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カトリック情報 Catholics in Japan

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聖フェリクスと聖アダウクト殉教者

2025-08-30 00:00:05 | 聖人伝

聖フェリクスと聖アダウクト殉教者              記念日 8月 30日


 304年フェリクスがローマの教会で司祭として熱心に任務を果たしていた時、ディオクレチアヌス皇帝による迫害が始まった。多くの信者と共に彼も捕らえられて残酷に苦しめられたが、信仰を固く守ったので、ついに斬首の宣告を受けた。刑場に引き出されたフェリクスの落ち着いた態度を見て感心した群衆の中の一人が大声で叫んだ。「私もこの人が公に宣言する同じおきてを守っている者です。私もイエズス・キリストを信じて、彼に従っています。私もその教えを広めるために命をささげます」
 この男は、ローマの兵士に早速捕らえられて、フェリクスと並んで首を斬られた。しかし、誰もこの人の名前を知らなかったので、彼は「アダウクト」と呼ばれた。この名の意味は「追加された者」である。
 二人の殉教者はオスチア街道のコモディラ墓地に埋葬された。354年に作られた殉教者リストの中には、ただ「フェリクスとアダウクト」として記録されているだけである。
 およそ30年後に、ダマソ教皇は彼等の墓を作り直して、その上に碑銘を記した。





洗礼者ヨハネの殉教    Decollatio S. Joannis-Baptistae 

2025-08-29 16:42:30 | 聖人伝
洗礼者ヨハネの殉教    Decollatio S. Joannis-Baptistae    記念日 8月 29日
 
 
 旧約時代には下万民を虐げ享楽に耽るような暴君悪王が出ると、天主はしばしば預言者を遣わして之を戒め給うた。例えばアカズ王に対するイザヤの如きそれである。しかし多くの場合かような非道の君主は改心を拒み、諫言した人々を蛇蝎の如く憎んでその生命を奪うのが常であった。主の先駆者にして旧約時代最終の預言者と言われている洗礼者ヨハネもそういう悲運の犠牲となった一人であった。
 主イエズス・キリストが公生活始め給うた頃、ヘロデ・アンチパスという者がローマの許可を得てユダヤ分国の王位にあった。これはかのベトレヘムに於ける罪なき幼子を虐殺したヘロデの子であるが、父に劣らぬ悪虐非道を以て聞こえ、殊にその正当の妃であったベドイヌ王アレタスの王女を捨てて、自分の弟フィリポの妻ヘロデアデを娶った罪の如きは、一方ならず世人を驚倒させたものであった。けれども普段はモーゼの律法遵守に就いて厳格極まるファリサイ人等も、その他の人々もことごとく王の権威に恐れをなし、誰一人その面を冒して諫める勇者はなかった。
 この時に当たり王の宮殿に推参し、「陛下がヘロデアデを妃として容れ給うたのは。人の道に外れた所行でございます」と憚る所なくその非を糾弾したのは、洗礼者ヨハネであった。主の道を直くしその民を備える使命を帯びて、貴賓貧富老若男女の別なく悔悛をすすめていたこの苦行者は、唯主の聖旨に添わぬ罪悪の咎むべきを見るのみで、相手の身分も位もその眼中に置かなかったのである。
 ところがその言葉に良心を刺されてヨハネをいたく憎んだのは、王よりも妃のヘロデアデであった。彼女は王をそそのかして早速彼を縛り、マケールス市外なるヘロデの城の地下牢に押し込めさせた。そして折を見てこれを殺すよう王に迫ったのであるが、ヨハネが人民の間に偉大な預言者と仰がれている事実を知っているヘロデは、反動を恐れてなかなかそれを承知しなかった。
 然るにちょうどヘロデの誕生日のことであった。王宮の大広間に盛大な祝宴が開かれ、綺羅星の如く居流れる貴き賓客を前に、ヘロデアデの連れ子、王女サロメが父王の所望に応じて一さしの舞を舞った。眉目よく姿美しい彼女の引く手差す手は満堂の人々をことごとく魅了し悩殺せずにはおかなかった。舞い終わるや期せずして四方より起こる絶賛の声に、ヘロデも面目を施した思いで喜びに耐えず「見事見事、この報酬には何なりともそなたの望む物を取らそう」と恩賞の約束をしたのである。
 所望の品に思い迷うたサロメは、母のヘロデアデに相談した。ヘロデアデは今こそヨハネの命を断つ絶好の機会と思い、サロメの耳に口を当てて恐ろしい事を言い含めた。
 「父上、お願いでございます。洗者ヨハネの首を斬り、盆の上にのせて私にお与え下さいませ」
 虫も殺さぬようなやさしい娘の口から、この途方もない願いを聞かされたとき、ヘロデの驚きはどのようであったろう!しかし綸言は汗の如し、「望みの物は何なりとも与える」と、満座の前で一度誓った言葉を反古にするのは、王の権威を失墜するようで心苦しい。ここに於いてヘロデは内心自分の前言を後悔しながらも、ついに列席の人々の手前使者を急派し、獄中にヨハネの首を刎ねて持ち来たらしめ、これを盆にのせてサロメに与えたのであった。聖ヒエロニモの伝える所によれば、ヘロデアデは娘からその首を受け取ると、憎悪の形相物凄く針でヨハネの舌を突き刺したというが、何と恐ろしい心ではないか。
 かくて主御自らに「女より生まれたる中最も偉大なる者」と御賞賛をかたじけのうした洗者ヨハネは正義の為に貴い最期を遂げた。それはまた世の救いの為十字架上に聖い御血を流し給うたイエズス・キリストのかたどりともいうべく、あくまで主の先駆者たるにふさわしい死といえよう。
 これを知ったヨハネの弟子達は恩師の遺骸を引き取り程近い所に手厚く葬ったが、後その遺骸はサマリアなるエリシャ預言者の墓に合祀保存された。またヨハネの首は廻り廻って始めはシリアのエメサに、次いでコンスタンチノープルに保存されたが、1204年フランスのアミアン市に移されたまま今日に及んでいる。
 虐王ヘロデはユダヤの歴史家として名高いヨゼフ・フラヴィオによれば、廃妃の父なるアレタス王との戦いに敗れてローマ皇帝カリグラに王位を奪われ、妃ヘロデアデ、王女サロメと共にガリアの地に遷流の憂き目を見、王と王妃は淋しくも配所に骨を埋め、サロメは凍れる池の上を歩行中水に落ち入り、氷に首を挟まれて悲惨な死を遂げたという。
 
教訓
 
 洗者聖ヨハネは正義の為には王侯の権威も恐れず直諫した硬骨の士であった。我等も彼の勇徳にあやかり、正しき道の為には千万人といえども我行かんの気概を失わず、他人の罪に決してくみせぬばかりか、及ぶ限り之を諫止するよう努むべきである。
 

聖アウグスチヌス司教教会博士  St. Augustinus D. E.

2025-08-28 09:50:37 | 聖人伝
聖アウグスチヌス司教教会博士  St. Augustinus D. E.  記念日 8月 28日
 
 
 「人の子は失わせたる者を救わんとて来れり」(マタイ18・22)
 「『わが好むは憐れみなり、犠牲に非ず』とは何の謂なるかを学べ。それわが来りしは義人を召ぶ為なり」(マタイ9・13)
 われら罪人に深い慰めを与えるこれらの聖言の実証。即ち多くの罪を犯しm堕落の淵深く沈んだ者が、突如改心して善良な信者となり、或いは更に徳を積み聖人になった例は、歴史の上にもしばしば見受けられる。これは主の聖寵の輝かしい勝利であるが、わけても本日記念される大聖人アウグスチヌスの如きはその有名な懺悔録によって世に知られている通り、主の優握な恩寵の下に罪悪から聖徳へ、闇から光への驚異的な転換飛躍を遂げた実例として、いかなる罪人にもその決心次第では滅亡の墓より蘇り、栄光の子となり得るという希望を与えずにはおかない。
 聖アウグスチヌスは西暦354年11月13日、北アフリカの小都市タガステにおいて呱々の声を挙げた。当時カトリックは既に勢を得てローマ帝国の国教と定められてはいたが、それでもまだ未信者も数多ない訳ではなかった。アウグスチヌスの父パトリシオも異教徒の一人であったが、すこぶる短気で、名誉、快楽、財産等現世的な事の外には何の興味も感じない方であった。それに引き替え、母モニカは極めて忍耐深く信仰の篤いキリスト教信者で、子供が父の悪しき感化を蒙らぬようにと、絶えず祈り身を以て範を示したが、善より悪に傾き易いのは人間の常で、アウグスチヌスも母の厳格な躾を厭い、父を見習って早くから倫落の道に踏み入った。しかしその天賦の智慧才能は衆人に勝れていたから、父は大いに喜び、招来は雄弁家として立身出世させようと思い、益々息子の世間的な野心を煽り立てた。で、アウグスチヌスは己の能力にことごとく慢心し、いよいよ放縦な生活を送り、その結果アデオダトと呼ぶ私生児まで儲けた位であった。
 こういう息子の乱倫振りを見ては流石の父もその原因となった我が身の非行を今更の如く悔やみ、また一つには貞節の妻モニカの涙の祈祷や犠牲に動かされてついに洗礼を受け、やがてこの世を去ったが、アウグスチヌスは父の最後の訓戒も母の嘆きもよそにして、ひたすら地上の名誉快楽を追い求め、なおそれまでの耽溺生活を改めぬばかりか、マ二教という二元論の異端を信じ迷妄の闇の奥深く分け入ったのである。
 かくて彼はカルタゴの大学に修辞学の教授たること9年、その間マ二教の研究を続けたが、両親の呵責と心中の不安とは如何ともすることが出来なかった。その上最も親しい友人の不慮の死に接してからは、生死の問題に深い疑惑を抱き、一層懊悩せずにはいられなかった。アウグスチヌスは胸中のもだえを紛らわすべく母を欺いてローマに赴いた。その不幸の天罰は直ちに下った。彼は得意の修辞学を講じ、多数の学生はその名誉を聞き伝えて来たり学んだが、月謝を支払う者は極めて少なかった。それでアウグスチヌスは窮迫して他に職を求める必要を感じ、今度はローマ市長シマコの斡旋でミラノ市の教授となった。それを聞いた母モニカは我が子の後を慕って遙々カルタゴからミラノへと上って来た。
 当時ミラノの司教はあの名高い聖アンブロジオであった。アウグスチヌスは彼が類稀な雄弁家であるという噂を聞き、しばしばその説教を聴聞に行った。始めその動機は単なる好奇心に過ぎなかったが、やがてそれは強烈な真理探究欲に変わった。そのうちにアンブロジオはモニカをも知り、その信仰の厚さに感嘆し、かかる母をもつ子の幸福を羨み、モニカが我が子の救霊を案じて悲しみ訴えた時など「御安心なさい、そういう涙の子は決して滅びるものではありません」と慰めたほどであったという。
 その言葉はいみじくも適中した。386年の秋であった。アフリカから彼と同郷のポンチアノという人が来訪し、リビアの荒野に住む隠修士達、わけても聖アントニオの聖なる克己修道の生活に就いて物語った。その時アウグスチヌスは友人のアリビオとその話を聞いていたが、聞き終わると感動のあまり立ち上がって「ああ私達は何という情けない人間だろう!無学な人々が全力を尽くして天国の幸福を得ようとしているのに、学問のある私達が肉欲の奴隷になっていてよいものだろうか?恥ずかしい事だ!恥ずかしい事だ」と叫んだ。それから情の激するままに庭に飛び出し、そこのイチジクの樹の下で祈っていると、子供の声で「取りて読め、取りて読め!」というのが聞こえた。で、再びもとの部屋に帰って、そこにあった聖書を取り上げ、ページを開いて見ると、真っ先に目に留まったのは「餐食と酔狂、密通と淫乱、争闘と嫉妬とに歩むべからず、却って主イエズス・キリストを着よ」(ローマ書13・13-14)という一節であった。その瞬間アウグスチヌスの心は大河のように注がれた天主の聖寵に圧倒され、ここに彼の改心はついに成就したのである。過去33年の間、我が子の上を案じ煩って昼も夜も泣き暮らした母モニカが、それと知った時のその喜びはどれほどであったろう!
 翌年のキリスト復活祭にアウグスチヌスは我が子アデオダトや友人達と共に聖司教アンブロジオの手から洗礼の秘蹟を授かった。それと同時にかつて経験したこともない言いしれぬ平安と歓喜が彼の心に溢れみなぎった。彼は前半生の償いに修辞学校教授の職を抛ち、母を伴い、アフリカへ帰ろうとした。が、その途中、子の改心を見たいという永年の望みが叶ったのに全く安心したモニカは。ローマに程近いオスチアで熱病にかかり、ついに尊いその犠牲的生涯の報酬を受くべく天国に旅立った。それに引き続きアフリカに帰着すると、今度はアデオダトが突然あの世に奪い去られた。先に懐かしの母を失い、今また愛する子供に先立たれたアウグスチヌスの悲哀は言うまでもなかった。しかし彼はそこに天主の聖なる思し召しを認め、償いの精神で一切を甘受したばかりか、孤独となった我が身を全く主に献げた。
 その後の彼の生活は聖そのものであった。それに感嘆した信者達は彼を聖職者とすることを切に望んだので、ヒッポの司教ワレリオもついに彼等の熱心に負け、アウグスチヌスに叙階の秘蹟を授け、後二年を経て副司教に任命した。
 396年ワレリオ司教が没するや、アウグスチヌスは聖職者信者達全員一致の推薦を受けてその後任となった。そしてその重責を果たすこと34年、前半生の非行を償う為あらん限りの力を尽くし、まず司祭になった友人達と共同生活を為し、清貧に甘んじ、祈祷を研究にいそしむ一方、教区民を慈父のような温情を以て教え導いた。その共同生活の為に作った規則は、後にアウグスチヌス修道会の戒律に採用された。彼の妹もやがて同志の処女等を集めてそういう共同生活を始めた。
 しかし聖アウグスチヌスが最も輝かしい業績を残したのは、何と言っても護教と霊的指導と神学哲学の方面に於いてであったろう。実際彼は思想や学問の深さにかけては聖会初代の偉大な教父中でも嶄然頭角を抜きん出ており、グノーシス、ドナト、マ二、ベラジオ等の異端と闘って聖教を擁護し、また無数の書簡を認めて上は一国の宰相から、下は素朴な農夫に至る、さまざまな階級の人に、或いは徳の道を教え示し、或いは彼等が悩みとする諸問題を、快刀乱麻を断つ如く解決した。彼が肉との深刻な争闘の後、天主の優握な恩寵によってついに霊の勝利を得た己の生涯を、敬虔な筆で描いた懺悔録が、古来いかに多くの罪人を絶望の淵より救い、改心の恵みに導いたかは周知の事実であるからここには贅しない。その他我が身の料を節約して寡婦や孤児を救い、異教の暗闇にさまよう人々に真理の光を与えるなど、彼が三面六臂の働きはただ舌をまいて感嘆する外はないのである。
 429年ローマ帝国に侵入、掠奪をほしいままにしたワンダル族は北アフリカにも来たり寇し、ヒッポの市を包囲した。時あたかもアウグスチヌスは病篤く臨終の床に在ったが。信徒等の身を案じつつ己が病苦を主に献げてその御保護を祈り、償いの詩編七つを誦えながら遂に430年8月28日、76歳を一期として帰天した。しかし聖アウグスチヌスという偉大な名は青史の上に爛々と、永遠不朽の光芒を放っているのである。
 
教訓
 
 「改心する一人の罪人の為には、改心を要せざる九十九人の義人の為よりも、天に於いて喜びあるべし」(ルカ15・7)
 この聖言の通り、罪の子アウグスチヌスが改心の刹那には、正しく天上に於いて諸天使諸聖人の間に歓呼の声が挙がったことであろう。それは悪魔の奴隷が罪の絆を断ちきり、一大飛躍を試みて天主の愛子の中に加わったからである。我等もなお若かりし日のアウグスチヌスの如く、罪の途を辿っているならば、心機一転、徳のみちに入ることに於いても彼に倣わねばならぬ。
 
 

聖モニカ     St. Monica Vid.

2025-08-27 00:00:05 | 聖人伝

聖モニカ     St. Monica Vid.                       記念日 8月 27日


 かって聖寡婦ヨハンナ・シャンタルが、身持ちの悪い息子の救霊を案じて、その為祈っていると「聖アウグスチヌスの懺悔録第八編を読め!」という声を聞いた。で、それに従って読んでみるとそこには、やはり放蕩の限りを尽くした青年アウグスチヌスの為に、その母モニカが幾年も涙の中に祈り続け、遂に願い叶って息子は改心したばかりか孜々として修徳に励み、類稀な大聖人になったことが記してあった。ヨハンナはそれに感奮、直ちに営々努力、モニカの跡に倣ったという。
 この敬虔な慈母の鑑、聖女モニカは332年アフリカの北部タガステに生まれた。その両親は信心深くかつ名門の出であったが、家は貧しかった。モニカの少女時代主としてその教育に当たったのは、一人の篤信の老婢で、やや厳格ではあったけれど、極めて忠実な女であった。小さいモニカは善良な性格を持ち、教え甲斐のある従順な子で、祈祷や教会詣でをこよなく愛した。また貧しい人々を憐れむ心が深く、わけても病める貧民には温かい同情を注ぎ、その為自分の食物を惜しげもなく恵み与える事も稀ではなかった。なお彼女は壮烈な殉教談を聞くのが大好きで、親戚の人々が知っている殉教者の話をするといつも夢中になってそれに聞きとれていたとの事である。
 かような性質から推せば、童貞として生涯を天主に献げる事こそ、モニカに適した召し出しであったと思われる。然し両親は彼女を結婚させることに決め、モニカは素直に父母の心に従った。そして嫁いだ先はふしぎにもパトリシオという異教人であったのである。
 彼は貧乏で、年齢がモニカの倍ほども違う上に、乱暴で、手のつけられぬ道楽者であった。最初の内はそれでも、若い妻を愛していたようであったが、やがて心変わりして冷たい態度を示すようになった。そればかりでもモニカにはつらいことであるのに、その母というのがまた厄介極まる性質で、事毎に意地悪く彼女に当たる。まだ若い婦人にとって実際総ては耐え難いことばかりであった。然し彼女は自分の善徳の祈りの力に依って最後には勝利を得て夫y姑を改心に導き得る事を確信していた。彼女はいつも従順で、親切丁寧で、決して他人を悪し様に言うようなことはなかった。かくてまず彼女の殊勝な態度に感心して、信仰に入ったのは姑であった。その内に夫パトリシオも彼女の日常に心打たれ、素行を改め、宗教の話にも次第に耳を傾けるようになり、遂に洗礼を受けて熱心な信者となるに至ったのである。モニカは三人の子を儲けた。そのうち年下の二人ナヴィジオという男の子とペルペツアという女の子とは、母親似で感心な子であったが、ただ長男のアウグスチヌスだけは長い間母の苦労の種になった不幸者であったのである。
 彼の悪に流れやすい性質は既に少年時代から現れた。彼はカルタゴの学校にいた時分に信仰を失い道ならぬ享楽に耽溺し、やがて間もなくマ二教に入った。
 かくと知った母母モニカの悲嘆は筆紙に尽くせぬほどであった。我が子の学業成績のよい事などは彼女にとって何の慰めにもならなかった。それは今のままでゆくならば、せがれの前途には霊的の滅亡あるのみだという事を知っていたからである。
 その内に夫パトリシオも死んで、モニカは一切の心配を自分一人の胸に包まねばならなくなった。彼女はアウグスチヌスの素行がいかに悪くとも決して彼を叱りはしなかった。却って優しい態度で、彼の心を引きつけようと努めた。が、それだけに彼女は陰では涙の乾く暇もなく、殆ど絶えず天主に祈った。彼女の息子の罪の償いに苦行を行い、又貧しい中からも及ぶ限り施しを怠らなかった。
 ある日のことである。せがれの上を思うと絶えられなくなったモニカは、タガステの司教を訪れてその苦悩を打ち明けた。司教は涙と共に語る彼女の話を逐一聞き取った後「ご安心なさい、そういう涙の子は決して滅びることがありません」と言った。彼女はそれを天から得た答えの如く思い、この上もない慰めを受けた。
 彼女は息子のゆく所へはどこへでもついて行った、カルタゴにも行った。イタリアのミラノにも行った。彼女は子を思う母の至情から片時もその傍を離れているに堪えなかったのである。当時ミラノ司教の職に在ったのは聖アンブロジオであった。アウグスチヌスはこの人の説教を度々聴聞に行った。というのは、アンブロジオは雄弁家として世に聞こえ高く、またアウグスチヌス自身、かって雄弁術を学んだことがあったからである。その内に聖なる母モニカの祈祷のしるしはようやく現れて、天主の聖寵が豊かにその子の上に注がれ始めたのであろう、アウグスチヌスは直接アンブロジオの許を訪れるようになった。心眼鋭い聖司教はすぐさまその青年の霊的状態を見て取り、物柔らかに、然し一々確証を挙げて聖教の真理なる所以を説いて聞かせた。アウグスチヌスは反対する事が出来なかった。かくて彼の心は大いに動かされたが、なお去就につき沈思すること暫し、ある日聖なるエジプトの隠遁者達の伝記を読むや、その苦行の生活にかつ驚きかつ感じ、「この人々に出来た事が。どうして私にも出来ぬ筈があろう!」と叫んだ。彼の心は今や全く定まり、直ちに彼は聖会の懐に帰ったのである。
 望みに望んでいたことが遂に実現されたのを見た、母モニカのその時の喜びはどれほどであったろう!彼女は最早この世に思い遺すことは更にないように感じ、茲に至らしめ給うた天主の聖寵の程を涙と共に感謝せずにいられなかったのである。
 息子の帰正後彼女はアフリカの生まれ故郷に帰ろうとしたが、途中オスチアで重患に罹り、急ぎ馳せつけたアウグスチヌスとその弟に看取られつつ、安らかに永生に入った。時は387年5月4日のことで、享年56歳であった。

教訓

 モニカの生涯は不断の祈祷の力のよい例証になる。彼女は熱心に祈り続けて遂に息子の帰正を見る事が出来た。かくて彼女はまた母たる総ての人々に対して、立派な鑑をも示した。「かかる涙の子は決して滅びることがない」という名言も我等の心に銘記しておくべきである。天主はモニカの如く我が子の為涙ながらに絶えず祈る母には、何人にもその願いを聴き入れ給うのである。




聖ゼフィリーノ教皇    

2025-08-26 00:00:05 | 聖人伝

聖ゼフィリーノ教皇                           記念日 8月 26日


 198年から217年まで教皇であったゼフィリーノは、度々殉教者の中に数えられているが、彼は殺されたのではない。
 ゼフィリーノを殉教者として扱う人々の意向は、当時のキリスト教の神学者たちの間に起きた大きな争いによって、彼が非常に悩まされ、実際に心臓を痛めたことによるのである。しかし、ゼフィリーノは、カリストという助祭(彼は後に教皇となった)の努力により厳しさと愛徳とを常に保って、自分の誤りを悟った人々を喜んで迎え入れた。また同時に、キリストに関する真理が信用のおけない教師達によってゆがめられることの重大さを意識していた。
 とはいえ、ゼフィリーノの寛大さを批判する人々もいた。学者のヒッポリトは、誤った教えを信じて離れていく立派な信者たちを十分に抑制しないと言って、ゼフィリーノを非難した。ヒッポリトの批判が正しかったかどうかは別として、ゼフィリーノは、必要だと自分が判断した時には厳しくすることができたことは確かであった。しかし、自分が悪かったことを認めて、立ち帰って来た者をいつでも快く迎え入れたのもゼフィリーノ教皇であった。