アコギおやじのあこぎな日々

初老の域に達したアコギおやじ。
日々のアコースティックな雑観

鉢呂発言の深層

2011-09-11 | Weblog


 今度の「恥爺(はじじい)」は65歳。

 恥ずかしいじいさんがあまりに多いので、そう分類づけすることにしました。


 どうして失笑を買うと分かり切った言い訳を繰り返すのだろう? 

 事ここに至って、尚、どうして誠実な心で事に対峙しようとしないのだろう? 

その年になって。


見苦しい言い訳をして嘲笑された仲間は、周囲にたくさんいるだろうに。


 鉢呂吉雄経産相が福島第一原発近くを視察後に「死のまち」と表現し、東京に戻った後に、記者に「放射能をうつすぞ」と発言した件だ。


 勘違いの「上から目線」で知事を恫喝した「恥爺」がやめたばっかり。どうして、大臣ってこんなのばっかりなの? いや、こんなやつらだからこそ大臣になるのかな?


           ◇


 原発近くが「人っ子一人いない」のは事実。「死のまち」と表現されても違和感がないのが、悔しいけれど、偽らざる現状だ。

 しかし、事実だからといって、公の場でそのまま言葉にして出してしまう公人がいるということに、この国の真の危機を感じる。その場所に帰ることができずに悲嘆にくれる人たちに考えが及ばないのだ、このじいさんたちは。


 言葉は発する側だけではなく、受け止める側があるということを、このじいさんたちは認識できていない。


 そもそも、国が避難勧告したんじゃないか。人がいたら大変だ。なにを今更。


 「死のまち」の言葉の使い方については、じいさんの資質の問題だから百歩譲って許すこともできる。本当に、本人の言うとおり悪意はないのだろう。


 ただ、悪意なく、そのような発言をしたことに、かえって落胆が増す。


 避難させた事実と、その結果にいまさら衝撃を受けて、仰々しく表現する大臣がいるということに失望する。ましてや原発を担当する経産相…。


           ◇


 「放射能がうつる」と言われて、福島県から他県に避難した小学生がいじめられたと問題になったばかり。


 このじいさん、頭の中は小学生並みということか。


           ◇


 調べてみると、このじいさん、昨年の北朝鮮による韓国への砲撃事件の際にもやらかしていた。問責決議案が提出予定だった仙石じいさんだが、事態が緊迫したために当時危機管理担当だった仙石じいさんに対して野党が問責決議案提出を断念したときのこと。


 「砲撃事件は、民主党にとっての神風だ」と言ったらしい。


 隣国のことではあるにせよ、民間人も含めて多数の死者が出た事件を(おれたちの政局にとってありがたいこと)と言ったのだ。


           ◇


 「死のまち」「放射能をうつす」発言に対しての非難に対して、民主党の議員からは「揚げ足取りで国会を遅らせるのはやめろ」との声が上がっているという。


 迅速な国会運営は必要。しかし、揚げ足取りという認識もどうか。


この人たちも政局のことが優先。根っこの部分に「軸」がない。とことん失望させてくれる。


           ◇


 「死のまち」から避難している人たちは、その「死のまち」に帰りたいのだ。

その地で生まれ、その地で育ち、その地を離れたことがないようなお年寄りも多い。


そんな人たちなのに、一時帰宅の後には、自分たちのまちが「死のまち」になってしまったという事実を甘受し、涙さえ枯らしてしまっているのだ。

避難を拒み、「天国に避難します」と自らの命を絶った90歳を超える女性もいたと毎日新聞が報じたではないか。


 我が家に避難している双葉町の義父母も8月になって初めて一時帰宅し、自宅とその周辺の様子を見て、覚悟を決めた。家も仕事も、生活の痕跡も、何年か後に自分も入ると思っていたお墓さえも、もうないという事実を確認したのだから。



 「もう帰れないんだなぁ」。義母は、年1回の「町民号」のバス旅行以外は、この地域から離れたことがほとんどなかった。郡山か会津か現段階では未定だが、どちらにしても、70歳を過ぎて、今年初めて雪のある地方で冬を過ごすことになる。


         ◇


 「現在」だけでなく「過去」も失った。そして、いま「未来」をも奪われようとしている。


 そんな人たちがたくさんいる。その状況で、なぜ言葉に注意を払わないのだ。


 天災を人災にしたのは、現政権だ。放射能と同様に、被災者たちの上に政治家たちの不誠実が降りかかってきているのだ。


          ◇


 以前も書いた。しかし、何度でも訴え続けたい。


 この国に必要なのは「人間性の復興」なのではないか。特に、じいさんたちの。





 と、以上を9月10日に書いたまま眠ったら、翌11日の朝刊で鉢呂じいの辞任を知った。


 言い訳が、またその人間の恥ずかしさを倍増させている。結局、辞任といっても公職すべてから退くわけじゃないから、見苦しくとも生きながらえるために、もがくんだろうか?


          ◇


 勘違いの上から目線じいさんも、鉢呂さんも、大物ぶりたがりの島田伸介と同じ程度の人間なのか。


 「こんなことで辞めな、あかんのですよ。人前で『大臣ヅラ』したかっただけのに…」ってな程度。
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