3次元紀行

手ぶらで地球にやって来ました。生きていくのはたいへん。そんな日々を標本にしてみました。

奥田先生

2007-12-04 00:35:01 | 20世紀という梨があった
catmouseが5年生になった時、担任の先生から呼ばれた。
男子数名、女子数名。(何人づつだったか忘れた。2名づつのようだった気もするし、4名づつだったような気もする)
音楽室に行きなさいといわれた。
Catmouseたちはわけが分からないまま音楽室に行くと、各クラスから来た生徒たちが集まっていた。
そこに奥田先生が登場。
開口一番、「女の子は帰れ」
奥田先生とは奥田政夫。catmouseのいた小学校は上高田小学校という。
(こらこらbamaman、ウイキペディアを見ながら指おり数えてはいかんぞ)
上高田少年合唱団は当時、合唱コンクールで優勝をしまくり、その名は全国にとどろいていた。が、少年少女合唱団ではなく、男の子だけの少年合唱団だった。
そのわけは…
「どうしても練習が6時~7時に及ぶことがある。すると女の子の父兄からは苦情がでる。
また、厳しくすると、女の子はすぐ泣く。だから男の子だけでいい。女の子は帰れ」
てなわけで、catmouseは上高田少年合唱団のメンバーからもれたのであります。
まあ、catmouseもその先生の言い草を聞いて、当時は納得しておりましたな。catmouseは、小学生くらいのときは、電気がついてから帰ると、ママから締め出されてお家に入れてもらえませんでした。戸口で「ごめんなさい、もうしません」とさんざん泣いて、やっと入れてもらう有様でしたから、6時、7時まで学校にいるだなんて多分許されないだろうな、と即座に思いました。

今なら考えられませんね。いま、夜中まで小学生たちが塾に行くでしょう。それに先生に選ばれて有名合唱団に入れるなんていったら、親が目の色かえるでしょう。
でも当時はママに話したら「それでよし」という顔してましたからね。家庭で子供はどうあるべきものというのは今と違っていましたね。

6年生のとき、この奥田先生の指導で合唱する機会がありました。
あまりよく覚えてないのですが、いろいろな小学校が出場する合唱祭というようなものでした。コンクールではなかったと思います。
でも選抜メンバーだったような気がします。なぜなら当時、53~54人の学級が7組あったのですから、そんなにたくさん舞台に乗るわけがないからです。
2曲歌ったのですが、1曲しかおぼえておりません。「お江戸日本橋」
終わったとき、奥田先生は不満足そうでした。生徒に対して言ったのではなく、catmouseの担任の先生にこぼしていたのを横から聞いたのです。“左右がずれた”って。
これだから女を入れるのはいやなんだ、と奥田先生は思ったんじゃないかな、とその時catmouseは思いました。


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9 コメント

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ウィーン少年合唱団 (bamaman)
2007-12-04 22:34:02
うん、思い出しました。
映画が来ました。なんでか 憧れました。
でも、音楽の授業はつまらなく嫌いでした。
音楽室で 覚えた事はバッハやモツァルトやヘンデルやベートーベン等の顔でした。
そいでもって 音楽の教科書の裏に鍵盤が印刷されていて 音の出ない鍵盤を弾かされましたねぇ。
そのころからちょいと後であしょうか。おそらく昭和40年頃(オリンピックの次の年くらいでしょうかねぇ?!)から アップライトピアノを作りさえすれば売れた時代。なんと楽譜の会社の全音だとか、ミシンのブラザーなんぞがピアノを作っていたという…
この頃が 時代の急転換ポイントだったんでやすねぇ。

所得倍増計画の具体的なイメージは こんなんでやしたねぇ。
あらゆるモノが 現代性という事で流布させられて…
考えだすと少しずつ思い出します。

電柱がいつタール漬けの茶色の木柱からコンクリート柱に変わったのだろうか?いつ街灯がアルミの傘で白熱球から蛍光灯に変わったのか?月島の倉庫予定地は いつ頃に 大きな水たまりが無くなってトンボやバッタがいなくなっちゃったんだろうかぁ?

いつ、僕は おとなになったんだろうかぁ、あはは…臭い台詞!
アイ・シュッツ・ザ・セリフ…
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中古 (bamaman)
2007-12-06 22:23:08
うん、日本は何故か新品が好まれるんだけんどねぇ?
さて、ピアノはほんまに寿命があるのだろうかぁ???

結論は 【ナイ!】

保存状態さえ良ければ 昔の楽器の方が良いのだ。
うん、木が違う!
響板の木が違う!!

ヤマハは 怪しい?!

実はC3も中国で作られているのだぁ。
しかし、浜松で調整が行なわれているので made in Japanとなるんだそうな。

スタインウェーも今やシャンハイに工場があるんやそうな。
流石に 音質は落ちるんだとか…

小生の購入したスタインウェーは 1920年製のO 180てぇ機種。
ドイツでマイスターにより補修されたものだという奴!

絶品かというと…自信はないけどねぇ…だってさぁ 所詮フルコンじゃぁないからねぇ。

しかしぃ、もの凄い表現性…ううん、なんちゅうかぁタッチを細かく拾っちゃう。つまりぃ、小生のレベルでは かなわない。

そうでやすがぁ、これ弾いてれば 絶対に上手くなっちゃうね♪
そう、高音がほんまに奇麗だすなぁ。
今の処は 低音にややコモリ感があるね。まぁアクションもハンマーも新品やからねぇ、まだまだ音は出ていない。
出そうなポテンシャルはあるけんどねぇ、フルコンと比べちゃうとねぇ、はぁ 限界は見えちゃいますよ。

まぁ、でも 良いピアノでやす。
今の処は 小生には過ぎたるモノでごぜますなぁ♪
フォフォッフォ…
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えー?ほんとけ (catmouse)
2007-12-06 23:02:58
ピアノに寿命があるって、調律士のおねえさんが言っていたよ。
と、カキコしていたら、横からあらりちゃんが「日本じゃなきゃ寿命はないんじゃない」って言った。
「日本は獅子神様の国だからね。湿気でなんでもだめになっちゃう」ともちごめちゃんも言った。
でもヴァイオリンもハープも寿命があるんだって、catmouseは聞いたよ。

でもさ、ストラデバリウスは今も名器として残っているし、スタンウエーも残ってるよね。ほんとはどうなんだ?と疑問にも思ってただ。
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永遠てぇ事はないざんしょうが (bamaman)
2007-12-07 07:38:06
 楽器が放置プレイされれば 厭がっちゃいますよね。
例えば 弦は振動することで熱を持つ。
すると鳴って来る。
振動すれば 油や埃も ふるいおとされる。

モンスーンで 大事にするには 湿度変化、温度変化が少ない様にエアーコントロールをする。

これをやれば 相当に長持ちする。
ピアノに関しては 響板(弦を張っている板)に狂いさえなければ寿命は続き、ハンマーやアクションやその他の部品は交換すればいい。
良い音を出すには 同じ調律士に死ぬ迄面倒を観ていただく。
1日一回必ず弦を振動させる。

つまりぃ楽器を取り巻く人間達が 愛情を持ち続ける事だろかぁ。
人間あっての楽器!楽器あっての人間?あはは…言い過ぎだ♪
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奥田先生 (上地明徳)
2011-05-10 08:42:13
奥田先生の記事、拝読させていただきました。小生齢五十二と相成りますが、実は、上高田少年合唱団のメンバーとしてNHKなどのコンクルールを総なめ(笑)しておりました。当時から大変厳しかった、いや、怖かった奥田先生と再会を望んでいるのですが、現在はどちらの学校で教鞭をとられているのでしょうか?差し支えなかったらお教えいただけないでしょうか?
写真の猫ちゃん、とってもかわいいですね?うちも3匹飼ってます・・・
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遅くなりました (catmouse)
2011-08-06 09:23:02
まだご覧になっているかしら?
最近、来ていなかったもので、気付きませんでした。奥田先生の連絡先は、もちろん分かりません。だって、女は帰れって言われたんですから。奥田先生はとっくに定年でございましょう?だってcatmouseだって定年ですから。写真の猫は借り物です。

catmouseは今、世田谷区民合唱団で合唱をやっています。やっと合唱にたどり着きました。
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奥田先生 (美崎大洋)
2013-09-13 11:09:46
「奥田先生」で検索したらこのブログに当たりました。
私も上高田小学校の合唱部にいました。私が4年生の時には女子がいましたが途中でいなくなりました。その年のNHKのコンクールで20名の男だけのメンバーで全国1位になり、翌年も連続優勝しました。2年とも私はメンバーでした。私の自宅も奥田先生の自宅に近く、その後もダンディ(女性的とも)な格好で歩いているのを見かけました。数年目にに亡くなりました。先生は女嫌いでした。
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美崎大洋様 (catmouse)
2013-10-18 21:46:39
コメントくださっていたんですね。イマは10月18日。一月以上たっていますね。またまた遅くなりました。

上高田小学校の合唱部にいて、4年生の時、女子がいたということは、catmouseより上級生ですね?

数年目に亡くなったというのは、今から数年前ということでしょうか?

そういえば、統廃合で、上高田小学校なくなるんですね。もうなくなったのかな?

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上高田少年合唱団のメンバーでした (kita)
2023-04-16 15:04:17
昭和30年生まれです。昭和40年から42年にかけて、板橋区中根橋小学校で奥田先生のもとで上高田少年合唱団で歌っていました。
厳しい先生でしたが、あの厳しさがなければコンクールであの成績は出せなかったと今は思っています。奥田先生は2007年10月9日に80歳で逝去されたそうです。

昭和41年に6名の選抜メンバーに選ばれ、TBSのテレビ番組「西郷輝彦ヤングジャンボリー」に6ヶ月間出演したのが最後でした。
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