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7-8-2 モア家の客人

2023-10-12 05:41:16 | 世界史


『文芸復興の時代 世界の歴史7』社会思想社、1974年
8 ヒューマニストの運命
2 モア家の客人

 一四六〇年代の中ごろ、オランダのロッテルダムに私生子として生まれたエラスムスは、僧侶になるため、パリ大学神学部で勉強していた。
 しかし当時の神学を閉塞していると感じ不満をおぼえて大学を去り、ギリシア古典の研究を進めていた。
 そのうち、弟子の一人であるイギリス貴族マウントジョイにさそわれて、一四九九年夏のはじめ、三十歳を少しこしたころ、海峡をこえることとなった。
 十五世紀末、イギリスでは三十年にわたる「ばら戦争」(一四五五~八五)もおさまり、テューダー王朝を始めたヘンリー七世(在位一四八五~一五〇九)のもとに、王権が強化し、国内秩序の安定、産業の発達、対外的発展が進んでいた。
 そのころからイタリア・ルネサンスの影響のもとに、オックスフォード大学を中心として「新しい学問」が始まった。
 イギリスへ着いたエラスムスはオックスフォードで、有名なジョン・コレットに接して感化をうけ、またコレットが学生として受講したウィリアム・グローシン、トマス・リナカーなどの学者たちとも交わったようである。
 すでにこの大学で「新しい学問」に浴していたトマス・モア(一四七八~一五三五)は、十歳ほど年下ながら、エラスムスの親友となった。
 当時エラスムスはある友人へあてた手紙に、「イギリスで咲き誇っている古代学芸研究の成果が、いかにみのり多く、広範囲のものであるかは驚くべきものだ」と書いた。
 学問のことだけではない。エラスムスはまたほかの手紙で、スポーツのおもしろさや、イギリスの乙女たちのすばらしい美しさや、どこへ行っても、だれからも接吻で迎えられたり別れたりする、すてきな風習などにふれている。
 一方イギリスのヒューマニストたちも、エラスムスの才気と古典学者としての学識に感嘆するとともに、これに刺激された。
 こうしてコレット、グローシンたちはギリシア語による聖書原典の研究、ギリシアの古典哲学とキリスト教精神との総合の試みなど、ヒューマニストとしての学問的研究を活発にすることができた。
 そのころオックスフォードを中退して、ほかの学校で法律を勉強していたトマス・モアも、このありさまに動かされて法学よりも古典学に熱中したため、心配した父の判事ジョン・モアは学資を絶つことによって、息子をもとへもどそうとしたといわれる。
 しかしエラスムスは、自分にふさわしい地位をイギリスで発見できなかったためか、一五〇〇年はじめ、この国を去って行った。
 それから彼はパリそのほかで、貧苦に耐えつつ勉学や著述生活をつづけ、五年後の一五〇五年から翌年まで、ふたたびマウントジョイに招かれて渡英した。
 そして彼は旧友たちと再会の喜びにひたったが、このときにはロンドンのモア家の客人となっている。
 モアは一時、下院議員になるなど、実生活にはいっており、また結婚したばかりのところであった。
 エラスムスは名こそあげていないが、明らかにモア夫妻とわかる新婚夫婦について書いている――
 家柄はよいが田舎出で無教養な妻、十歳年下で十七歳のこの若い妻に対して、夫は読書や音楽の教養を身につけさせようと試みるが、妻はこれについてゆけず、泣くばかり、死んだほうがましだと思うほどのありさま、しかし夫はこれをきたえあげていったと。
 このトマス・モアが下院議員に選出されたのは、一五〇四年、ヘンリー七世時代末期の議会であったが、この王は一五〇九年に世を去り、十八歳のヘンリー八世(在位一五〇九~四七)が即位した。
 若さにあふれる王は均整がとれた姿態に恵まれ、ラテン・フランス・イタリア語に通じ、音楽の才もあり、スポーツにも秀でていた。
 文学、科学にも興味をもち、ルネサンス的教養を身につけたこの若々しい王に、ヒューマニストたちが大きな期待をよせたことは当然であろう。王は彼らに、「学識がない人生は生きるに値しない」とまで語ったではないか。
 マウントジョイがエラスムスにあてた手紙には、つぎのような文字さえ見うけられる。
 「……おお、エラスムスどの、世に満つるこの喜びを、わが国民が新しい王をどんなに誇っているかを、あなたが見ることができれば、あなたは満足して落涙するでしょう。
 天はほほえみ、地は歓喜し、すべては希望と豊かさにあふれています……」

 ヘンリー八世自身もエラスムスに、イギリスをあなたの家郷としていただきたい、というような手紙を送ったこともあった。
 ともかく一五〇九年秋から数年、エラスムスはおもにイギリスに滞在することとなった。彼はロンドンで一時モア家に身をよせたが、モアは前途有望な法律家として認められ、前述の若く美しい妻ジェーンと子供たちにかこまれて、幸福な家庭をつくっていた。
 弁護士となったモアは、弁護を依頼されたときには、正しいと確信がある事件だけを引き受け、不当な事件の場合には訴訟をやめるように忠告し、それが容れられないと、他の弁護士に譲った。こうして彼はひじょうに人気をえたという。
 さてこのモア家に着いたエラスムスは、まだ本が届いておらず、また腰の神経痛にかかっていて、まとまった仕事ができず、そこで一週間か十日間で一冊の本を書き上げた。

 だいたい神経質なエラスムスは暑さに苦しみ、霧にあえば気がめいり、ちょっとした寒さにもこごえ、風が吹けば不快になった。しかし必要とした睡眠時間は三、四時間ともいわれ、残りは読書、議論、執筆にうちこみ、休むことなく知的活動をつづけた。
 彼は旅の途中の馬車のなかでも書き、どこの宿屋の部屋でも、テーブルはただちに彼の仕事机となった。
 モア家で書かれた本は、エラスムスの数多い著作のなかでも有名な『痴愚神礼讃(ちぐしんらいさん)』であり、それは「ロッテルダムのエラスムスより、その新しき友トマス・モアに」捧げられている。
 この本は痴愚女神を通じてユーモアと皮肉のうちに、人間全体の欠点を指摘し、痴愚の種々相を展開する。
 とくに当時の僧侶たちの腐敗や堕落がするどく風刺されているとともに、人間の愚かさを正したいというヒューマニストの願いがこめられていた。

 愚鈍や邪悪に対してたたかう場合、もっとも効果的な方法は諷刺であり、エラスムスはこれを巧妙に利用した。
 そして彼自身が驚いたほど効果は大きく、非難や攻撃もまきおこった。
 おもしろいことに、ローマ教皇もこの本を愛読し、大笑いしたという。





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