『文明のあけぼの 世界の歴史1』社会思想社、1974年
11 巨人の積み石遊び――巨石記念物――
3 どのようにして造られたか
ストーンヘンジのつくられた新石器時代末期には、もちろん今日の土木工事に使われている起重機とか、パワーシャベル、ダンプカーなどのような機械類はなかった。機械はもちろん、道具らしい道具もないような時代に、巨大な石を積んだストーンヘンジは、どのようにして造られたのだろうか。
ストーンヘンジの建造法について書き残されたものは、もちろんないが、伝説的な話さえなく、ストーンヘンジの建造法はぜんぜんわからないというのが正直なところである。
しかし学者たちは、いちおう建造法を想像している。そしてその一部は実験もされている。
まず、建造に使用された巨石類は、どこで掘りだされ、どのようにして持ってこられたのだろうか。
ストーンヘンジに使われた石は、前述したように青石(輝緑岩)と、砂岩の二種類だった。
青石は五〇〇キロ以上も離れたサウス・ウェルズのミルフォード港から海路を、ついでエヴォン川やフロム川などの水路を通り、一部は陸上を通って運ばれた。
一九五四年にBBC放送のテレピ局が、青石を運ぶ実験をした。
船は発掘された先史時代のカヌーを模造し、三隻を横につないで、石を積んだ。
川をさかのぼるさいには四人の学生がこの舟を引いた。
しかしひとりで引くことも不可能ではなかった。筏もつくって実験されたが、意外にも筏のほうが水深が深く、六〇センチくらい沈むが、このカヌーだと、その水深は半分以下の二二、三センチだった。
ストーンヘンジ推定運搬路
したがって浅瀬の多い川ではカヌーが、海上では筏が、使われたものと思われる。
砂岩のほうは、マルボローの丘から切りだされた。ここからストーンヘンジまでは三〇キロ以上あったが、利用できる水路はないので、陸路を運ばれた。それにはおそらくソリとコロが使われたろう。
砂岩は全部で八十本使われ、もっとも重いものは五〇トンもあった。ソリは皮製の綱で引っぱられた。
一九五四年の実験のさいには一トン半の青石の模型をコンクリートで造って、ソリに乗せて引っぱった。
このソリを四度の斜面を引き上げるためには、三十二人の学生が必要だったが、コロを下に並べると、十四人で引き上げられた。
また長いコロを使えば十人で足りた。しかし重い砂岩を引くためにはソリ引きに百人、コロを運び、並べるために百人の人力が必要だったろうし、九度の斜面を押し上げるためにはさらに三百五十人の加勢が必要だったろうという。
またマルボローからストーンヘンジまで石を引いてきてから、ソリをマルボローに返すまでには少なくとも二週間かかったろうと計算されている。
したがって千人の人夫が働いたとして、八十本を立てるためには数年を要したことになる。
青石や砂岩はもっと近いところから運ばれたのではないかと考えて、他の地点をさがした学者もある。
しかし今のところでは、さきに述べたところ以外には考えられないということになっている。
つぎに、運ばれた石はどのようにして立てられたろうか。
まず柱穴が掘られねばならないが、ストーンヘンジの立てられた土地は石灰質の堅い土で、掘るのにはそうとうな困難があった。穴ほり用に使われたのは赤鹿の技角だった。これは濠の底からたくさん破片が見つかっている。
掘り上げた土塊は、やはり赤鹿の角を熊手のように使って集め、牛の肩胛骨でつくったシャベル様のもので籠に入れて運んだ。
籠はたぶん頭上にのせて運んだろう。
穴が深くなると、木の幹にきざみ目をつけたものが、梯子(はしご)がわりに使われた。
赤鹿の骨や木の幹の梯子(はしご)などの模造品を作って実験がおこなわれ、約一立方メートルの穴を掘るのに、男ふたりで一日かかることがわかった。
さらに掘った土塊を運ぶのに、穴の深さによってちがうが、ふたりから十人までの人手が必要だった。
柱穴の壁は一方は垂直に、他方は石柱をすべらせるために斜めに掘られた。
そして垂直な面に皮をむいてすべりをよくした木の杭が並べて打たれる。
これは壁がくずれないためであり、また石柱が穴にはいるさいに、すべりよくするためだった。
石柱をコロにのせて、柱の基部がこの穴の上にくるまで押しだす。
つぎに柱の頭部をコロと棒を使って押し上げ、丸太などをかって立ててゆき、柱を穴に落とす。
綱をかけてこれを引き、直立させ、穴の斜面は石塊、土などで埋めるという順序だったらしい。
ストーンヘンジのいちばん外側の石柱一本を立てるのに約二百人の人力が必要だったろうと計算されている。
これらのコロや棒を切るためには、燧(ひうち)石製の石斧が使われ、その石斧の刃はときどき研(と)いだらしく、刃を鋭利にするために使われた石が、幾つかストーンヘンジの近くから発掘されている。
11 巨人の積み石遊び――巨石記念物――
3 どのようにして造られたか
ストーンヘンジのつくられた新石器時代末期には、もちろん今日の土木工事に使われている起重機とか、パワーシャベル、ダンプカーなどのような機械類はなかった。機械はもちろん、道具らしい道具もないような時代に、巨大な石を積んだストーンヘンジは、どのようにして造られたのだろうか。
ストーンヘンジの建造法について書き残されたものは、もちろんないが、伝説的な話さえなく、ストーンヘンジの建造法はぜんぜんわからないというのが正直なところである。
しかし学者たちは、いちおう建造法を想像している。そしてその一部は実験もされている。
まず、建造に使用された巨石類は、どこで掘りだされ、どのようにして持ってこられたのだろうか。
ストーンヘンジに使われた石は、前述したように青石(輝緑岩)と、砂岩の二種類だった。
青石は五〇〇キロ以上も離れたサウス・ウェルズのミルフォード港から海路を、ついでエヴォン川やフロム川などの水路を通り、一部は陸上を通って運ばれた。
一九五四年にBBC放送のテレピ局が、青石を運ぶ実験をした。
船は発掘された先史時代のカヌーを模造し、三隻を横につないで、石を積んだ。
川をさかのぼるさいには四人の学生がこの舟を引いた。
しかしひとりで引くことも不可能ではなかった。筏もつくって実験されたが、意外にも筏のほうが水深が深く、六〇センチくらい沈むが、このカヌーだと、その水深は半分以下の二二、三センチだった。
ストーンヘンジ推定運搬路
したがって浅瀬の多い川ではカヌーが、海上では筏が、使われたものと思われる。
砂岩のほうは、マルボローの丘から切りだされた。ここからストーンヘンジまでは三〇キロ以上あったが、利用できる水路はないので、陸路を運ばれた。それにはおそらくソリとコロが使われたろう。
砂岩は全部で八十本使われ、もっとも重いものは五〇トンもあった。ソリは皮製の綱で引っぱられた。
一九五四年の実験のさいには一トン半の青石の模型をコンクリートで造って、ソリに乗せて引っぱった。
このソリを四度の斜面を引き上げるためには、三十二人の学生が必要だったが、コロを下に並べると、十四人で引き上げられた。
また長いコロを使えば十人で足りた。しかし重い砂岩を引くためにはソリ引きに百人、コロを運び、並べるために百人の人力が必要だったろうし、九度の斜面を押し上げるためにはさらに三百五十人の加勢が必要だったろうという。
またマルボローからストーンヘンジまで石を引いてきてから、ソリをマルボローに返すまでには少なくとも二週間かかったろうと計算されている。
したがって千人の人夫が働いたとして、八十本を立てるためには数年を要したことになる。
青石や砂岩はもっと近いところから運ばれたのではないかと考えて、他の地点をさがした学者もある。
しかし今のところでは、さきに述べたところ以外には考えられないということになっている。
つぎに、運ばれた石はどのようにして立てられたろうか。
まず柱穴が掘られねばならないが、ストーンヘンジの立てられた土地は石灰質の堅い土で、掘るのにはそうとうな困難があった。穴ほり用に使われたのは赤鹿の技角だった。これは濠の底からたくさん破片が見つかっている。
掘り上げた土塊は、やはり赤鹿の角を熊手のように使って集め、牛の肩胛骨でつくったシャベル様のもので籠に入れて運んだ。
籠はたぶん頭上にのせて運んだろう。
穴が深くなると、木の幹にきざみ目をつけたものが、梯子(はしご)がわりに使われた。
赤鹿の骨や木の幹の梯子(はしご)などの模造品を作って実験がおこなわれ、約一立方メートルの穴を掘るのに、男ふたりで一日かかることがわかった。
さらに掘った土塊を運ぶのに、穴の深さによってちがうが、ふたりから十人までの人手が必要だった。
柱穴の壁は一方は垂直に、他方は石柱をすべらせるために斜めに掘られた。
そして垂直な面に皮をむいてすべりをよくした木の杭が並べて打たれる。
これは壁がくずれないためであり、また石柱が穴にはいるさいに、すべりよくするためだった。
石柱をコロにのせて、柱の基部がこの穴の上にくるまで押しだす。
つぎに柱の頭部をコロと棒を使って押し上げ、丸太などをかって立ててゆき、柱を穴に落とす。
綱をかけてこれを引き、直立させ、穴の斜面は石塊、土などで埋めるという順序だったらしい。
ストーンヘンジのいちばん外側の石柱一本を立てるのに約二百人の人力が必要だったろうと計算されている。
これらのコロや棒を切るためには、燧(ひうち)石製の石斧が使われ、その石斧の刃はときどき研(と)いだらしく、刃を鋭利にするために使われた石が、幾つかストーンヘンジの近くから発掘されている。