。ジェシさんの音楽ばかりがすてきであるわけではなく、さまざまな感性を持った人にそれぞれの財産足りうる音楽があると思う。かつて奇をてらっていると感じていたクイーンは、近年は再評価する向きもある。時代の背景と人生の背景が違えば、さまざまな魅力が見えてくるのだと思う。
高校時代、家庭が不安定な時期、同級生の、進学校の中では平均的な成績のやつが「おれは理系に進むことを小さいころから決めていた。せっかく進学校に入ったのに、文系に進むなんて意味がない」などとナンセンスなことを自信満々に言っていたことを、いま思い出した。私はけっこうけんかっ早いほうでもめごとが大好きだったのだが、このときばかりはなんだか彼が気の毒で反論しなかった。
今更ながら、人生には芸術は不可欠であると思う。
ちなみにきょう会津風雅堂でNHK「おかあさんといっしょ ファミリーコンサート」があり、家族で見てきた。私は運転手の役回りで、コンサート中はロビーに出て長いすで寝ていたのだが、初めてのコンサートを体験した息子は大喜びしていた。
社会人になり、一日のほとんどの時間を仕事で費やすようになり、そのうち結婚して子どももできて、さらに音楽からは遠ざかっていた。しかし、妻や子どもの姿を見て、やっぱり音楽って力があるなあ、と感じた。デニーズのBGMに感謝、である。
ただ、NHKのキャラクターのグッズの便乗値段には仰天だった。
私にとっては、世界で最も偉大な音楽家であり、精神的に最も消耗していた時期に救ってくれた、尊敬し非常に感謝している人物である。ただ、残念ながら、あまり有名ではない。ファミレスのBGMで流れるのは、本当に奇跡的な出来事なのである。
ジェシさんは、60年代にヤングブラッズというアメリカ国内ではそこそこ売れたバンドの中心メンバーとして活躍し、ニューヨークなどの都会で活動をしていた。70年代になると、メキシコ半島の田舎町に移り住み、農業を営みながら音楽活動を続け、たぶん、1年に1枚くらいのペースでアルバムを発表していた。カントリーテイストからジャズテイストまで幅広いカテゴリーの音楽をつくっていたが、私は、特に彼のポップス調の柔らかいつくりの曲を好んでいた。妻を歌った「スーザン」、娘を歌った「ソング・フォー・ジュリア」、「マイ・モーターホーム」「ライトシャイン」などなど。一番好きな「ソング・バード」などは、彼の音楽を聴かなくなってほぼ30年経った今でもそらで歌える。
3歳上のいとこの影響で欧米の音楽は小学4年生からはまった。当時は「ロックはイギリス」という風潮が支配的で、中学1年のとき武道館にクイーンの初来日公演を見に行ってから、自分の中でもイギリス、もしくはヨーロッパに偏執的にこだわった。時代の流れ、といえば格好いいが、つまり「流行」だった。ただ、ほかのイギリスのバンドは接するごとに好きになっていったが、直に見た初めてのバンドであるクイーンにはすぐ飽きた。ほかの音楽を知るにつけ、奇をてらったような軽さばかりが感じられ、ライブを見た感激は急速に失われていった。一番売れた3枚目の「ボヘミアン・ラプソディ」のころには、まったく興味がなくなって、その存在さえ忘れていた。
2年生からはディープ・パープルが中心だったが、ジョン・メイオールやロリー・ギャラガー(テイスト)、ベック・ボガード&アピス、パリスも好きだった。いま記憶が蘇ってきたが、パリスは相当にかっこよかった。ロバート・ウェルチという人はJメイオール&ブルースブレイカーズの流れを汲んでいた、売れる以前のフリートウッド・マックにいた。フリートウッドマックは、ピーター・グリーンやダニー・カーワンなどがいた時期もあり、売れる前の方が実はかっこよかった。ジョン・メイオールも、いまでも相当にかっこいい。ただ、かっこよさで言うとパリスは史上最高のバンドだった。(と、断言してしまう)
フリートウッド・マックもクイーンもそうだが、当時売れるというのは、女性受けの志向を強めていくことだった。デビュー当初はかっこよかったのに、売れ始めてから崩れていったバンドは数多い。
骨太でかっこいいのは、あまり売れ行きがよくなかった。つまりは地方ではアルバムを入手することが困難な時代だった。リンゼイ・バッキンガムやスティービー・ニックスが入る以前のフリートウッド・マックのアルバムは、いつもレコード屋に注文して1ヶ月ほどでようやく入手できた。
このころ、クリムゾンやピンクフロイドなども人気絶頂だった。しかし、この系統のバンドは売れてもあまり客に媚びる性質がなく、骨太で重いバンドもあって、こちらも周囲の友達と同等程度に好きだった。このころも、まだアメリカの音楽は、軽そうで近寄らなかった。
そのうちに父親が倒れ、家庭が不安定になった。そのころになって初めてイギリスのロックに疲れ始めた。ドイツのネクターというバンドも相当に好きだった記憶があるのだが、家庭が不安定で精神が消耗しているなかで、ヨーロッパの重厚な音楽は変に理屈っぽく感じ、まさしく心に重かった。そんなときにFMラジオで初めて聴いたジェシさんの歌「ソング・バード」は、心を軽くしてくれて、癒してくれた。音楽で人生を救われたというのは初体験であった。これまでにも、音楽で心が救われたと感じるのは、実はほかには「モルダウ」くらいしかない。
そういうわけで、ジェシさんのレコードが地方のレコード屋さんに置いてあるということは、絶対になかった。「絶対」という単語を多用する人間は信用できないが、ジェシさんのアルバムに限っては、地方では本当に入手することが「絶対」に限りなく近く困難だった。
「ソング・バード」のライナーノーツには国内のファンクラブの案内があったが、ごく仲間内の閉じられた組織らしく、マニアであることで悦に入っているような雰囲気が感じられ、なんだか気後れして敬遠した。
ただ、ジェシさんのアルバム自体は本当に大好きで、ヤングブラッズにまで遡ってレコードを手に入れて聴いていた。
今夜、ネットでジェシさんについて検索してみたら、今はハワイでコーヒー農場を経営しながら、音楽はどちからというと副業のようである。相変わらず、すてきな人だなあ、と思った。ジェシさんのように生きたい。目標である。
私はすでに音楽への興味よりも、社会や子育て問題などへの興味のほうが高く、また音楽についてのウンチクを語るような輩でもない。ただ、ジェシさんの音楽に接することができたのは、本当に人生の財産だと思っている。ジェシさんの音楽ばかりがすてきであるわけではなく、さまざまな感性を持った人にそれぞれの財産足りうる音楽があると思う。かつて奇をてらっていると感じていたクイーンは、近年は再評価する向きもある。時代の背景と人生の背景が違えば、さまざまな魅力が見えてくるのだと思う。
高校時代、家庭が不安定な時期、同級生の、進学校の中では平均的な成績のやつが「おれは理系に進むことを小さいころから決めていた。せっかく進学校に入ったのに、文系に進むなんて意味がない」などとナンセンスなことを自信満々に言っていたことを、いま思い出した。私はけっこうけんかっ早いほうでもめごとが大好きだったのだが、このときばかりはなんだか彼が気の毒で反論しなかった。
今更ながら、人生には芸術は不可欠であると思う。
ちなみにきょう会津風雅堂でNHK「おかあさんといっしょ ファミリーコンサート」があり、家族で見てきた。私は運転手の役回りで、コンサート中はロビーに出て長いすで寝ていたのだが、初めてのコンサートを体験した息子は大喜びしていた。
社会人になり、一日のほとんどの時間を仕事で費やすようになり、そのうち結婚して子どももできて、さらに音楽からは遠ざかっていた。しかし、妻や子どもの姿を見て、やっぱり音楽って力があるなあ、と感じた。デニーズのBGMに感謝、である。
ただ、NHKのキャラクターのグッズの便乗値段には仰天だった。
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