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7-5-2 斜陽のイタリア半島――イタリア・ルネサンスの片影Ⅱ――

2023-09-19 02:46:33 | 世界史

『文芸復興の時代 世界の歴史7』社会思想社、1974年
5 斜陽のイタリア半島――イタリア・ルネサンスの片影Ⅱ―― 
2 イタリア戦争をめぐって

 当時ヨーロッパ第一の文明と富とを誇るイタリアに対して、ヨーロッパ諸国はそれぞれ野心を抱いている。
 しかもフィレンツェとベネチアの両共和国、ナポリ王国、ミラノ公国、ローマ教皇領などのイタリア諸勢力はたがいに政治上、経済上にあくことのない争いを展開し、果てしない分裂がつづく。
 ロレンツォが健在なころには、各国のメディチ銀行を通じて――その支配人は一種の大使でもあり、スパイでもあったから――彼は情報をつかみ、イギリス、フランス、ドイツなどのあいだに均衡(きんこう)をつくり出して、どこか一国がイタリアに進出するのを防ぐことにつとめた。
 同時に彼はイタリア諸国に対しても、にらみをきかせていた。そのロレンツォもいまはいない。
 ミラノ公国の支配者ルドビコ・スフォルツァは仲が悪いナポリ王を負かすために、フランス王シャルル八世の力をがりようとした。
 騎士道物語のなかに育ったシャルルは、ルネサンス・イタリアにあこがれるとともに、ナポリ王国を併合し、そこからギリシアに出て、コンスタンティノープル(イスタンブール)の異教徒トルコ人を追いはらい、さらに聖地エルサレム奪回の夢をもっていた。
 フランスのブルジョワにとっては、イタリアの富こそ最大の誘惑(ゆうわく)である。
 狡知(こうち)にたけたルドブイコにしてみれば、この二十四歳の青年王を誘うことは容易な業であった。

 こうしてシャルル八世は一四九四年夏、軍をイタリアに進めた。
 神聖ローマ(ドイツ)皇帝、ハプスブルク家のマクシミリアン一世(在位一四九三~一五一九)は、はじめはシャルルの外交工作もあってこれを見送ったが、利害上、うちすてておけなくなる。

 そしてマクシミリアンはその王子の結婚によって、スペイン王家と緊密な関係をむすんでいる。
 しかもナポリ王は、スペイン王家の分家である。
 ここにフランスに対して、やがてドイツとスペインの両君主は同盟して対抗した。
 この協力態勢はフランスとの関係において、十五世紀末から十六世紀前半、ヨーロッパの情勢上に重要な意味をもつ。
 そしてシャルル八世のイタリア侵入は十六世紀中ごろまでつづく、いわゆる「イタリア戦争」の始まりともみられる。
 シャルルの軍は北イタリアを通り、フィレンツェに迫ってきた。
 フィレンツェの一時的な契約による傭兵群にくらべて、イタリアにはいったシャルル八世の軍は、人数、訓練、統制という点て、はるかに優れている。
 当時の傭兵たちは敵味方ともできるだけ命を落とさないように、負傷をしないように、武器をそこなわないように、いわば八百長戦争をしていたのである。
 なすところを知らないピエロは、フランス王のもとにおもむいたが、和をこうのみで、フィレンツェにとってたいせつないくつかの要塞(ようさい)を譲りわたしてしまった。
 いまや市民たちはピエロに反抗して立ちあがる。
 彼はかつてメディチ家を支持した下層民たちに、金をばらまいて援助を求めたが、むなしかった。
 一四九四年十一月メディチ家は追放され、これにかわって、シャルル王がフィレンツェにはいる。
 金をちりばめた天蓋(てんがい)、純白の帽子、金の浮き織りの胴衣、青いマント、見る目にもあざやかな征服者の姿であった。
 そして王は、「フランス王、ばんざい!」の叫びのうちにアルノ川を渡り、花の聖母寺に達して、何千という燭台(しょくだい)に輝く祭壇の前にひざまずいた。
 しかしフィレンツェ市当局者との交渉のすえ、シャルルは金銭とひきかえにフィレンツェを去っていった。

 だれのおかげであろうか? 
 フィレンツェの安泰をはかって、シャルルを説きふせたのはだれであろうか?
 彼らはそれを、かねてからフランス軍の侵入を予想していたサボナローラだと信ずる。
 一四九四年末から、フィレンツェはこの僧の支配に服する。
 説教壇上の彼は叫ぶ。
 「神はなんじフィレンツェに、なんじを支配するひとりの王を与えようと欲したもう。
 その王こそ、キリストである。」
 市民たちは声をかぎりに唱和する。
 「われらの王、キリストばんざい!」

 サボナローラはフィレンツェの政治・財政上の改革にあたったのみならず、当時の腐敗した宗教界の粛正にも努力した。これはローマ教皇アレクサンデル六世(在位一四九二~一五〇三)を刺激し、サボナローラの活動に対して圧迫が加えられたが、彼はこれに屈せず、教皇を無視した。
 一方、サボナローラは市民生活にも、きびしい統制を加えた。
 華美をきそった服装も地味となり、居酒屋は夕刻になると店を閉じ、断食や精進の日が多くなったので、肉屋のなかには破産する者があいついだといわれる。
 市民たちの集会といえば、祈るためであり、屋外の行事といえば、宗教上の行列であり、歌といえば讃美歌であった。
 ぜいたく品の取り引きは禁ぜられ、いかがわしい絵や本は「悪魔の作品」として押えられた。
 また子どもたちが監視役をつとめ、婦人のはでな服装をとがめたり、賭博(とばく)師を追いはらったりした。
 「がきどもがやってくるぞ」という声で、賭博師たちはいっせいに逃げだすありさまであった。
 ほとんどが十四歳をこえないこれらの子どもたちは、棍棒のかわりに十字架を持ち、どこの家へでもはいりこみ、楽器、絵、香料箱、書籍などを没収してまわった。
 一四九七年の謝肉祭のとき、サボナローラは没収された品々――装飾品、装身具、楽器、裸婦像、裸体画、いかがわしいとされる本(そのなかには、ボッカチオやペトラルカの作品もあった)などを大広場に集め、信仰のさまたげとなる「虚飾(きょしょく)」の焼きはらいを行なった。
 ある商人は品物がつまれたとき、それらを買いたいといったため、すぐさまその肖像画が描かれ、悪魔の代表として焼かれることとなった。
 市民のなかには自分の所有品を火のなかに投げこむ人びともいたが、躍動感と生命感とにみちた人体を描いた画家ボッティチェリも、その作品をみずから焼いたといわれる。
 舞いあがる焔(ほのお)、鳴りわたる鐘やラッパの音、そのなかで僧たち、少年隊、熱狂した群衆が讃美歌を唱和した。
 しかし翌年、焔はサボナローラ自身の肉体を焼きつくすのである。
 フィレンツェ市民の、というよりも人間なるものの狂信性は、熱しやすく、さめやすい。
 サボナローラの過激な干渉は、ときがたつにつれて、がんらい悦楽を好む市民たちの反感をまねく。
 彼は説教をするだけで、メディチ家が与えたように現実に市民大衆にむくいるところはなかった。
 金持ちの市民たちはこうした禁欲的な市民生活では、なによりもまず商売にならない。
 市政改革も固まり、彼の雄弁で市民たちを啓蒙(けいもう)する必要もなくなった。
 彼が接近していたフランス王シャルル八世は、一時はナポリ王国にまで侵入したが、教皇を中心とするドイツ・スペイン勢力の連合にあい、故国に軍を返した。
 また教皇アレクサンデル六世がサボナローラの急進性を非難して、一四九七年五月破門したことは、彼をねたむ僧侶たちの反対を有利にする。
 こうして反サボナローラの陰謀は進み、彼を異端とする罪状がつくりあげられた。
 一四九八年五月、裁判によって有罪と認められたサボナローラは、市庁舎前の広場につくられた火刑台上で、首つりにされて火で焼かれた。


 群衆のうちのだれかが叫んだ。
 「予言者よ、いまだ、奇蹟を行なうのは!」
 一瞬、火勢は衰えるかのようであった。群衆はざわめく。
 「奇蹟だ!」
 しかし火はふたたび燃え上がり、予言者の肉体は焼け落ちた。灰は集められて、アルノ川へ投げすてられた。
 勇をこして広場に集まったサボナローラの信奉者は、わずか二、三人にすぎなかったといわれるが、処刑後、その場所にひざまずく婦人たちの姿も見うけられた。




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