親愛なる管区長さま。心からお喜び下さい。私たちは直ぐ近くに昔のキリシタンの子孫をたくさん持っているのです。彼らは聖教を随分良く記憶しているらしく思われます。(中略)昨日12時半頃、男女小児打ち混じった12人から15人ほどの一団が天主堂の門前に立っていました。ただの好奇心で来た者とはどうやら態度が違っている様子でした。天主堂の門は閉まっていましたから、私は急いで門を開き、聖所の方に進んで行きますと、参観人も後からついて参りました。
私は1か月前(献堂式の日)、父なる神が私たちにお与えくださいましたみ主、私たちが聖体の形色の下に、愛の牢獄たる聖櫃内に奉安しているみ主の祝福を彼らの上に心から祈りました。
私は救い主のみ前に跪いて礼拝し、心の底まで彼らを感動させる言葉を私の唇に与えて、私を取り囲んでいるこの人々の中から主を礼拝するものを得さしめ給えと、祈りました。ほんの一瞬祈ったと思う頃、年頃は40歳か50歳ほどの婦人が一人私の側に近づき、胸に手を当てて申しました。 「ここに居ります私たちは、皆貴師(あなた)様と同じ心でございます」
「本当ですか。何処のお方です。あなた方は」
「私たちは皆、浦上の者でございます。浦上では殆ど皆私たちと同じ心を持っております」こう答えてから、その同じ人がすぐ私に
「サンタ・マリアのご像はどこ?」と尋ねました。
サンタ・マリア!この目出度いみ名を耳にして、もう私は、少しも疑いません。今私の目の前に立っている人たちは、日本の昔のキリシタンの子孫に違いない。私はこの慰めと喜びをデウス(神)に感謝しました。そして愛する人々に取り囲まれて、サンタ・マリアの祭壇―私たちのため、あなたがフランスから持って来て下さった、あの聖像を安置してある祭壇―の前に、彼らを案内しました。
彼らは皆、私に倣って跪きました。祈りを唱えようとする風でしたが、しかし喜びに耐え切れず、聖母のご像を仰ぎ見るや口を揃え、
「本当にサンタ・マリア様だよ、ごらんよ、御腕に御子ゼスス様を抱いておいでだよ」
と言うのでした。
やがてその中の一人が申しました。
「私たちは、霜月(旧暦1月)の25日に、み主ゼスス様のご誕生をお祝いいたします。み主様は、この日の夜中に、厩の中に生まれ、難儀苦労をしてご成長され、御年33歳の時、私たちの魂の救いのために十字架に架かってお果てになりました。只今私たちは悲しみの節にいます。貴師様も悲しみ節を守りなさいますか」と尋ねますから、私も、
「そうです。私たちも守ります今日は悲しみ節の17日目です」と答えました。私はこの悲しみ節という言葉をもって四旬節を言いたいのだと悟ったのであります。
この善良な参観者たちが、聖母マリアのご像を眺めて感動したり、私に質問を発している間に、他の日本人が天主堂に入って参りました。私の周囲にいた彼らは、たちまちパット八方に散り散りとなりましたが、直ぐまた帰って来て、 「今の人たちも村の者で私たちと同じ心でございます。御心配いりません」
と申しました。
私は天主堂を参観する色々の人々が往ったり来たりするのに妨げられて、この参観人たちと思う存分話が出来ませんでしたので、また出直して会いに来るようにと、
浦上のキリシタン
―今日から私は彼らをこんなに
呼びたいのです―
取り決めました。
彼らが何を保存しているか少しずつ確かめましょう。彼らはクルス(十字架)を崇め、サンタ・マリアを大切にし、オラショ(祈り)を唱えています。しかしそれがどんな祈りであるか、私にはまだ分かりません。その他の詳しいことは近日中にお知らせ申し上げます。
1865年3月18日
長崎にて
日本の宣教師 ベルナール・プチジャン

私は1か月前(献堂式の日)、父なる神が私たちにお与えくださいましたみ主、私たちが聖体の形色の下に、愛の牢獄たる聖櫃内に奉安しているみ主の祝福を彼らの上に心から祈りました。
私は救い主のみ前に跪いて礼拝し、心の底まで彼らを感動させる言葉を私の唇に与えて、私を取り囲んでいるこの人々の中から主を礼拝するものを得さしめ給えと、祈りました。ほんの一瞬祈ったと思う頃、年頃は40歳か50歳ほどの婦人が一人私の側に近づき、胸に手を当てて申しました。 「ここに居ります私たちは、皆貴師(あなた)様と同じ心でございます」
「本当ですか。何処のお方です。あなた方は」
「私たちは皆、浦上の者でございます。浦上では殆ど皆私たちと同じ心を持っております」こう答えてから、その同じ人がすぐ私に
「サンタ・マリアのご像はどこ?」と尋ねました。
サンタ・マリア!この目出度いみ名を耳にして、もう私は、少しも疑いません。今私の目の前に立っている人たちは、日本の昔のキリシタンの子孫に違いない。私はこの慰めと喜びをデウス(神)に感謝しました。そして愛する人々に取り囲まれて、サンタ・マリアの祭壇―私たちのため、あなたがフランスから持って来て下さった、あの聖像を安置してある祭壇―の前に、彼らを案内しました。
彼らは皆、私に倣って跪きました。祈りを唱えようとする風でしたが、しかし喜びに耐え切れず、聖母のご像を仰ぎ見るや口を揃え、
「本当にサンタ・マリア様だよ、ごらんよ、御腕に御子ゼスス様を抱いておいでだよ」
と言うのでした。
やがてその中の一人が申しました。
「私たちは、霜月(旧暦1月)の25日に、み主ゼスス様のご誕生をお祝いいたします。み主様は、この日の夜中に、厩の中に生まれ、難儀苦労をしてご成長され、御年33歳の時、私たちの魂の救いのために十字架に架かってお果てになりました。只今私たちは悲しみの節にいます。貴師様も悲しみ節を守りなさいますか」と尋ねますから、私も、
「そうです。私たちも守ります今日は悲しみ節の17日目です」と答えました。私はこの悲しみ節という言葉をもって四旬節を言いたいのだと悟ったのであります。
この善良な参観者たちが、聖母マリアのご像を眺めて感動したり、私に質問を発している間に、他の日本人が天主堂に入って参りました。私の周囲にいた彼らは、たちまちパット八方に散り散りとなりましたが、直ぐまた帰って来て、 「今の人たちも村の者で私たちと同じ心でございます。御心配いりません」
と申しました。
私は天主堂を参観する色々の人々が往ったり来たりするのに妨げられて、この参観人たちと思う存分話が出来ませんでしたので、また出直して会いに来るようにと、
浦上のキリシタン
―今日から私は彼らをこんなに
呼びたいのです―
取り決めました。
彼らが何を保存しているか少しずつ確かめましょう。彼らはクルス(十字架)を崇め、サンタ・マリアを大切にし、オラショ(祈り)を唱えています。しかしそれがどんな祈りであるか、私にはまだ分かりません。その他の詳しいことは近日中にお知らせ申し上げます。
1865年3月18日
長崎にて
日本の宣教師 ベルナール・プチジャン
