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7-8-3 君主教育・女子教育

2023-10-13 11:03:31 | 世界史
『文芸復興の時代 世界の歴史7』社会思想社、1974年
8 ヒューマニストの運命
3 君主教育・女子教育


トマス・モア

 一五一一年、パリで出版された『痴愚神礼讃』は、千八百部と伝えられる第一刷がただちに売りきれ、十六世紀だけでも五十八度も版を重ねたといわれる。
 この点エラスムスは印刷という新しい技術とともに成長した世代の人であり、この印刷という方法で、彼のまえのだれもが及ぼしえなかったほどの影響を、ヨーロッパ知識人に与えた。
 印刷術といえば、十五世紀中ごろドイツ人ヨハン・グーテンペルク(?~一四六八)によって、取りはずしができる鉛の活字で、能率的な印刷の方法がすでに発明されていた。
 これによって、過去数百年間に筆写されたものよりも、はるかに多くの書物が印刷されることとなったし、またこれまでの木版印刷は不鮮明であるうえに、費用も高くついたのである。
 そして書物の普及は、教育や学問を僧侶、貴族、金持ちの独占から大衆化するきっかけでもあった。
 その後エラスムスはイギリスと大陸のあいだを往来し、一五二六年、『新約聖書』および『キリスト教君主教育』という重要な著書を世に出した。前者は聖書のギリシア語原典の校訂、註釈とともに、新しいラテン語訳をおこなったものである。
 この仕事は学者としてのエラスムスの名声を高めたが、なにしろ聖書をとりあげたのだから、一方では批判もおこった。
 そのなかにカトリック教会から離れる前のルターがいて、若干の不満をもらしているのも注目されよう。
 エラスムスはこの本を当時の教皇レオ十世に献呈しているが、これは非難に対処するためだったという。

 『キリスト教君主教育』のほうは、彼が名誉顧問となっていたスペイン王カルロス一世に捧げられたものである。
 ヒューマニスティックなキリスト教的貴族をつくりあげること、それがエラスムスの願望であり、彼は貪欲で乱暴な支配者層をつくり変えることをめざした。
 君主が正しい教育のもとに真のキリスト教徒になることにより、理性、友愛が動物的本能や暴力をおさえ、キリスト教世界全体に平和が訪れることを、エラスムスは熱望したのだ。
 あのマキアベリの『君主論』が一五二二年に完成されたことを思うと、対照的な二つの君主論が同時代に存在していたわけである。
 一方、エラスムスの名声は高まり、たとえば彼が滞在していたスイスのバーゼルは、ヨーロッパの精神的中心となり、貴族や学者たちはその記念帳にサインしてもらうために、何日もかけて遠くから旅をしてきた。
 彼から手紙をもらっただけで、人気の的になるありさまであった。
 エラスムスは一五二六年にもイギリスへ渡っているが、短い滞在にすぎなかった。
 ヒューマニストたちがヘンリー八世にかけた期待は、どうやら過大にすぎたようだ。
 王は即位当時にくらべて、しだいにエネルギーに満ちた男臭い人物となり、フランス大使は王に近づくと、暴力を振るわれそうな恐怖感を覚えることを伝え、また王に会った人びとは、狩りや宴会や外出が好きで、子供を愛し、スポーツに興ずる愉快な王の一面と、冷酷で寡黙、ぬけめがなく野心的な反面とを感じている。
 しかも王は学芸よりも、対外的な勢威の拡大や戦争をこのんだ。
 エラスムスはまた、「近代最初の平和論」といわれる小品『平和の訴え』(一五一七)を書いている。
 この彼にとって、ヘンリー八世の変貌は大きな失望であった。
 エラスムスが定住してくれたらと願っているイギリス・ヒューマニストたちの期待もむなしくなった。
 このエラスムスに対して、その無二の友トマス・モアは実務上でちゃくちゃくと地位をきずいていたが、私生活のうえでは大きな変化があった。
 一五一一年、結婚生活六年にして、モアの妻は子供たちを残して、世を去った。
 しかし彼はまもなく、年上の女性アリス・ミドルトンと再婚した。
 彼女はロンドンの織物商の未亡人で、先夫とのあいだにできた女の子をつれてきたが、モアは残された子供たちに母を与えるために、そして家事をとらせるために、この結婚を選んだらしい。
 この妻は美しくはなかったが、家政のやりくりは巧妙で、モアは先妻をしこんだように、新しい妻にも音楽などを教え、彼女に毎日楽器をひかせた。
 彼は子供たちの教育に熱心で、ギリシア・ラテン語をはじめ、種々の学問を男女平等に教えこんだ。
 彼の古典研究に対する熱心さは、その子女の教育にもあらわれたのである。

 当時はまだ婦人が学問をすることは軽視されていたので、この点モアが女の子を多くもち、彼女たちの教育に努力したことは、ルネサンス・ヒューマニズムの実験でもあり、またイギリスにおける女子教育の発展にプラスすることとなった。
 長女マーガレットはとくに父に似て学識に秀でた女性に成長し、モアのお気にいりとなった。
 聡明な彼女のもとにはいろいろと忠告を求める友人たちが集まり、適切な意見を与えられたが、こんなことができるのは、そのころの女性としてはたいへん珍しいことであった。
 そして彼女の夫ウィリアム・ローパーは、のちに尊敬する義父の伝記を書いた。
 ところでモア家には、、エラスムスが利用できるように一室が用意されていた。
 しかし彼は親友の二度目の妻と、どうもしっくりゆかなかったらしい。
 彼はあるとき、こっそりもらした。
 「私はイギリスがいやになり、モア夫人は私がいやになっている。」
 しかしモア夫人にとっても、まったくあつかいにくい客であった。
 エラスムスは酒にうるさく、イギリスのビールはのまないし、魚のにおいを嫌うし、フランスふうの野菜サラダをお望みだし、そのうえラテン語でドンドンしゃべるので、モア夫人はこれについてゆけなかった。






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