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5-12-3 ジャンヌの謎

2023-05-26 16:18:32 | 世界史
『中世ヨーロッパ 世界の歴史5』社会思想社、1974年
12 聖女ジャンヌ・ダルク
3 ジャンヌの謎

 ジャンヌ聖女観とならんで古来かたく信じられてきた伝説に、シャルル七世阿呆(あほう)説というのがある。
 この両者は、たがいに補いあうものだといってもよい。
 阿呆であった若き日の王太子シャルルが、神の御使ジャンヌによって正気にたちかえったという話である。
 この話の舞台に登場する王太子は、ブールジュないしシノンの城で、廷臣どもにばかにされながら、日がな一日、拳玉にうち興じている。かとおもうと、自分は父王シャルル六世の嫡子(ちゃくし)ではないのではないかと、くよくよ思いなやんでいる。
 なにしろ、彼の父は狂人であり、母イザボー・ド・バビエールは、さかんな浮き名を流した女性であったから、そのおそれはおおいにあるというわけだ。
 シノン城で、はじめてジャンヌに接見したおり、彼は彼女とふたりきりで部屋に入った。密談数時間、部屋からでてきた王太子(シャルル七世)の顔は明るく輝いていたという。
 ジャンヌが王太子の出生の正しさを証明したからだ、とシャルル阿呆説論者は説明している。いったい、どうやって証明したのだろうか?
 ジャンヌがシノン城の広間に入ってきたとき、王太子は、廷臣に仮装して廷臣たちのあいだにまぎれこんでいて、玉座には、廷臣のひとりが王太子の衣装をつけて坐っていた。
 一目これをみたジャンヌは、「王太子はどこに?」とあたりをみまわし、即座に王太子をみつけて、その足もとにひざまずいたという。
 高貴な王家の血筋が顔にあらわれていた、というわけだ。
 王太子たるもの、おおいにうれしかったにちがいない。
 これも、また、後世になって話が誇張された可能性がある。
 このエピソードを伝えているのはシャルル七世の御用年代記家ジャン・シャルチェだが、しかし、このシャルチェも「仮装して」とまでは書いていない。
 小才のきいたイギリスの劇作家バーナード・ショーは、ジャンヌ聖女説をとくとくとしてふりかざし、『聖女ジョーン』というドラマをものにしたが、そのブロッ卜の一部にこのエピソードを組みこみ、例によって例のごとく合理的な解釈をほどこし、玉座に坐ったのは、当時その特異な風貌でひろく知られていた「青ひげ」、すなわちジル・ド・レで、一方、王太子はといえば、これはシノンの宮廷でいちばんみすぼらしい格好をした者と世間に知れわたっていた、と、諧謔(かいぎゃく)のつもりなのだろう、説明している。
 シャルルは、たまたま拳玉(けんだま)が好きだったのだろうし、たまには憂鬱(ゆううつ)になることもあったろう。
 だいいち、その後のシャルル七世は、歴代のフランス国王のなかでも傑出したひとりであった。
 じつに、フランス絶対王政の基礎は、彼とその子ルイ十一世二代のあいだに築かれたのである。
 してみると、シャルル阿呆説には無理がある。まぬけな王太子のもとで、シノン城には無気力とあきらめのムードがただよっていたが、そこヘジャンヌが現われて、活をいれたという通説は、史料からみて、まったく支持されない。
 王太子は、ちゃくちゃくと反抗の準備をととのえていた。
 ジャンヌ・ダルクがボークールールに姿をみせたとき、王太子はすでに彼女についての情報をえていた。
 シノンヘの途上、ジャンヌはすでに王太子と連絡をとっていた。
 シノンでの会見の一幕も、ふたりの気のあったお芝居の匂いがする。
 一言でいえば、王太子シャルルがジャンヌ・ダルク劇を演出したのである……。
 これは、ある最近のフランスの歴史家の立てた仮説であり、彼は、この仮説を実証しようとして、多くの史料を集め、大きな本を書いた。
 合理化も、ここまでくればひとを納得させるものをもっている。

 だが、だからといって、ジャンヌの謎が解けたわけではない。謎は、いぜんとして謎のままである。
 この歴史家も、けっして、王太子シャルルが勝手にジャンヌという、いわばロボットを作りだしたと言っていない。
 ジャンヌ自身の主体的行動を、王太子が、いわば利用した、という言い方をしているのだ。
 だから、謎はあくまでジャンヌの側にあるのであって、その逆ではない。
 彼女は何者であったのか、それがジャンヌの謎である、

 ここで、また、パリの一市民の提供する情報が、ひとつの示唆をあたえる。
 ジャンヌ処刑のことを報告した一市民は、それにつづけて、ドメニコ派の修道士が、聖マルタンの祭礼の日にパリで行なった説教の内容を紹介している。
 この修道士は、神学士であり宗教裁判官であるというふれこみなのだから、おそらくルーアンでの裁判の関係者が、パリの民衆に対し、ジャンヌ問題についてキャンペーンを行なったということなのだろう。
 ジャンヌの断罪について語ったのち、説教師は、さらにつづけてこういった。
 ジャンヌのほかになお三人いた、ペロンヌなる者とその仲間ま、そしてカトリーヌ・ド・ラ・ロシェルであり、以上の四人は、みな修道士リシャールの輩下であり、「リシャールは彼女たちの義父であったのであり」うんぬんと。
 修道士リシャールについては、じつは、一市民は、すでに前に報告している。
 ジャンヌがオルレアンに現われたことを報じた記事の直前、一四二九年四月二十五、二十六日の日付をもつ記述である。  「きわめて用心ぶかく、また弁舌に長じた、その隣人を教化すべくよき教理を伝える」
 リシャール師は、四月十六日から十日間ぶっとおしに、パリのイノッサン墓地で、納骨堂のアーチの下にうず高くつみあげられたしゃりこうべの山を背にして、説教を行なった。
 聴衆は、毎回、じつに「四千ないし六千」を数えたという。
 説教に感動した彼らは、リシャールのいいつけにしたがって、さいころ、カルタのたぐいを、女は「彼女らの角とか尻尾とか」を、つまり身を飾る品々をもちより集めて、山とつみ、焼きはらってしまった。
 リシャールは、民衆に惜しまれながらパリを離れた。
 ところが、このリシャールこそは、と、一市民は、それから三ヵ月後の七月なかごろの記事で、報告している。
 アルマニャックの一味であって、「その言葉によって、フランス摂政およびその御味方に対して誓いをなした町々を背(そむ)かしめた」やつだったのだ。
 そのことを知ったパリの人々は、神と諸聖者とにかけて彼を呪い、遊び道具のかずかずをふたたび持ち出したのみか、リシャールが人々にもたせた、イエスの名を刻印したメダルを捨て、聖アンドレ十字架を身につけるにいたったのである、と。
 ちなみに、聖アンドレ十字架とは、ブルゴーニュ侯の標識のひとつであり、これを身につけることは自分たちがブルゴーニュ派であると誇示することを意味した。
 前述のフランスの歴史家は、一四二九年の春に、ロワール河畔での王太子シャルルの画策に対応して、北フランス一帯に「福音の平和と理想の王国」への信仰を民衆に説いた説教師たちの活動がみられた、という仮説をたて、このリシャール師をもってその代表と想定している。
 そして、北フランス進行を開始した王太子軍がブルゴーニュ派の町トロワを攻囲したさい、ジャンヌ・ダルクの名による帰順勧告書をトロワの市政府にとどけた使者が、じつにこのリシャールであったこと、おそらくリシャールは、ジャンヌにつきしたがって行動していたこと、また、リシャールの影響圏内に、やはりジャンヌと同様、王国の再建を予言した娘カトリーヌ・ド・ラ・ロシェルがでていることなどの諸点を指摘している。
 ここに、ジャンヌの謎を解くひとつの視点がある。当時、世論形成に重要な役割をはたした大衆説教師たちのうち、バロワ王権を擁護する立場から王国の平和を説いた説教師の炎の言葉にうたれて、熱心な確信に走った娘たちがおおぜいいたでもあろう。
 ジャンヌやカトリーヌは、そのうちで名の残った少数者にほかならない。




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