カトリック情報 Catholics in Japan

スマホからアクセスの方は、画面やや下までスクロールし、「カテゴリ」からコンテンツを読んで下さい。目次として機能します。

4-16-3 新羅の統一

2023-03-19 03:22:06 | 世界史
『六朝と隋唐帝国 世界の歴史4』社会思想社、1974年
16 新羅(しらぎ)と渤海(ぼっかい)
3 新羅の統一

 唐に対しては、新羅や百済(くだら)はもちろん、高句麗(こうくり)も朝貢の礼をとった。
 しかし半島の三国は、むかしから仲がわるい。
 そこで唐に和好を通ずるいっぼう、他の国が侵略してきて困る、と訴えるのである。
 このあたりの立ちまわりでは、新羅がもっとも巧妙であった。
 ついに唐も、高句麗の遠征にふみきった。
 しかし太宗と高宗の二代にかけて、五回にわたる遠征も、ことごとく失敗におわる。
 ここで、またも新羅の外交が功を奏した。
 唐の高宗は、新羅とむすんで、百済をうつことに、方針をかえた。
 唐の大軍は百済にわたり、新羅軍の協力をえて、その国都をおとしいれた。
 国王や王子は、いったんのがれたが、とらえられて長安におくられた。
 こうして百済の国はほろんだ(六六〇)。
 百済の遺臣たちは日本をたより、回復のための助力をもとめた。
 これに応じて日本は、高齢の斉明女帝みずから、軍をひきいて九州にすすむ。
 そこで女帝は崩じたが、あとをついだ天智天皇(皇太子)は、救援の軍を百済におくった。
 わが軍は、百済の軍とともに白村江(はくすきのえ)において、唐の水軍をむかえうった。
 しかし水上のたたかいは、わが軍の惨敗であった。
 四百隻におよぶ船隊は、唐の軍のために焼かれたという。
 百済を回復する望みは、まったく絶えた(六六三)。
 いまや唐は北から、新羅は南から、力をあわせて高句麗を攻めた。
 隋のとき以来、七十年におよぶ抗戦もむなしく、ついに高句麗の国都、平壌はおちいった(六六八)。
 唐は、平壌に安東都護府をおいた。
 こうして都護府のもとに、都督府や州県をおき、半島を支配するつもりであった。
 ところが新羅は、だまっていない。たちまち百済の旧領に攻めこんで、そこに駐留していた唐軍をうちやぶった。
 さらに北上して、高句麗の旧領にも攻めこむ。
 こんどは唐と新羅との戦争がはじまった。新羅のはげしい抗戦に、万里を遠征してきた唐軍は手をやいた。
 そればかりか、高句麗や百済の遺民も、反乱をおこす。
 ついに唐も、半島の占領をあきらめ、安東都護府を遼東(りょうとう=遼陽)にうつした(六七七)。
 こうして新羅は、はじめて韓民族による半島の統一を達成したのである。

 もっとも、今日における朝鮮半島の全部を支配したわけではない。
 高句麗の旧領のうち、大同江と、東岸の元山をむすぶ線から南が、新羅の領土になった。
 つまり、いまの三十九度線あたりが、新羅の領土の北限であった。
 ところで高句麗の旧領といえば、いまの朝鮮北半から中国の東北地方におよぶ。そのうち、南部は新羅の領土になった。
 西部の農耕地帯は、唐の領土に編入された。のこりの広大な地域は、どうなったのか。

















最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。