『六朝と隋唐帝国 世界の歴史4』社会思想社、1974年
16 新羅(しらぎ)と渤海(ぼっかい)
1 朝賀の序列
天宝十二載(七五三)正月元日、長安の宮殿においては、おごそかな朝賀の儀式がおこなわれようとしていた。
これには唐朝の百官はもとより、おりから長安の都にきている諸外国の使臣たちも参列する。
日本からも、第十次の遣唐使がおもむいており、大使の藤原清河(きよかわ)、副使の大伴古麻呂らが、式につらなった。
ところが式のはじまるにさきだって、ひと騒ぎがおこった。
日本の大伴古麻呂がすすみ出て、序列がけしからぬ、と抗議したのであった。
外国の使臣たちは、皇帝をまえにして、東西の二列にならぶ。
このとき、東の列の第一席は、新羅であった。第二席は大食(サラセン)である。
西の列の第一席は吐蕃(とばん=チベット)であり、そうして日本は、その下の第二席であった。
こうした序列は、かならずしも国の勢力とは関係がない。
むしろ唐朝との親密さの度合いにしたがって、さだめられるわけであった。
しかし日本の序列は、まさしく第四番目におかれたのである。これが不満であった。
さらに新羅より下位におかれたのが、がまんできなかった。古麻呂は申したてた。
「むかしから今にいたるまで、新羅が日本に朝貢していることは、久しいものがあります。
しかるに、いま新羅は東の列の上位にあり、かえってわれらはその下におかれている。
いかなる次第か、われらは納得することができませぬ。」
万座はざわめいた。皇帝の御前である。
あくまで日本代表が抗議をつづけるならば、式をはじめることも不可能となるであろう。
しかも古麻呂の顔には、断じて引かぬという決意がみなぎっている。
朝官たちが、うろたえているなかを、ひとりの将軍がすすみ出た。
そして新羅の席へあゆみよった。なだめるように語りかけた。
ことを穏便(おんびん)にはこぶよう、席を入れかえることを、新羅の使者にうったえたのであった。
とくに玄宗皇帝も、指示をあたえた。こうして日本代表は、その主張どおり、新羅の上に立って、使臣団の最上席を占めることに成功した。
しかし使臣団の最上席につらなったとはいっても、唐の朝廷からみるならば、その臣下として遇せられたことに、かわりはない。
やはり朝貢国のひとつとして、日本は最高の地位をみとめられたものに過ぎなかった。
名や形はともかく、日本の遣唐使は、いざ唐の国土に足をふみいれれば、つねに朝貢の使節という待遇にあまんじていたのである。
もし日本の遣唐使が、あくまでも対等の礼に固執したならば、とうてい入朝はゆるされなかったであろう。
唐にむかっては、表面こそ対等という形をとろうとしているが、実質は朝貢の礼をとる。
それが日本の外交の一面であった。しかし日本も、新羅に対しては、あくまで臣属の礼をとらせようとした。
朝貢という形でなければ、国交をゆるさなかった。
それゆえにこそ、天宝十二載のときのような悶着がおこったのである。その由来するところは、きわめて古い。
16 新羅(しらぎ)と渤海(ぼっかい)
1 朝賀の序列
天宝十二載(七五三)正月元日、長安の宮殿においては、おごそかな朝賀の儀式がおこなわれようとしていた。
これには唐朝の百官はもとより、おりから長安の都にきている諸外国の使臣たちも参列する。
日本からも、第十次の遣唐使がおもむいており、大使の藤原清河(きよかわ)、副使の大伴古麻呂らが、式につらなった。
ところが式のはじまるにさきだって、ひと騒ぎがおこった。
日本の大伴古麻呂がすすみ出て、序列がけしからぬ、と抗議したのであった。
外国の使臣たちは、皇帝をまえにして、東西の二列にならぶ。
このとき、東の列の第一席は、新羅であった。第二席は大食(サラセン)である。
西の列の第一席は吐蕃(とばん=チベット)であり、そうして日本は、その下の第二席であった。
こうした序列は、かならずしも国の勢力とは関係がない。
むしろ唐朝との親密さの度合いにしたがって、さだめられるわけであった。
しかし日本の序列は、まさしく第四番目におかれたのである。これが不満であった。
さらに新羅より下位におかれたのが、がまんできなかった。古麻呂は申したてた。
「むかしから今にいたるまで、新羅が日本に朝貢していることは、久しいものがあります。
しかるに、いま新羅は東の列の上位にあり、かえってわれらはその下におかれている。
いかなる次第か、われらは納得することができませぬ。」
万座はざわめいた。皇帝の御前である。
あくまで日本代表が抗議をつづけるならば、式をはじめることも不可能となるであろう。
しかも古麻呂の顔には、断じて引かぬという決意がみなぎっている。
朝官たちが、うろたえているなかを、ひとりの将軍がすすみ出た。
そして新羅の席へあゆみよった。なだめるように語りかけた。
ことを穏便(おんびん)にはこぶよう、席を入れかえることを、新羅の使者にうったえたのであった。
とくに玄宗皇帝も、指示をあたえた。こうして日本代表は、その主張どおり、新羅の上に立って、使臣団の最上席を占めることに成功した。
しかし使臣団の最上席につらなったとはいっても、唐の朝廷からみるならば、その臣下として遇せられたことに、かわりはない。
やはり朝貢国のひとつとして、日本は最高の地位をみとめられたものに過ぎなかった。
名や形はともかく、日本の遣唐使は、いざ唐の国土に足をふみいれれば、つねに朝貢の使節という待遇にあまんじていたのである。
もし日本の遣唐使が、あくまでも対等の礼に固執したならば、とうてい入朝はゆるされなかったであろう。
唐にむかっては、表面こそ対等という形をとろうとしているが、実質は朝貢の礼をとる。
それが日本の外交の一面であった。しかし日本も、新羅に対しては、あくまで臣属の礼をとらせようとした。
朝貢という形でなければ、国交をゆるさなかった。
それゆえにこそ、天宝十二載のときのような悶着がおこったのである。その由来するところは、きわめて古い。