
『古代ヨーロッパ 世界の歴史2』社会思想社、1974年
7 ポリス(都市国家)の衰退
――クセノフォン――
1 クセノフォン
アテネの町のある狹い道を、一人の少年が歩いていた。
きびきびとして利口そうで、気持ちのよい美しい少年だった。
少年の行く手に一人の醜い、ししっ鼻の老人が立っていた。衣服は貧しく、はだしだった。
その老人は仗を少年の前につき出して、少年をさえぎった。そしていろいろたずねはじめた。
まずさまざまな食物の名をあげて、それはどこに行ったら買えるかとたずねた。
少年ははっきりした言葉で、それはどこで買える、これはどこに行けば買えると、親切に老人に教えた。
すると老人は「きみはよくいろいろ知っているが、では人間を立派な人にするところはどこかね」ときいた。
利口な少年もこれには答えられず、困りきってしまった。
老人は「では、わたしについてきて、それを学びなさい」といったという。
この老人は先に書いたソクラテスで、少年はクセノフォンだった。
こうして、彼はソクラテスの弟子になったという。
この話はディオゲネス・ラエルティオスという人が伝えている話だが、その真偽はわからない。
しかしクセノフォンは、ソクラテスから深い影響をうけたことはたしかで、彼は『ソクラテスの思い出(メモラビリア)』『ソクラテスの弁明』『饗宴』『家政論』その他の本をたくさん書き、そのなかでソクラテスのことを語っている。
しかし紀元前三九九年に、ソクラテスが処刑されたとき、クセノフォンはアテネにいなかった。
彼は当時小アジアにいたのだった。
紀元前四〇一年の春、クセノフォンは友人のプロクセノスから手紙をもらった。
プロクセノスはテーベ生まれの人だったが、彼は傭兵(ようへい)隊長として、ペルシア王アルタクセルクセスの弟キュロスに招かれて、小アジアにいたのだった。
当時小アジアには、ギリシア人の傭兵が一万人もいた。
プロクセノスはキュロスに心酔していた。
キュロス(紀元前四二四年ごろ~四〇一年)はペルシア王ダレイオス二世の王子だった。
彼は成年に達するか達しないかで小アジアに遣わされた。
スパルタのリュサンドロスを助けるためだった。
紀元前四〇五年父王ダレイオスが死ぬと、兄のアルサケスが王位をついで「アルタクセルクセス二世」となった。
このときキュロスは兄王に謀叛しようとしていると、小アジアの太守(サトラツプ)ティッサフェルネスに訴えられ、彼は兄王のところによばれた。
死刑にされそうになったが、母のパリュサッティスが弁護と命乞いをしてくれ、死刑は免れ、小アジアに帰った。
キュロスは小アジアに帰ると、ギリシア人の傭兵などを集め、軍備をはじめた。
プロクセノスもボイオティア人の傭兵を率いて海を渡り、キュロスに仕えていたのだった。
キュロスに心酔していた彼は、クセノフォンにも小アジアに来て、キュロスに会うようにすすめた。
クセノフォンが小アジアのサルディスに着いてみると、そこでは遠征のための大軍の準備ができていた。
ギリシア人の傭兵一万と、小アジア人の兵一万だった。
奥地の山賊退治という名目だつたが、じつは兄から王位を奪うためだった。
クセノフォンはこの軍にただの客として加わり、軍籍には属していなかった。
遠征軍は出発し、ギリシアの傭兵たちは遠征の本当の目的を知るようになった。
彼らはタルソスの町についた後、約束がちがうからこれ以上は進軍しないといいだした。
隊長のクレアルコスが懸命に説得し、給料の増額を約束し、行軍は再開した。
砂漠地帯の行軍や、食糧の欠乏などで苦しんだのち、バビロンの近くのキュナクサについたのは、夏のことだった。
ここで遠征軍はペルシア王(アルタクセルクセス二世)の軍と遭遇した。
それは大軍で百万といわれた。ギリシア慵兵隊の活躍はすさまじく、ペルシア軍とよく戦った。
キュロスは勢いにのって敵中深くはいりすぎ、戦死してしまった。
戦闘には勝ったものの、傭い主であるキュロスを失って、ギリシア兵たちはすっかり困ってしまった。
そのうえ敵将のティッサフェルネスの謀(はかりごと)にうまくひっかかって、ギリシア傭兵の隊長たちは戦いの後始末を相談するために集まれといわれ、みな捕えられて、大部分殺されてしまった。
指導者たちを失ったギリシア兵たちは絶望し混乱した。
客分として遠征軍にずっとついて来たクセノフォンは、人々に新しく隊長を選びなおして、陣容をととのえ、そろって国に帰ろうと説いた。
ギリシア兵は彼の言葉に従って気をとりなおした。彼もボイオティア兵の隊長に選ばれた。
しかし彼らの退却行(たいきゃくこう)は苦しいものだった。
すぐシリア海岸に出ればギリシア植民市もあり、比較的楽なはずだったのだが、地図もなかったためか、彼らは小アジア内地をティグリス川に沿って北のほうへ進んだ。
そこは彼らにとっては未知の敵地の真ん中だった。敵に襲われる危険はいつもあった。
その不安に加えて、食糧は掠奪して手に入れるはかなかった。
掠奪すれば土民たちと戦うことは覚悟しなければならなかった。
こうして苦しい内陸行は五ヵ月ほどつづいた。道はある山越しにかかったが、先頭が山の頂上に達したとき、「ワーッ!」という喚声があがった。
後尾のものは「すわ敵襲!」と思った。先頭から後尾へと、何か言葉がつぎつぎに伝わってきた。
それは「海(タラツタ)! 海(タラツタ)!」という言葉であった。
敵襲ではなくて、山の頂上から遙か向こうに横たわる黒海が見えたので、先頭の者が思わずよろこびの声をあげたのだった。
ギリシア兵たちは急いで山頂にのぽり、抱きあって泣いた。
クセノフォンはこの退却行をのちに詳しく書いて『内陸行(アナバシス)』という本を書いた。
軍人ふうの簡潔・的確な文章で書かれているので、ギリシア語を学ぶ人の、最初の教科書としてよく使われる。
そのなかでもこの「海(タラツタ)! 海(タラツタ)!」という個所は有名なところで、海洋民であるギリシア人をよく現わしているところとされている。
ギリシア本土は山脈が縦横に走っており、それも二、三千メートルにも達する山がそうとう多い。
したがって陸上の交通は困難だった。
川も急流が多く、それも夏にはかれることが多く、舟の航行にはぜんぜん役に立たなかった。
これに反して海岸線は複雑に入りこんで、良港良湾に富んでいる。
そのうえエーゲ海は「多島海」ともよばれるように、無数の島々が散在して、航海する者は、島影を見ないで航海することはほとんど不可能なほどだった。
こういうふうだったので幼稚な航行術でも、比較的安全に航海ができた。
そのためギリシア人は早く海に慣れ、彼らは海を「液体の道」とよんだ。
そういう彼らが、未知の敵地の内陸を五ヵ月もさまよったあげく、海を見たのだから、どんなにうれしかったことだったろう。
黒海の沿岸にはずっと昔から多数のギリシア植民市があった。
やがて彼らは黒海沿岸のギリシア植民市トラベズスに出た。
そこで解散して、彼らはそれぞれの国に帰った。
クセノフォンはその後黒海沿岸に新しく植民市建設を企てたりしたのち、祖国のアテネに帰った。
しかし彼の祖国アテネは、そのころは彼のような軍人の活躍する舞台としてはふさわしくなかった。
彼はそこに安住することができず、スパルタに行った。
そしてそこでアゲシラオス王に仕えた。彼は王に愛され、彼も王を慕った。
王のもとで彼は小アジアやギリシア本土で軍人として活躍した。
紀元前三九四年のコロネイアの戦いの際には、アゲシラオス王の指揮下に、祖国アテネとテーベの連合軍と戦った。
そのためアテネはクセノフォンの市民権を奪い、財産も没収した。
これを気の毒に思ったアゲシラオス王は、オリンピアに近いスキルスの荘園を、彼に与えた。
クセノフォンはここで読書や狩りに日を送り、たくさんの著書を書いた。
しかし彼はここで安穏な晩年をまっとうすることはできなかった。
紀元前三七一年スパルタはテーベとレウクトラで戦って敗れた。
このためスキルスもエリス人に奪われ、クセノフォンはコリントに逃げた。
テーベの勢いが強くなり、これを恐れたアテネは紀元前三六九年にスパルタと同盟した。
そのためクセノフォンの追放は解(と)けた。
彼はその後息子をアテネに帰したといわれるが、彼自身は帰国したかどうかは明らかでない。
彼はコリントに留まり、そこで死んだらしいといわれているが、明らかでない。
死んだ年も紀元前三五四年以降というだけで、よくわかっていない。
彼の生まれた年も、ペロポネソス戦争が起こったころといわれているが、これもよくわからない。
彼はスパルタびいきでどちらかというと貴族主義的な人だった。
軍人らしい軍人で、ギリシア人のある種の典型だった。
そういう人がたくさんの著書を残したのは、ある意味でふしぎだが、紀元前三九三年にボリュクラテスという人が、弁論術の練習のために、『ソクラテス告発』という文章を書いて発表したが、これが当時の人に広く読まれ、これが本当のソクラテス告訴状のようにとられた。
そこでソクラテスの弟子たちは、師を弁護しなくてはならないと強く感じた。
プラトンの『ソクラテスの弁明』もクセノフォンの『ソクラテスの思い出』もこうした気持ちから書かれ、これがきっかけとなって、プラトンもクセノフォンもつぎつぎに著作をはじめたともいわれる。
したがってもしポリュクラテスの書が出なければ、これらの書物はなかったかもしれない。
古代以来クセノフォンの軍人らしい簡潔な名文は多くの人々に愛読され、その全著作が残って、今日まで伝えられた。
本当は彼が書いたのではないものまでも、彼が書いたと伝えられたために残っているものまである。
古代の著者のなかでは、彼のような例はめずらしい。
彼の『アナバシス』によって、ペルシア王家の内情がギリシア人に知られるようになった。
またその地理的叙述は正確で、のちのアレクサンダー大王の東征の際には、たいへん役に立つたといわれる。
ペルシア人もこのときのギリシア傭兵の働きによって、ギリシア兵の力をよく知り、彼らを傭兵として使うことが、この後ますます多くなった。
この気運にのって、小アジアに出稼ぎに出るギリシア人はその後どんどん多くなった。
7 ポリス(都市国家)の衰退
――クセノフォン――
1 クセノフォン
アテネの町のある狹い道を、一人の少年が歩いていた。
きびきびとして利口そうで、気持ちのよい美しい少年だった。
少年の行く手に一人の醜い、ししっ鼻の老人が立っていた。衣服は貧しく、はだしだった。
その老人は仗を少年の前につき出して、少年をさえぎった。そしていろいろたずねはじめた。
まずさまざまな食物の名をあげて、それはどこに行ったら買えるかとたずねた。
少年ははっきりした言葉で、それはどこで買える、これはどこに行けば買えると、親切に老人に教えた。
すると老人は「きみはよくいろいろ知っているが、では人間を立派な人にするところはどこかね」ときいた。
利口な少年もこれには答えられず、困りきってしまった。
老人は「では、わたしについてきて、それを学びなさい」といったという。
この老人は先に書いたソクラテスで、少年はクセノフォンだった。
こうして、彼はソクラテスの弟子になったという。
この話はディオゲネス・ラエルティオスという人が伝えている話だが、その真偽はわからない。
しかしクセノフォンは、ソクラテスから深い影響をうけたことはたしかで、彼は『ソクラテスの思い出(メモラビリア)』『ソクラテスの弁明』『饗宴』『家政論』その他の本をたくさん書き、そのなかでソクラテスのことを語っている。
しかし紀元前三九九年に、ソクラテスが処刑されたとき、クセノフォンはアテネにいなかった。
彼は当時小アジアにいたのだった。
紀元前四〇一年の春、クセノフォンは友人のプロクセノスから手紙をもらった。
プロクセノスはテーベ生まれの人だったが、彼は傭兵(ようへい)隊長として、ペルシア王アルタクセルクセスの弟キュロスに招かれて、小アジアにいたのだった。
当時小アジアには、ギリシア人の傭兵が一万人もいた。
プロクセノスはキュロスに心酔していた。
キュロス(紀元前四二四年ごろ~四〇一年)はペルシア王ダレイオス二世の王子だった。
彼は成年に達するか達しないかで小アジアに遣わされた。
スパルタのリュサンドロスを助けるためだった。
紀元前四〇五年父王ダレイオスが死ぬと、兄のアルサケスが王位をついで「アルタクセルクセス二世」となった。
このときキュロスは兄王に謀叛しようとしていると、小アジアの太守(サトラツプ)ティッサフェルネスに訴えられ、彼は兄王のところによばれた。
死刑にされそうになったが、母のパリュサッティスが弁護と命乞いをしてくれ、死刑は免れ、小アジアに帰った。
キュロスは小アジアに帰ると、ギリシア人の傭兵などを集め、軍備をはじめた。
プロクセノスもボイオティア人の傭兵を率いて海を渡り、キュロスに仕えていたのだった。
キュロスに心酔していた彼は、クセノフォンにも小アジアに来て、キュロスに会うようにすすめた。
クセノフォンが小アジアのサルディスに着いてみると、そこでは遠征のための大軍の準備ができていた。
ギリシア人の傭兵一万と、小アジア人の兵一万だった。
奥地の山賊退治という名目だつたが、じつは兄から王位を奪うためだった。
クセノフォンはこの軍にただの客として加わり、軍籍には属していなかった。
遠征軍は出発し、ギリシアの傭兵たちは遠征の本当の目的を知るようになった。
彼らはタルソスの町についた後、約束がちがうからこれ以上は進軍しないといいだした。
隊長のクレアルコスが懸命に説得し、給料の増額を約束し、行軍は再開した。
砂漠地帯の行軍や、食糧の欠乏などで苦しんだのち、バビロンの近くのキュナクサについたのは、夏のことだった。
ここで遠征軍はペルシア王(アルタクセルクセス二世)の軍と遭遇した。
それは大軍で百万といわれた。ギリシア慵兵隊の活躍はすさまじく、ペルシア軍とよく戦った。
キュロスは勢いにのって敵中深くはいりすぎ、戦死してしまった。
戦闘には勝ったものの、傭い主であるキュロスを失って、ギリシア兵たちはすっかり困ってしまった。
そのうえ敵将のティッサフェルネスの謀(はかりごと)にうまくひっかかって、ギリシア傭兵の隊長たちは戦いの後始末を相談するために集まれといわれ、みな捕えられて、大部分殺されてしまった。
指導者たちを失ったギリシア兵たちは絶望し混乱した。
客分として遠征軍にずっとついて来たクセノフォンは、人々に新しく隊長を選びなおして、陣容をととのえ、そろって国に帰ろうと説いた。
ギリシア兵は彼の言葉に従って気をとりなおした。彼もボイオティア兵の隊長に選ばれた。
しかし彼らの退却行(たいきゃくこう)は苦しいものだった。
すぐシリア海岸に出ればギリシア植民市もあり、比較的楽なはずだったのだが、地図もなかったためか、彼らは小アジア内地をティグリス川に沿って北のほうへ進んだ。
そこは彼らにとっては未知の敵地の真ん中だった。敵に襲われる危険はいつもあった。
その不安に加えて、食糧は掠奪して手に入れるはかなかった。
掠奪すれば土民たちと戦うことは覚悟しなければならなかった。
こうして苦しい内陸行は五ヵ月ほどつづいた。道はある山越しにかかったが、先頭が山の頂上に達したとき、「ワーッ!」という喚声があがった。
後尾のものは「すわ敵襲!」と思った。先頭から後尾へと、何か言葉がつぎつぎに伝わってきた。
それは「海(タラツタ)! 海(タラツタ)!」という言葉であった。
敵襲ではなくて、山の頂上から遙か向こうに横たわる黒海が見えたので、先頭の者が思わずよろこびの声をあげたのだった。
ギリシア兵たちは急いで山頂にのぽり、抱きあって泣いた。
クセノフォンはこの退却行をのちに詳しく書いて『内陸行(アナバシス)』という本を書いた。
軍人ふうの簡潔・的確な文章で書かれているので、ギリシア語を学ぶ人の、最初の教科書としてよく使われる。
そのなかでもこの「海(タラツタ)! 海(タラツタ)!」という個所は有名なところで、海洋民であるギリシア人をよく現わしているところとされている。
ギリシア本土は山脈が縦横に走っており、それも二、三千メートルにも達する山がそうとう多い。
したがって陸上の交通は困難だった。
川も急流が多く、それも夏にはかれることが多く、舟の航行にはぜんぜん役に立たなかった。
これに反して海岸線は複雑に入りこんで、良港良湾に富んでいる。
そのうえエーゲ海は「多島海」ともよばれるように、無数の島々が散在して、航海する者は、島影を見ないで航海することはほとんど不可能なほどだった。
こういうふうだったので幼稚な航行術でも、比較的安全に航海ができた。
そのためギリシア人は早く海に慣れ、彼らは海を「液体の道」とよんだ。
そういう彼らが、未知の敵地の内陸を五ヵ月もさまよったあげく、海を見たのだから、どんなにうれしかったことだったろう。
黒海の沿岸にはずっと昔から多数のギリシア植民市があった。
やがて彼らは黒海沿岸のギリシア植民市トラベズスに出た。
そこで解散して、彼らはそれぞれの国に帰った。
クセノフォンはその後黒海沿岸に新しく植民市建設を企てたりしたのち、祖国のアテネに帰った。
しかし彼の祖国アテネは、そのころは彼のような軍人の活躍する舞台としてはふさわしくなかった。
彼はそこに安住することができず、スパルタに行った。
そしてそこでアゲシラオス王に仕えた。彼は王に愛され、彼も王を慕った。
王のもとで彼は小アジアやギリシア本土で軍人として活躍した。
紀元前三九四年のコロネイアの戦いの際には、アゲシラオス王の指揮下に、祖国アテネとテーベの連合軍と戦った。
そのためアテネはクセノフォンの市民権を奪い、財産も没収した。
これを気の毒に思ったアゲシラオス王は、オリンピアに近いスキルスの荘園を、彼に与えた。
クセノフォンはここで読書や狩りに日を送り、たくさんの著書を書いた。
しかし彼はここで安穏な晩年をまっとうすることはできなかった。
紀元前三七一年スパルタはテーベとレウクトラで戦って敗れた。
このためスキルスもエリス人に奪われ、クセノフォンはコリントに逃げた。
テーベの勢いが強くなり、これを恐れたアテネは紀元前三六九年にスパルタと同盟した。
そのためクセノフォンの追放は解(と)けた。
彼はその後息子をアテネに帰したといわれるが、彼自身は帰国したかどうかは明らかでない。
彼はコリントに留まり、そこで死んだらしいといわれているが、明らかでない。
死んだ年も紀元前三五四年以降というだけで、よくわかっていない。
彼の生まれた年も、ペロポネソス戦争が起こったころといわれているが、これもよくわからない。
彼はスパルタびいきでどちらかというと貴族主義的な人だった。
軍人らしい軍人で、ギリシア人のある種の典型だった。
そういう人がたくさんの著書を残したのは、ある意味でふしぎだが、紀元前三九三年にボリュクラテスという人が、弁論術の練習のために、『ソクラテス告発』という文章を書いて発表したが、これが当時の人に広く読まれ、これが本当のソクラテス告訴状のようにとられた。
そこでソクラテスの弟子たちは、師を弁護しなくてはならないと強く感じた。
プラトンの『ソクラテスの弁明』もクセノフォンの『ソクラテスの思い出』もこうした気持ちから書かれ、これがきっかけとなって、プラトンもクセノフォンもつぎつぎに著作をはじめたともいわれる。
したがってもしポリュクラテスの書が出なければ、これらの書物はなかったかもしれない。
古代以来クセノフォンの軍人らしい簡潔な名文は多くの人々に愛読され、その全著作が残って、今日まで伝えられた。
本当は彼が書いたのではないものまでも、彼が書いたと伝えられたために残っているものまである。
古代の著者のなかでは、彼のような例はめずらしい。
彼の『アナバシス』によって、ペルシア王家の内情がギリシア人に知られるようになった。
またその地理的叙述は正確で、のちのアレクサンダー大王の東征の際には、たいへん役に立つたといわれる。
ペルシア人もこのときのギリシア傭兵の働きによって、ギリシア兵の力をよく知り、彼らを傭兵として使うことが、この後ますます多くなった。
この気運にのって、小アジアに出稼ぎに出るギリシア人はその後どんどん多くなった。