カトリック情報 Catholics in Japan

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聖十字架称讃の記念     Exaltatio S. Crucis 

2024-09-14 00:00:05 | 聖人伝
聖十字架称讃の記念     Exaltatio S. Crucis                祝日 9月 14日


 世人の崇敬をあつめている聖遺物中、わけても貴いのは、主イエズスキリストが全世界の罪の贖いに、御自らを磔け給うた聖十字架ではないだろうか。というのは、これなくしては我等に救霊の恵みも与えられなかったに相違ないからである。されば聖会は之が賛美尊敬の為、聖金曜日の他になお二つの祝日を設けている。それは即ち5月3日の聖十字架発見の記念と、本日の聖十字架賞賛の記念とである。
 聖十字架賞賛の記念は聖会に古くから行われ、キリスト復活祭や昇天祭などと共に大祝日とされていた。殊にこの祭りの盛大に催されたのは、聖主御受難の聖地エルサレムで、当日は聖榮大聖堂に荘厳な儀式が執行され、遠隔の地からも多数の信者が巡礼参加し、イエズスの磔り給うた十字架を称讃すると共に、わが救いを感謝して、聖歌を歌い祈りを献げるのが例年の慣わしとなっていたのである。
 聖十字架称讃の記念が一段と盛んに行われるようになったのは東ローマ帝国ヘラクリオが一度ペルシャ人の手に奪われた聖十字架を取り戻した西暦628年の頃からで、之を更に詳しく説けば614年東ローマ帝国に攻め込んだペルシャ王コスロアスの軍勢は、エルサレムを乗っ取って数多の信者を虐殺し、総主教ザカリアその他を捕虜として凱旋する時、同地の教会が無二の宝物と珍重していた聖十字架をも鹵獲品の一つとして持ち去った。戦いはその後15年も続き、その中にコスロアスも死にヘラクリオが勝利を得て戦いに倦み疲れたペルシャ人と和を講ずることになったが、その条約の中には聖十字架返還の一項も加えられていたのである。
 かくてヘラクリオ皇帝は部下に聖十字架を担わせ、意気揚々とエルサレムに乗り込み之をもとの場所に安置された。伝説によれば皇帝は主の御迹を辿るべく、美麗な衣冠に威儀を正し、自ら聖十字架を担ってカルワリオの丘に登ろうとされたのに、どうした事か一歩も足が進まない。いかに渾身の力を傾けても目に見えぬ縄で縛められた如く更に身動きが出来ない。この思いがけない有り様に、周囲の人々は驚き呆れて、ただあれよあれよと騒ぐ中、総主教ザカリアは何か心に思い当たる事あってか御前に進み出で「昔イエズス・キリストはこの十字架の道を、茨の冠に兵卒の着古した粗末なマントで辿られたものでございました。しかるに陛下は、ただいま結構な御衣に黄金の冠を着しておいでになります。御足の進みかねるのも察する所かような事が主の思し召しに適わぬ為ではございますまいか」と申し上げた。信仰深い皇帝はこれを聞かれるとなるほどと思し召され、それから粗末な衣服にお召し替えの上、また十字架を背に歩み給うた所今度は何の妨げもなく、無事頂上に達せられたとの事である。
 さて聖十字架はこれより前にも増して人々の崇敬を受けるようになったが、今なお二千年の昔と少しも変わらず、すべてのキリスト教徒に信仰の印と仰がれ、悪魔の矢玉を防ぐ盾、罪人の希望を繋ぐ所となっている。
 本日の聖務日祷晩課に誦えられている、ユヴェンチオ・フォルツナトが569年に作詞した、名高いヴェクシラ・レジスという聖歌もまた右のこころを現したものに他ならない。曰く、
 唯一の希望なる聖十字架を崇め奉る。
 願わくはそを称うる今日のよき日に、
 信心深き者は之によりて益々聖寵を恵まれ、
 罪ある者は之によりて赦免を与えられんことを。


教訓

 十字架は昔罪人の刑具として恥辱の印であった。それが主イエズス・キリストの救世の為これに磔り給うた時から却って栄誉の印となった。されば我等も義の為に艱難を受けるような場合、決して絶望の淵に沈んではならぬ。「汝等憂うべけれども、その憂いは変わりて喜びとなるべし」という主の聖言を思い起こし、勇ましく耐え忍ぶべきである。



人類よ、目を覚ませ 聖アウグスティヌス

2024-09-13 03:33:49 | 格言・みことば
人類よ、目を覚ませ。神が人となられたのは、お前たちのためだったのだから。目を覚まして、それがすべて自分のためだったことを理解しなさい。もし、神がこの世にお生まれにならなかったのならば、永遠の死がお前を待っていたことだろう。もし彼が罪深い肉の似姿にならなければ、あなたは決して罪深い肉から解放されることはなかっただろう。この慈悲深い行いをされなかったら、お前の惨めさは永遠に続いただろう。もし、主がお前の死に臨んでくださらなかったら、お前は再び生き返ることはないだろう。彼が来なければ、お前は滅んでいただろう。

聖アウグスティヌス



聖ヨハネ・クリゾストモ司教教会博士  St. Joannes Chrysostomus Patriarcha

2024-09-13 03:32:08 | 聖人伝
聖ヨハネ・クリゾストモ司教教会博士  St. Joannes Chrysostomus Patriarcha   記念日 9月 13日


 紀元438年1月27日の晩の事である。東ローマ帝国の首府コンスタンチノープルの海岸には、何十万という人々が手に手に松明を振りかざして、物々しく詰めかけていた。海上にも星の降ったように、点々と輝いているのは、数多の船に焚いてある篝火なのである。やがてそれらの船に迎えられて、また幾艘かの船が港へ入って来た。そしてそれから上陸したのは幾百人とも知れぬ司教司祭達や男女の修道者等で、その中の数人は深い哀悼の沈黙の中に、石の柩を担いでいる。
 その時浜辺に立つ人々の中から、その前へつと進み出た美服威容の人があった。彼は跪いてその柩に額を押し当て、恭しく敬意を表した後、沈痛な声で言うのであった。
 「ああ聖ヨハネよ、吾東ローマ帝国の皇帝テオドシオ、ここに謹んで卿が御霊にこいねがい奉る。卿を苦しめし我等の罪を赦し、我等の為天主に執り成し給わん事を!」
 間もなくコンスタンチノープルの大聖堂へその柩を送る悲しみの行列は、えんえんとして長蛇の如く、粛々と練って行った。この聖人は誰あろう。かつて同市の総主教を勤め、後誤解を受けて追放され、その3年後小アジアの北、黒海のほとりで客死した、当時の名だたる教父であり、かつ比類なき雄弁の為にクリゾストモ(金口)とあだ名された、聖ヨハネに他ならないのである。
 彼は紀元354年2月、シリア国のアンチオキア市に生まれた。両親とも極めて信心深かったが分けても敬虔な心を持っていた母親はヨハネのようやく三、四歳の頃夫に死なれたけれど、我が子の宗教教育にには深く意を用い、言葉を以て行いを以て彼を教え導いたから、彼も幼いときから敬神の念極めて厚く、つとに我が身を天主に献げる決心をしたという。
 実際ヨハネの母聖アンツーサは、聖兄弟バジリオ及びグレゴリオの母聖エンメリオや、ナジアンズの聖グレゴリオの母聖ノンナなどのように、すぐれた人物の母たるべき自然的、並びに超自然的素質を恵まれていた。即ち智慧明らかに意志堅く、愛情深く信仰篤く、高い教養を有すると共に実際的な分別にも長じていたのである。さればその愛児ヨハネが少年時代から天主の御聖寵を豊かに蒙り、善徳の道に秀でていたのも偶然ではないと言えよう。
 彼は当時の習慣に従って18歳の頃洗礼を受け、その後3年間神学を勉強し、聖職者に決心をしたが、友人の聖バジリオと共にまず山修士のような生活をしたいと思い、母親と別れようとした。しかし深くヨハネを愛していたアンツーサは到底彼を手放すに忍びないと言うので、彼も已むなく一時その企てを思い止まり、我が家にあって母に孝養を尽くす傍ら、修道の業にいそしんでいた。
 その内に母も美しい臨終を遂げたので、今は後顧の憂いもなしと、彼は多年の希望の実現に着手し、まずアンチオキア市に程近い山中に籠もって、4年間他の修道者等と厳しい克己の生活を営んだが、それでもまだ足れりとせず今度はエジプトのテバイスの山修士に倣い、更に二年間荒れ野に遁れて独り祈りと苦行に身を委ねた。けれども彼は決して本末を謬るような事はなかった。それは彼がよく「不眠徹宵や断食が貴いのである。すべての苦行はこの愛の焔をいよいよ盛んにする手段としてのみ意義があるのである」と言った事実からも明らかであろう。なお彼はこの間に旧約、新約両聖書をことごとく諳んずるまでに反復熟読し、その深遠な意味に就いて暁る所が頗る多かったそうである。
 さて前後6年にわたる苦行の後、ヨハネはわが体力のかように峻厳な生活に適せぬ事を悟り、再びアンチオキア市へ帰った。すると同市の司教メレチオは彼が学徳にすぐれている天晴れな人物である事を知って、彼に助祭の聖職を与えたのである。
 今まで謙遜におおわれていたヨハネの善徳と学識とが、燭台の上に置かれた灯火のように、燦然とあたりを払って遠国までも輝き渡ったのは、この時からであった。彼は助祭として主に慈善博愛の方面に活躍し、また著述の方面に於いても優れた業績を示した。それで4年の後司教は、まだその器にあらずとして久しく叙階の秘蹟を固持していたヨハネをいよいよ司祭の位に挙げ、アンチオキアの大聖堂の主任説教者とした。
 かようにして彼の比類なき雄弁は思いのままに発揮される事になり、先に6年の修養時代に営々として築き上げた聖書知識のうんちくは、そのいわゆる「金口」より尽きせぬ泉の如くこんこんと迸り出て、信者等に対し或いは誡め、或いはすすめ、或いは慰め、遺憾なく善導の効果を挙げる事が出来たのであった。そして殆ど使徒聖パウロの生まれがわりかと疑われるこの博識宏辞の聖者の名は、たちまち四方に喧伝されるに至ったのである。
 されば397年コンスタンチノープルの総主教ネクタリオが没すると、皇帝アルカディオの宰相であるオイトロビオは、辞を低くして彼にその後任たる事を願い、その為にわざわざ皇帝の御馬車を差し向けるという破格の禮を以て、彼をアンチオキアから首府に迎えた。しかしこの大いなる名誉が、彼にとって茨の道の入り口であったとは誰が予想し得たであろう。
 第4世紀に起こったアリオ派の異端は、聖会の内に害毒を流す事甚だしく、聖職に携わる人々の中にさえ、その毒に犯されて使徒時代の熱烈な信仰と素朴な精神を失い、奢侈贅沢に流れたり冷淡に陥ったりする者が見出されるようになった。日頃厳しい修道生活に慣れているヨハネがこれを慨嘆せぬ筈はない。彼はせめて自分の主教座なるコンスタンチノープルに於いてだけでも右の悪弊改革の実を挙げたいと思い、豪奢な催しをしたり立派な邸宅を建てたりする代わりに、旅人の宿泊所や病人の収容所などを設け、身を以て範を示したのである。
 けれども彼のこういう心がけややり方は、時弊に染んだ数多の人々の反感を買わずにはいなかった。彼等は口を揃えて聖人を攻撃し、司教司祭等の中にすら彼に不満を持つ者があった位である。その上ヨハネは他人に誡むべき所があれば遠慮なく誡め、宮中の女官等に対しても仮借する所なく、皇后オイドクシアび向かってさえ、ある寡婦の財産に関する問題で直言して憚らなかったから、遂に皇帝や皇后の不興を蒙り、それにつけ込んだ異端に加担する教職者や有力者の運動が効を奏し、彼は首府から追放されるという悲運を招くに至った。ああ、これは先にこの市に迎えられた名誉の時に比べて、何という悲惨な恥辱であろう!彼自身も浮き世の名誉の煙のような空しさに、必ずや感慨の新たなる者があったに相違ない。
 しかし彼がその恥辱を受けると間もなく、突如大地震が起こり、皇后の身にも急に不幸が降りかかって来たので、オイドクシアは之こそ天罰であろうと怖じ恐れ、一度はわが非を悔いて聖人を呼び返したものの、更に彼女の祈念碑の除幕式の時、ヨハネが余りのお祭り騒ぎをたしなめたのを根に持ち、再び彼を都から、遠いアルメニアへ追放してしまったのである。
 聖人はいよいよ捕縛される時、わが主教座大聖堂で最後の祈りを献げ、「私は善き戦闘を戦い、走るべき道を走り終えました。私はもはや再び貴方がたにお目にかかる機会もないでしょう。最後に当たり私は皆さんが時々私の為にも一片のお祈りを献げて下さるようにお願いしたいと思います」と悲壮な告別の辞を信者等に残し、夜に入ってから遠く異境に連れ去られたのであった。
 最初に彼が流されたのは人跡稀なククソという山中であったが、彼はそこからなお書簡を以て善き信者達を励ましたり慰めたりして、信仰の為に力を尽くした。所がそれが又迫害者の忌諱に触れ、彼は更に淋しい、更に気候の悪い黒海のほとりコマナという所へ流される事になった。ヨハネはそこへ遷される途中今まで積もり積もった心労が一時に発して遂にたおれ、「ああ天主よ、万事に於いて御身に光栄あれ!」という言葉を最後に、流謫の地から懐かしい天つ故郷に帰ったのである。時に407年9月14日の事であった。
 爾来星霜を経るここに1500年、聖人の肉体は朽ち果てたかも知れぬが、その金口より発せられた不滅の言葉は今も書物の上に残って、迷える者に対し正しき道を照らす炬火となっている。

教訓

 クリゾストモの聖ヨハネは、天主より託された任務を忠実に果たす為に、生命までも献げた感ずべき模範である。我等はその貴い責任感に対し深い尊敬を払うと共に、自らも主に忠実を尽くしてわが務めをよく守り、たとえその為苦痛を感ずる事があっても「ああ天主よ、万事に於いて御身に光栄あれ!」と祈りつつ、甘んじそれを犠牲として献げよう。



兵庫県の問題、斉藤知事への不信任案

2024-09-12 14:27:39 | 時事
 兵庫県の問題も、大変ですね。斎藤知事への批判も物凄く、兵庫県議会の議員86人が全会一致で辞職を要求しているとか。日本史上、全会一致で首長が辞職を要求されるケースは、もしかしたらこれが初めてなのではないでしょうか。宮澤喜一の時もここまでではなかったようですし、阿久根市長の時も、多少は市長の味方がいました。おかしな議員が全会一致で問責されることは、たまにあったのですが、首長となると殆ど例が見当たりません。

 斉藤知事への批判に上っていることは、見た感じ、職員2名の自殺を除くと、あとは県知事本人のミクロな過失や徳を欠いた行いが多いようでした。例えば、兵庫県の自動販売機に知事本人の音声を入れてみたり、贈呈品を常に常に大量に持ち帰ったり、などなどです。
 知事への同情的な意見もあります。

 斉藤知事のこれまで3年間の県政を調べた限りでは、どちらかといえば、現状維持的な政策が多く、一件を除くと、兵庫県職員との間に対立構造が生まれるような政策はないようでした。その一件とは、兵庫県職員の天下り先に手を入れ、職員の天下り先となる外郭団体を削減し、天下り後の定年を70歳から65歳に短縮し、定年後も外郭団体に留まっているOB数十名に2021年に退職勧告を行っていたようでした。
 その一件で、県職員の幹部やOBから睨まれ、水面下で対立構造が生まれていたのですか・・・?それとも、やはり、報道の通り、知事の人格や不徳の致すところが大きいのでしょうか。
 なんともわかりませんが、兵庫県は、これから少し大変ですね。おそらく、不信任案が可決され、知事はあの性格ですから、もしかしたら県議会を解散し、総選挙になるのでしょう。

 選挙は大切で、よく考えて投票をしなければいけない、という、多少の教訓にはなったのかもしれませんが。




聖ヴィクトリア・フォルナリ・ストラタ修道女

2024-09-12 00:02:25 | 聖人伝
聖ヴィクトリア・フォルナリ・ストラタ修道女      記念日 9月 12日


 1579年イタリアのジェノバで、ヴィクトリア・フォルナリがアンジェロ・ストラタと結婚した時、彼女は17歳であった。結婚生活は非常に幸福であったが、9年後に夫が死んだので、子供たちの将来について心配したあげく、再婚しようと思った時に、聖母マリアのまぼろしを見た。聖母は言われた。「勇気を出しなさい。私はあなたと子供達を保護してあげます。心配しないで平和に暮らしなさい。私にすべてをまかせて、すべてに越えて神の愛にあなた自身を奉献しなさい。」
 ヴィクトリアは、聖母マリアの御言葉に忠実に従った。自分の財産の大部分を貧しい人々に施したが、自分の子供たちが困るようなことはなかった。
 1604年、裕福な友人の助力で、10人の女性達と共に修道院を建て、翌年誓願を立てた。青い外套を着たので「青色のシスターたち」と呼ばれた彼女たちは、聖母のナザレにおける隠れた生活に倣った。ヴィクトリアは1617年まで院長として任務をつくし、55歳で神のもとに召された。