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3-11-2 項羽の登場

2018-09-27 22:40:50 | 世界史
『東洋の古典文明 世界の歴史3』社会思想社、1974年

11 項羽と劉邦

2 項羽の登場

 陳勝が殺されたころ、秦へ反旗をひるがえした者のなかで、もっとも大きな勢力をにぎっていたのは、項梁(こうりょう)である。十万の大軍をひきいていた。
 項氏は代々、楚の将軍たる家柄であった。
 梁の父の項燕も、名将とうたわれたが、秦の軍と戦って敗死した。
 秦の世になって、項梁は、甥の項羽をともなって、呉(ご=蘇州)に住んだ。
 そのころの呉は、会稽(かいけい)郡の郡治(郡役所のある所)である。
 ここで陳勝の挙兵をきくと、項梁もまた兵をあげようと決意する。
 項梁は、会稽の郡守(長官)のもとへゆき、項羽をよびいれた。
 項羽は身のたけが八尺あまり(二メートルほど)、大力無双の男であった。このとき二十四歳。
 項梁が「やれ!!」というと、たちどころに剣をぬき、郡守の首をおとした。
 役所は大さわぎとなったが、項羽が数十人をうち殺したので、みなおそれてひれふし、はむかう者がなくなった。
 おさないころ、項羽は文字をまなんだが、進歩しない。やめて剣術をならったが、また上達しなかった。
 項梁がおこると、羽はいった。
 「文字は、もって名姓(めいせい)を記するのみ。剣は一人(いちにん)に敵するのみ。学ぶに足らず、万人の敵を学ばん」。
 そこで兵法をおしえると、大いによろこんで学び、あらましに通じた。
 しかし、ある程度のところまでゆくと、あきてしまって、それ以上は学ぼうとしなかった。
 呉におもむいてからのこと、始皇帝が会楷(かいけい)に巡幸してきた。
 項梁も、項羽も、ともに行列をみた。そのとき、項羽はいった、「彼、とってかわるべきなり」。
 項梁は、あわてて羽の口をおさえ、「みだりなことを言うな、一族みなごろしだぞ」と、たしなめた。
 しかし、このことがあってから、梁は項羽のことを見なおすようになったという。
 さて項梁は、八千の精兵をひきいて北上し、山東の薜(せつ=曲阜)にいたった。
 ここで陳勝の死をきいたのである。よって各地に割拠している諸将をまねき、これからのちの方策をはかった。
 沛(はい)で兵をあげた劉邦も、このときにきた。また范増(はんぞう)という老人がいた。
 年すでに七十で、しかも奇策を立てることが好きであったが、これも会合にやってきた。
 「かつて秦が六国(りっこく)をほろぼしたとき、いちばん抵抗しなかったのは、楚の国であった。
 しかるに秦は、楚の懐(かい)王を捕えたまま返さない。楚の人は、いまにいたるまで懐王をあわれんでいる。
 だから、楚は三戸となっても、泰をほろぼすものは、かならず楚なり、という人さえあるほどだ。
 いま君が兵をあげ、楚の旧将たちも、あらそって君にしたがっているのは、君の家が楚の将軍であって、かならずや楚王の子孫を立てると思っているためである」。
 范増の言を、項梁はもっともと考えた。さっそく楚の懐王の孫をさがしだしてきた。
 民間で人にやとわれ、羊を飼っていた者である。これを立てて、祖父とおなじく懷王と称さしめた。
 やがて項梁は大兵をひきいて西にすすみ、さかんに秦軍を破る。
 項羽も、劉邦も、おのおの兵をひきいて各地に転戦し、勝報つづいて至った。
 項梁はいよいよ秦軍を軽んじ、おごりの気配をしめした。
 部将の宋義は、もと楚の大臣であり、秦軍が増強をかさねていることを指摘して、項梁の自重をうながした。
 しかし項梁は聞かなかった。はたして秦は、全軍をくりだして項梁を攻めた。
 不意をうたれて楚軍は大敗し、項梁も戦死してしまった。この敗戦によって、楚軍はいずれも東へしりぞいた。
 かくて宋義が、懐王から上将軍に任ぜられ、全軍をひきいることになった。これが項羽には不満であった。
 しかも宋義は、秦軍のうごきがさかんになっても、あえて軍を進めようとしない。
いらだった項羽が、前進をうながしても、いっこう取りあわない。
 ついに項羽は、陣中において宋義を斬った。諸将はみな項羽をおそれ、さからう者はいなかった。
 その知らせをうけた懐王は、あらためて項羽を上将軍に任命した。
 いまや項羽は、全軍をひきいて、まっしぐらにすすむ。ときに二世皇帝の三年(前二〇七)初めであった。


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