『宋朝とモンゴル 世界の歴史6』社会思想社、1974年
9 草原の英雄
3 カンとなって
いくばくかの月日がすぎた。一家の暮らしも、しだいに立ちなおった。
テムジンは、父が死んで以来、わかれていたボルテをむかえようと、デイ・セチェンのもとにおもむいた。
デイはよろこんで、ボルテをめあわせ、引き出物として、黒い貂(てん)の裘(かわごろも)をおくってくれた。
いまやテムジンは、妻をめとった。なき父の縁故によって、数名の部下もできた。
この上は強力な後援がほしい。そうしたとき、かつてエスゲイが、ケレイトのトオリル・カン(汗)と、アンダの盟約をむすんでいたことを思いおこした。
アンダとは義兄弟のことである。
ケレイトの国は、はやくから西方の文明をとりいれ、トラ川とオルホン川のほとりに、ひろい牧地をもって、強大な勢力をほこっていた。
そのカンのもとへ、テムジンは弟たちをともなって出むく。
ボルテの家からおくられた貂の裘(かわごろも)を持っていった。
トオリルはよろこんで助力を約束した。ここにテムジンは有力な後楯(うしろだて)をえた。
ケレイトから帰ってしばらく、ある朝、空か白(しら)んで黄ばんで明けようとするとき、召使のばあさんが、けたたましい声をあげた。
「起きろ、いそいで起きろ。地がゆれている。どよみ声がきこえてくる。タイチウトだ。」
みんな、あわてて起きた。馬をひき出した。テムジンは、ひとつの馬にのった。
ホエルンも馬にのった。カサルも馬にのった。ほかの弟たちも馬にのった。
部下たちも馬にのった。おさない妹のテムルンは、母のホエルンがふところにだいた。ボルテには馬がなかった。
おしよせてきたのは、メルキトの国の軍勢であった。
むかし、ホエルンをエスゲイに奪われたというので、そのうらみをかえしに攻めてきたのであった。
テムジンたちは、いち早くブルガン山にのぼって、姿をかくし、難をまぬがれた。
しかし、妻のボルテは、車にのって逃げるところを捕えられた。
テムジンは、弟たちをともなって、ケレイトのトオリル・カンのもとに走った。
メルキトの襲撃をかたり、奪われた者たちを救っていただきたい、と訴えた。
トオリルは、ただちに出馬を約束した。
「黒き韶(てん)の裘(かわごろも)の返しとて、すべてのメルキトをうちやぶり、おまえのボルテを取りかえしてやろう。
われは、ここより二万人にて、右の手となって出馬する。
おまえは弟のジャムカに言ってつかわせ。
ジャムカも、二万人をひきいて、左の手となって出馬せよ。」
ジャムカも、モンゴルの由緒(ゆいしょ)ある家の出身である。
ジャダラン氏を称していた。
かつてテムジンが十一歳のとき、ともにアンダと言いかわした。
いま強力な族長となったジャムカは、ふるいアンダの誓いによって、テムジンのために出馬した。
モンゴルとケレイトと、四万をこえる大軍が、メルキトを襲った。
そして大いにメルキトを破った。
メルキトの家という家の、ささえを倒すまで突いて、ささえを折るまで突いて、その妻や子を尽きるまで、とりこにした。
すでに夜となっていた。
メルキトの人々は、セレンゲ川にしたがって、夜どおし走って逃げた。
それをテムジンの軍が追いかけた。
テムジンも走りながら、「ボルテ、ボルテ」と呼ばわった。走る車のなかに、ボルテはいた。
声をきいてボルテは、車からとびおりると、走ってテムジンの馬に寄りそった。
月が明るく照っていた。
月の下で、テムジンとボルテは、しっかりと抱きあった。
ボルテはふたたびテムジンのもとにかえった。
メルキトに対する戦勝によって、テムジンの声望はにわかにあがった。
多くの部衆が、それぞれ氏族の長にひきいられて、テムジンのもとに集まった。
しかしテムジンの勢力が大きくなるにつれて、ジャムカとの間はしだいに冷やかになってゆく。
共にむつびあうこと一年半にして、ついに両雄はわかれた。ジャムカにしたがっていた者のなかにも、テムジンのもとに投ずる者が、すくなくなかった。
いまやテムジンの部衆も、数万に達する。
有力な氏族の長たちは、たがいに図りあって、テムジンをカンに推戴(すいたい=なってもらう)した。
「テムジンをカンとしたならば、われらは、あまたの敵に先がけて突っ走り、顔よきおとめや妃(きさき)をば、オルド(宮殿たる帳房)の家に、連れてきて与えよう。
ひろ野の獣を狩るときは、腹を、腿(もも)を、ひとならびに寄せて与えよう。
合戦の日に、その命に違ったならば、われらの暮らしより、妻たちより離れれさせ、われらの黒い頭(かしら)をば、大地の土に捨てて去れ。
太平の日に、その協議を破ったならば、われら男子の暮らしより、また妻子より別れさせ、主なき地に捨てて去れ。」
このように誓いあって、モンゴルの国には久しぶりにカンが生まれ、統一のきざしがつくられたのであった。
ときに一一八九年のことと推定されている。
わが文治五年にあたり、鎌倉時代の初めであって、義経が平泉で死んだのも、この年のことである。
しかしテムジンに服したのは、モンゴルの一部にすぎない。
テムジンにとって宿敵たるタイチウトがあり、すでに対立の度をふかめているジャムカの勢力があった。
9 草原の英雄
3 カンとなって
いくばくかの月日がすぎた。一家の暮らしも、しだいに立ちなおった。
テムジンは、父が死んで以来、わかれていたボルテをむかえようと、デイ・セチェンのもとにおもむいた。
デイはよろこんで、ボルテをめあわせ、引き出物として、黒い貂(てん)の裘(かわごろも)をおくってくれた。
いまやテムジンは、妻をめとった。なき父の縁故によって、数名の部下もできた。
この上は強力な後援がほしい。そうしたとき、かつてエスゲイが、ケレイトのトオリル・カン(汗)と、アンダの盟約をむすんでいたことを思いおこした。
アンダとは義兄弟のことである。
ケレイトの国は、はやくから西方の文明をとりいれ、トラ川とオルホン川のほとりに、ひろい牧地をもって、強大な勢力をほこっていた。
そのカンのもとへ、テムジンは弟たちをともなって出むく。
ボルテの家からおくられた貂の裘(かわごろも)を持っていった。
トオリルはよろこんで助力を約束した。ここにテムジンは有力な後楯(うしろだて)をえた。
ケレイトから帰ってしばらく、ある朝、空か白(しら)んで黄ばんで明けようとするとき、召使のばあさんが、けたたましい声をあげた。
「起きろ、いそいで起きろ。地がゆれている。どよみ声がきこえてくる。タイチウトだ。」
みんな、あわてて起きた。馬をひき出した。テムジンは、ひとつの馬にのった。
ホエルンも馬にのった。カサルも馬にのった。ほかの弟たちも馬にのった。
部下たちも馬にのった。おさない妹のテムルンは、母のホエルンがふところにだいた。ボルテには馬がなかった。
おしよせてきたのは、メルキトの国の軍勢であった。
むかし、ホエルンをエスゲイに奪われたというので、そのうらみをかえしに攻めてきたのであった。
テムジンたちは、いち早くブルガン山にのぼって、姿をかくし、難をまぬがれた。
しかし、妻のボルテは、車にのって逃げるところを捕えられた。
テムジンは、弟たちをともなって、ケレイトのトオリル・カンのもとに走った。
メルキトの襲撃をかたり、奪われた者たちを救っていただきたい、と訴えた。
トオリルは、ただちに出馬を約束した。
「黒き韶(てん)の裘(かわごろも)の返しとて、すべてのメルキトをうちやぶり、おまえのボルテを取りかえしてやろう。
われは、ここより二万人にて、右の手となって出馬する。
おまえは弟のジャムカに言ってつかわせ。
ジャムカも、二万人をひきいて、左の手となって出馬せよ。」
ジャムカも、モンゴルの由緒(ゆいしょ)ある家の出身である。
ジャダラン氏を称していた。
かつてテムジンが十一歳のとき、ともにアンダと言いかわした。
いま強力な族長となったジャムカは、ふるいアンダの誓いによって、テムジンのために出馬した。
モンゴルとケレイトと、四万をこえる大軍が、メルキトを襲った。
そして大いにメルキトを破った。
メルキトの家という家の、ささえを倒すまで突いて、ささえを折るまで突いて、その妻や子を尽きるまで、とりこにした。
すでに夜となっていた。
メルキトの人々は、セレンゲ川にしたがって、夜どおし走って逃げた。
それをテムジンの軍が追いかけた。
テムジンも走りながら、「ボルテ、ボルテ」と呼ばわった。走る車のなかに、ボルテはいた。
声をきいてボルテは、車からとびおりると、走ってテムジンの馬に寄りそった。
月が明るく照っていた。
月の下で、テムジンとボルテは、しっかりと抱きあった。
ボルテはふたたびテムジンのもとにかえった。
メルキトに対する戦勝によって、テムジンの声望はにわかにあがった。
多くの部衆が、それぞれ氏族の長にひきいられて、テムジンのもとに集まった。
しかしテムジンの勢力が大きくなるにつれて、ジャムカとの間はしだいに冷やかになってゆく。
共にむつびあうこと一年半にして、ついに両雄はわかれた。ジャムカにしたがっていた者のなかにも、テムジンのもとに投ずる者が、すくなくなかった。
いまやテムジンの部衆も、数万に達する。
有力な氏族の長たちは、たがいに図りあって、テムジンをカンに推戴(すいたい=なってもらう)した。
「テムジンをカンとしたならば、われらは、あまたの敵に先がけて突っ走り、顔よきおとめや妃(きさき)をば、オルド(宮殿たる帳房)の家に、連れてきて与えよう。
ひろ野の獣を狩るときは、腹を、腿(もも)を、ひとならびに寄せて与えよう。
合戦の日に、その命に違ったならば、われらの暮らしより、妻たちより離れれさせ、われらの黒い頭(かしら)をば、大地の土に捨てて去れ。
太平の日に、その協議を破ったならば、われら男子の暮らしより、また妻子より別れさせ、主なき地に捨てて去れ。」
このように誓いあって、モンゴルの国には久しぶりにカンが生まれ、統一のきざしがつくられたのであった。
ときに一一八九年のことと推定されている。
わが文治五年にあたり、鎌倉時代の初めであって、義経が平泉で死んだのも、この年のことである。
しかしテムジンに服したのは、モンゴルの一部にすぎない。
テムジンにとって宿敵たるタイチウトがあり、すでに対立の度をふかめているジャムカの勢力があった。