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死者の日   Commemoratio Omnium Fidelium Defunctorum

2024-11-02 13:54:09 | 聖人伝
死者の日   Commemoratio Omnium Fidelium Defunctorum      記念日 11月 2日


 煉獄の霊魂の記念が11月2日に行われるのは、それが前日の諸聖人の祝日の補足ともいうべきものであるからである。この両日には「我は諸聖人の通功を信ず」という使徒信経の言葉を思い出さずにはいられない。広い意味で聖人と言えば、天国の霊魂は勿論のこと、煉獄の霊魂も、又成聖の聖寵を有するすべての人々をも含む。これらは皆天主の愛子であって、従ってまた相互に兄弟姉妹である。ただその異なる所は名々の状態で、天国に在る者は永福を楽しみ、この世に在る者は誘惑と闘い、主の聖寵を保ち、功徳を積もうと努め、煉獄に在る者は、やがて天国に入れられる日を待ち侘びつつ。己を清める為暫く精錬の苦痛を嘗めているのである。
 煉獄の霊魂達も成聖の聖寵を有する天主の子に違いはない。しかしその臨終に際し、大罪の穢れこそなけれ。小罪の曇りがあったか。或いは赦された罪の償いをことごとくは果たしていなかったのである。しかるに聖書によっても明らかなように、天国へは全く清い、全く負債を返した者でなければ入れない。それで霊魂達は定められた償いをして己を聖めねばならぬ。
 所がこの世では信者各自苦行や善行をして有限の罰を贖い、死後直ちに天国に行けるようにする事が出来る。しかし煉獄の霊魂の償いはどうであろうか。
 煉獄の霊魂の最も主な、最も大きい苦痛は、すぐに天国に入れないという事である。地上の我等にはまだその如何に苦しいかを十分に想像する事が出来ない、というのは我等はなお物質である肉体を有しているからである。けれども死んで霊魂が肉体を離れると、それは創造主なる天主に向かってひたすらに憧れる。そしてその御許に行く事を妨げる一切の事に限りない苦痛を覚える。この苦痛は主に離れていなければならぬ期間の長いほど大きい。それが永遠ならば即ち地獄の苦しみに他ならぬが、煉獄に於いてはその期間に限りがある。この期間はつまりまだ果たされぬ罪の償いがどれだけあるかに依るもので、誰かがその霊魂の為に償いをしてやると、それだけ短縮される。煉獄の霊魂はもう自発的に償いの業をする事ができないが、この世の我等にはそれが出来る。それで色々な苦行や、善業や、祈祷や、殊にミサ聖祭を献げて彼等を助けるがよい。今日の記念日は即ち毎年こういう偉大な善業について反省を新たにする為に設けられたのである。
 聖会は「彼等を憐れみ給え」と熱烈な祈祷を以て煉獄の霊魂に代わり主の御慈悲を求める。キリスト教的博愛の精神からいっても自ら助ける力のない者に助けを与える事は、せねばならぬ義務である。それに煉獄の霊魂の為多大の尽力をした人は死んで煉獄に送られた場合に、また多くの助力を得る事が出来る。それは、この世の人の助けによって早く煉獄から天国に入り得た霊魂は、深くその恩に感じ天主の御許で種々その人の為執り成してくれるからである。
 煉獄には天主に対する憧れの苦痛の外にもまだ苦しみがある。それがどんなものであるかは主もお示しにはならなかった。しかしそれは多分煉獄で償いを果たすべき罪の種類によって異なるのであろう。
 煉獄の霊魂の苦しみについて考えるとき、我等は彼等が甘んじて忍耐しつつ苦しんでいる事を忘れてはならぬ。彼等は天主の正義よりどうしてもその必要である事を知っている。自分の受けている罰の当然である事も十分悟っている。それ故絶望の淵に沈む事がない。彼等はいつか間違いなく天国に入り得る身である事を承知しているから、苦しみの中にも自ら慰む所がある。それにこの世にいた時と違って、もう罪を犯して成聖の聖寵を失う心配がない。また彼等にとってはこの世の人々に思い出される事も慰安である。たといこの世に親戚朋友が一人もない霊魂でも、総ての死者を追憶する聖会の祈祷には漏れることがない。聖会は毎日、わけても本日の死者の記念日に彼等の為祈るのである。
 信者等はこの日墓参りをなし、逝かった肉身に対する愛を現す為に、その墓を美しく飾ってその冥福を祈る人も多い。

教訓

我等は知人は勿論、煉獄に在る総ての霊魂の為に、しばしば祈らねばならぬ。そして親戚朋友の何人かの為にしろ、或いは煉獄のあらゆる者の為にしろ、ミサ聖祭を献げて貰うことは特別よい事である。また折々は縁深い人の墓に詣でてその為に祈るがよい。墓参すれば自ずと己の子に就いても考えられ、敬虔な生活をするようになるものである。







諸聖人の大祝日   Festum Omnium Sanctorum

2024-11-01 06:25:56 | 聖人伝
諸聖人の大祝日   Festum Omnium Sanctorum         大祝日 11月 1日


 聖会は一年を通じて毎日ずれかの聖人を記念する。しかし本日は一切の聖人を総括して記念し祝賀するのである。今この祝日の起源を尋ねれば、キリスト御誕生前から既に、ローマにはあらゆる神々に献げられた壮麗な神殿があった。古代のローマ人達は多種多様の神々を崇め、自分達の征服した諸民族の神々までも尊敬するにやぶさかでなかった。但しその夥しい神々を一々祀るのは大変なので、彼等は一つの円形神殿を建ててこれに一切諸神を合祀したのである。ローマ人のいわゆるパンテオンとは即ちこの神殿で、今なお存し、ローマ市に遊ぶ者の目を楽しませている。
 ローマがキリストの恵みに浴するようになると、その神殿は聖堂に改められ、嘗て神々の像のあった所に諸聖人の聖像が安置されたばかりか、聖人、殉教者などの遺骨もカタコンブからそこに移されるに至った。そして教皇グレゴリオ4世は、この聖堂をすべての聖人に、我等がその名を知らぬ数多の聖人方にも、献げる事とし、且つ11月1日を期して特にこれらの諸聖人を記念すべしと定められたのである。
 一体聖人とは聖会が列聖式を行ってその名を中外に宣布した人々ばかりではない、天国に入る事の出来た人はことごとくそうである。その中には勿論徳行衆に勝れて世の注目を惹いた者も数多くあったろう。しかし大部分はその聖徳を他に知られず、ただ天主のみに認められて天国の永福を報いられた者である。勿論こういう人々にも夫々に記念し祝賀される値打ちがある。けれども遺憾ながらその名も知られていないし、よし知られていたとしても短い一年の日数でこれを尽くすことは到底出来ぬ。それで諸聖人の祝日なる本日を以て彼等を総括的に記念するのである。
 この日我等は聖人方の心に偉大な奇蹟を行い給うた天主を讃美し諸聖人を称讃し、その代祷を懇願する。そして彼等の模範に倣うようわが身を反省する。
 この最後の事即ち聖人に倣うは彼等に対する最もよき最も大切な尊敬である。諸聖人の中にはあらゆる階級、あらゆる職業の方が含まれている。帝王もあれば将卒もある。師弟もあれば資本家労働者もある。のみならず老若男女、実にさまざまで、如何なる年齢の人でもある。なお聖人は過去に存したばかりではない、現在も存し、将来にも存する。故に何人も自分の仰いで以て鑑とすべき人物を見出すに窮する事はない筈である。
 聖アウグスチヌスは己を励まして「聖人聖女も人なら我も人である。彼等が出来たことがどうして我にも出来ぬことがあろう!」と言ったが、キリスト信者たる者は誰でもこの意気がなければならぬ。諸聖人は我等と同様な召命を受け、我等と同じく働き、我等よりも大いなる艱難に遭い、我等の如き人間でありながら聖なる者となった。されば我等も聖なる者になり得ぬ筈がない。ただ彼等の如く自ら努める必要があるだけである。確かに聖となる事は難しいかも知れぬ、しかし出来ぬ事ではない。我等はその困難さを思わずに、天国に於ける報酬を考えねばならぬ。
 本日の祝いはまた天国の事をも思い出させる。聖殉教者達は在世の砌恐ろしい苦痛を受けたのであろう、が、今や幸福を受け楽しみ、永遠にそれを失う事がない、証聖者、聖なる夫妻、聖なる童貞及び寡婦いずれも多くの苦労はあったに相違ない。けれどもその代わり今は病気も苦しみも涙もなく、ただ幸福と歓喜と天主の御寵愛に満ち溢れて天にいるのである。それを思うと、今日の祝日に当たって諸聖人が我等に向かい、「勇ましく耐え忍び堅く信仰に留まるがよい。人生は短く、天国の歓びは永い」とおしえている如く感ぜずにはいられない。さらば我等はこの忠告に従おう、そうすれば彼等も常に我等の傍に在って一臂の助力を惜しまぬであろう。

教訓

 諸聖人の中から特に一人を選び、その聖徳に倣おうと努めるがよい。そうすれば彼も汝の保護の聖人として、生涯信仰を守り通す為の聖寵を、天主より求めて下さるに相違ない。













聖アルフォンソ・ロドリゲス証聖者  St. Alphonsus Rodriguez C

2024-10-31 16:50:22 | 聖人伝
聖アルフォンソ・ロドリゲス証聖者  St. Alphonsus Rodriguez C. 記念日 10月 31日


 旧約の義人ヨブは暫くの間に財産を失い、一朝にして7人の子に死なれるなど、不慮の災禍が打ち続いても、更に天主を怨む心なく「主与え給い、主取り給う、主の聖名は讃むべきかな!」と祈ったという。この感ずべき態度に倣い、不幸のどん底に於いても主を讃美した聖人は決して少なくないが、本日の主人公アルフォンソ・ロドリゲスもその一例とする事が出来よう。
 この人は1531年7月25日、スペインのセゴヴィアに呱々の声を挙げた。富裕な商人を父に持った彼は、春の夢にも似た美しい少年時代を過ごし、やがてその財産を相続して愛する妻との間に数人の子供を儲け、相も変わらぬ恵まれた生活を続けたが、幾干もなく天主の酷烈な試練の聖手は、人々の羨望の的であった彼の上に下った。
 まず妻に先立たれたのが不運の始めで、それからは可愛い我が子が次々に死んでゆく。商売の方も、する事なす事いすかの嘴と食い違って失敗ばかり打ち続く、流石の彼も茫然自失する外はなかった。
 勿論、悪魔が人を陥れるべく暗躍するのはかような時である、彼もその囁きに唆されて自殺を思ったことも幾度かあったか知れない。けれども彼はついにその誘惑を退け、敢然として叫んだ。
 「主よ、御身は私のすべてを奪い去り給う思し召しでございますか?それならば私の身も主にお献げ致しましょう!」
 かくてアルフォンソは早速ヴァレンチア市のイエズス会修道院を訪れ、院長に面会して入会の許可を得た。しかし年齢既に40に達し、ラテン語の素養もない彼は司祭になる事が出来ず、ただ一介の平修士たるに甘んぜねばならなかった。それでも前途の試練に一層信仰と謙遜との念を深めた彼は、易々としてこの院長の裁定に従ったのである。
 半年の後、アルフォンソはマロルカ島のパルマという町にある修道院に派遣され、それから殆ど40年というものを玄関番として過ごした。嘗て有数の豪商と人々に尊敬されていた彼は、今や修士司祭の出入り毎に玄関先に跪いてその掩祝をこい、掬躬如として訪問客を案内し、乞食風情にも愛想良く物を施し、時には恩を知らぬ彼等が無礼な言葉を吐いても更に意に介せず、寧ろ謙遜の為にそれを喜びとし、その侮辱を彼等の改心の犠牲として献げるのであった。実際それには並々ならぬ忍耐が必要であったに相違ない。
 いつか彼の聖徳の評判は天下に喧伝されるようになった。というのは、彼に接するほどの人は皆、雄弁な司祭の説教よりも、素朴な彼の態度に深い感動を呼び起こされたからである。のみならず時折彼が口にする短い言葉の端々には、驚くべき天主の叡智が輝いていた。それで人々は争って彼に教訓を求め、代祷を願いに来た。そして中には一国の元首を始め世俗の顕官、紳商もあれば、司教大司教の如き聖会の高位者もあった。
 ここに於いてパルマ修道院の院長も、神学の素養こそなけれ、聖霊の御照らしにすぐれた超自然的知識を持つアルフォンソに敬服し、熱心に勧めて著作の筆を取らせた。「修徳指南」及び自叙伝は即ちその時の産物である。この中前者は既に邦語にも訳されているが、それによっても彼の謙遜な心に隠された偉大な叡智の光を看守することが出来よう。
 さてアルフォンソは白髪の老人となってから胃腸を患い、その激しい疼痛をよく耐え忍んだが、ついに1617年10月31日、命数尽きて安らかに、眠るが如くこの世を去った。

教訓

 我等も聖アルフォンソ・ロドリゲスの如く、不幸に於いても主の御摂理に委ねる事を心がけよう。そうすればよしやその不幸が天主の御罰であっても、我等はそこから豊かな聖寵を引き出すことが出来るのである。


神のために忍んだ災難と繁栄との違いは、
金と鉛の違いよりも大きい。
聖アルフォンソ・ロドリゲス





聖マルケルス百人隊長  St. Marcellus the Centurion 

2024-10-30 00:00:05 | 聖人伝
聖マルケルス百人隊長  St. Marcellus the Centurion     記念日 10月 30日


 マクシミアヌス皇帝の誕生日の祝賀において、ローマの軍団によって行われた催し事の時に、そのような催し事を偶像礼拝とみなした百人隊長マルケルスは、自分の軍用ベルトを振り捨てた。「私はただ永遠の王、イエズス・キリストにのみ仕える」と彼は宣言した。タンジール副知事の前に連行されたマルケルスは、地上の指導者に対する忠誠を拒んだ自分の罪を弁解したが、死刑に処せられた。
 後に、公式の速記者、聖カッシアヌスは処刑に憤慨したために、その処置を報告することを拒み、その結果彼もまた処刑された。これはタンジールにカッシアヌスという名の殉教者がいたことをうかがわせるが、聖マルケルスの真正の記事に対する想像上の付加であるかもしれない。






エルサレムの聖ナルチッソ司教

2024-10-29 00:49:07 | 聖人伝
エルサレムの聖ナルチッソ司教                記念日 10月 29日


 ギリシャ人であったナルチッソがエルサレムの司教に任命されたのは老年になってからであった。しかし、彼は老齢にもかかわらず教区を厳しく管理したので、敵意を持っていた者から無実の罪で訴えられた。多くのキリスト者たちはこれを信じなかったが、ナルチッソ自身は隠遁して祈りと黙想のうちに過ごしたいとかねてから望んでいたので、これ幸いとエルサレムを去った。数年間誰もナルチッソに会う者はいなかった。ナルチッソの留守の間、代わりに教区を治めるために任命された人物が亡くなってしまったため、他の人物が司教に任命された。ちょうどその時ナルチッソが現れた。長い間彼はエルサレムを離れていたので、人々は彼がよみがえったのかと思った。彼は非常に高齢になっていたので、アレキサンデルという司教が彼を助けることになった。しかしナルチッソはなお任務を尽くしながら220年に亡くなった。
 ナルチッソの生涯は決して容易なものではなかったが、伝承によると、約122歳まで生きたということである。