カトリック情報 Catholics in Japan

スマホからアクセスの方は、画面やや下までスクロールし、「カテゴリ」からコンテンツを読んで下さい。目次として機能します。

4-16-1 朝賀の序列

2023-03-16 17:18:57 | 世界史
『六朝と隋唐帝国 世界の歴史4』社会思想社、1974年
16 新羅(しらぎ)と渤海(ぼっかい)
1 朝賀の序列

 天宝十二載(七五三)正月元日、長安の宮殿においては、おごそかな朝賀の儀式がおこなわれようとしていた。
 これには唐朝の百官はもとより、おりから長安の都にきている諸外国の使臣たちも参列する。
 日本からも、第十次の遣唐使がおもむいており、大使の藤原清河(きよかわ)、副使の大伴古麻呂らが、式につらなった。
 ところが式のはじまるにさきだって、ひと騒ぎがおこった。
 日本の大伴古麻呂がすすみ出て、序列がけしからぬ、と抗議したのであった。
 外国の使臣たちは、皇帝をまえにして、東西の二列にならぶ。
 このとき、東の列の第一席は、新羅であった。第二席は大食(サラセン)である。
 西の列の第一席は吐蕃(とばん=チベット)であり、そうして日本は、その下の第二席であった。
 こうした序列は、かならずしも国の勢力とは関係がない。
 むしろ唐朝との親密さの度合いにしたがって、さだめられるわけであった。
 しかし日本の序列は、まさしく第四番目におかれたのである。これが不満であった。
 さらに新羅より下位におかれたのが、がまんできなかった。古麻呂は申したてた。
 「むかしから今にいたるまで、新羅が日本に朝貢していることは、久しいものがあります。
 しかるに、いま新羅は東の列の上位にあり、かえってわれらはその下におかれている。
 いかなる次第か、われらは納得することができませぬ。」
 万座はざわめいた。皇帝の御前である。
 あくまで日本代表が抗議をつづけるならば、式をはじめることも不可能となるであろう。
 しかも古麻呂の顔には、断じて引かぬという決意がみなぎっている。
 朝官たちが、うろたえているなかを、ひとりの将軍がすすみ出た。
 そして新羅の席へあゆみよった。なだめるように語りかけた。
 ことを穏便(おんびん)にはこぶよう、席を入れかえることを、新羅の使者にうったえたのであった。
 とくに玄宗皇帝も、指示をあたえた。こうして日本代表は、その主張どおり、新羅の上に立って、使臣団の最上席を占めることに成功した。
 しかし使臣団の最上席につらなったとはいっても、唐の朝廷からみるならば、その臣下として遇せられたことに、かわりはない。
 やはり朝貢国のひとつとして、日本は最高の地位をみとめられたものに過ぎなかった。
 名や形はともかく、日本の遣唐使は、いざ唐の国土に足をふみいれれば、つねに朝貢の使節という待遇にあまんじていたのである。
 もし日本の遣唐使が、あくまでも対等の礼に固執したならば、とうてい入朝はゆるされなかったであろう。
 唐にむかっては、表面こそ対等という形をとろうとしているが、実質は朝貢の礼をとる。
 それが日本の外交の一面であった。しかし日本も、新羅に対しては、あくまで臣属の礼をとらせようとした。
 朝貢という形でなければ、国交をゆるさなかった。
 それゆえにこそ、天宝十二載のときのような悶着がおこったのである。その由来するところは、きわめて古い。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。