『宋朝とモンゴル 世界の歴史6』社会思想社、1974年
12 元朝の支配
7 「省」の由来
現代の中国では「省」が地方の行政区両となっている。逝江省とか、福建省とか、いうものである。
ところが日本では「省」は中央の官庁である。この違いは、元朝の制度からおこった。
そもそも中国では、古代に「三省六部(りくぶ)」の制が完備している。
三省とは、中書・門下・尚書であった。
中書省は詔勅(法令)の案文を起草し、それを門下省が審議する。
こうして案文が決定すると、皇帝が公布し、尚書省をして執行させる。
尚書省のもとには六部があって、行政を分担した。
六部とは、吏・戸・礼・兵・刑・工であった。
この制度を日本でも採用した。ただし国情にあわせて変改をくわえ、「二官八省」の制を立てた。
二官とは、神祇(じんぎ)官と大政官である。
そして太政官のもとに、中務・式部・治部・民部・兵部・刑部・大蔵・宮内の八省がおかれた。
この八省の制が、いまの内閣の各省のわけかたにつなかっている。
なかでも大蔵省は、大宝令以来の名称である。
さて中国においては、政務は三省に分属していて、三省の長官がいわゆる「宰相」であった。
ところが尚書省は、宮中の外にあって純然たる行政府である。中書省と門下省は宮中にあって政務を義した。
その政事堂は中書門下とよばれた。
しかも唐代では、両者の長官のほかに、この最高の政務に参与する制度がひらかれている。
その官を同中書門下平章事と称した。
中書門下において政務を平章する、という意味である。略して同平章事ともいう。
ときの元老たる者がこの官に任ぜられると、宰相の実権は三省の長官よりも同平章事にうつる。
それは宋代においても、ほぼ同様であった。
そこで「金」国では、存在の理由が少くなった中書・門下の両省を廃してしまった。
尚書省のみを残し、すべての政務をもっぱらここでおこなうようにしたのである。
省の長官は令(れい)であり、その下に左右の丞相(じょうしょう)おのおの二人、平章政事二人をおいた。
この五人が、いわゆる宰相の任にあたったわけである。これを元朝がうけついだ。
元朝では、中央の行政府として「中書省」をおいた。その長官は中書令であるが、皇太子がこれに任ぜられることが慣例となって、名義のみの官となる。
その下の右丞相と左丞相とが、事実上の長官であった(右が上位)。
中央に中書省があり、地方にはその出張所がおかれた。
よって「行中書省」という。行とは出張する意味である。
これが、やがて地方における常置の行政官庁となり、ついで管轄区域をしめす行政区画の名となった。
略して「行省」とも、単に「省」ともよばれた。
明代になると、中書省を廃して、その下の六部を皇帝の直属とした。
いっぽう元代の行省の区画は、名称はかわったが、うけつがれた。
そして清代にいたると、地方の行政区画は「省」として、ほぼ今日のように定まるのである。
すなわち中国の「省」は、元代の行省に由来するといえるであろう。
なお元代においては、地方の行政官庁としてだけでなく、臨時の軍事機関としても「行省」が設けられている。
たとえば日本を遠征するために設けられたものが「征日本行省」あるいは「征東行省」であった。
12 元朝の支配
7 「省」の由来
現代の中国では「省」が地方の行政区両となっている。逝江省とか、福建省とか、いうものである。
ところが日本では「省」は中央の官庁である。この違いは、元朝の制度からおこった。
そもそも中国では、古代に「三省六部(りくぶ)」の制が完備している。
三省とは、中書・門下・尚書であった。
中書省は詔勅(法令)の案文を起草し、それを門下省が審議する。
こうして案文が決定すると、皇帝が公布し、尚書省をして執行させる。
尚書省のもとには六部があって、行政を分担した。
六部とは、吏・戸・礼・兵・刑・工であった。
この制度を日本でも採用した。ただし国情にあわせて変改をくわえ、「二官八省」の制を立てた。
二官とは、神祇(じんぎ)官と大政官である。
そして太政官のもとに、中務・式部・治部・民部・兵部・刑部・大蔵・宮内の八省がおかれた。
この八省の制が、いまの内閣の各省のわけかたにつなかっている。
なかでも大蔵省は、大宝令以来の名称である。
さて中国においては、政務は三省に分属していて、三省の長官がいわゆる「宰相」であった。
ところが尚書省は、宮中の外にあって純然たる行政府である。中書省と門下省は宮中にあって政務を義した。
その政事堂は中書門下とよばれた。
しかも唐代では、両者の長官のほかに、この最高の政務に参与する制度がひらかれている。
その官を同中書門下平章事と称した。
中書門下において政務を平章する、という意味である。略して同平章事ともいう。
ときの元老たる者がこの官に任ぜられると、宰相の実権は三省の長官よりも同平章事にうつる。
それは宋代においても、ほぼ同様であった。
そこで「金」国では、存在の理由が少くなった中書・門下の両省を廃してしまった。
尚書省のみを残し、すべての政務をもっぱらここでおこなうようにしたのである。
省の長官は令(れい)であり、その下に左右の丞相(じょうしょう)おのおの二人、平章政事二人をおいた。
この五人が、いわゆる宰相の任にあたったわけである。これを元朝がうけついだ。
元朝では、中央の行政府として「中書省」をおいた。その長官は中書令であるが、皇太子がこれに任ぜられることが慣例となって、名義のみの官となる。
その下の右丞相と左丞相とが、事実上の長官であった(右が上位)。
中央に中書省があり、地方にはその出張所がおかれた。
よって「行中書省」という。行とは出張する意味である。
これが、やがて地方における常置の行政官庁となり、ついで管轄区域をしめす行政区画の名となった。
略して「行省」とも、単に「省」ともよばれた。
明代になると、中書省を廃して、その下の六部を皇帝の直属とした。
いっぽう元代の行省の区画は、名称はかわったが、うけつがれた。
そして清代にいたると、地方の行政区画は「省」として、ほぼ今日のように定まるのである。
すなわち中国の「省」は、元代の行省に由来するといえるであろう。
なお元代においては、地方の行政官庁としてだけでなく、臨時の軍事機関としても「行省」が設けられている。
たとえば日本を遠征するために設けられたものが「征日本行省」あるいは「征東行省」であった。