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カトリック情報 Catholics in Japan

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聖ペトロ・ダミアノ司教教会博士  St. Petrus Damiani E. et Doct.Eccl

2025-02-21 04:01:12 | 聖人伝
聖ペトロ・ダミアノ司教教会博士  St. Petrus Damiani E. et Doct.Eccl     記念日   2月21日



主イエズス・キリストの聖言に「汝等は世の光なり。(中略)汝等の光は人の前に輝くべし」(マテオ5-14,16)とあるが、中世紀の有名な教父、聖ペトロ・ダミアノ枢機卿こそは、まことにその熱烈な信仰と博識な知識を以て、冷淡不信の暗黒に迷っていた当時の人々を松明のごとく照らし、これに正しい途を示した「世の光」であったと言えよう。

 彼は1006年、イタリア、ラヴェンナ市の貧しい日傭取りの息子として生まれた。9歳の頃既に両親を失ったので、最初長兄の手で養育されたが、この人はあいにく冷酷な性質で、彼を邪魔者扱いしたため、司祭の職にあった次兄が見かねてやがて手元に引き取り、愛を以て育てる傍ら自ら初等教育を施した、そのうちにペトロが世にも稀な学才に恵まれていることを発見した彼は、それを十分に発揮させる為、後に弟を大学にまで送った。
 ペトロは次兄の恩に報いるため、日夜勉学にいそしんだ甲斐あって非常な好成績で大学を卒業した。しかし霊眼も暗くない彼は、つとに世間の名誉の浮き雲の如くはかないものであることを悟り、いかなる出世も思いのままの洋々たる前途を自ら葬って、ファエンザ市に程近い山中に隠遁し、草の庵を結んで祈りと修道に専念する身となったのである。
 人里離れて大自然の懐に抱かれた彼は、聖霊の御光に照らされる事いよいよ繁く、霊界の神秘を悟る事ますます深く、信仰は熱烈さを加えるばかりで、その苦行振りには感嘆を禁じ得ないものがあった。もとより謙遜な彼は、自分の徳の光を人の前に誇示するつもりなど毛頭無かったが、隠すよりは現れるというたとえの通り、聖人であるという評判は間もなく四方に響き渡った。で、その徳望を慕って教えを乞いに来る人々が多数ある中に、ベネディクト会大修道院長は、その修道院内部の改革に助力を与えられんことを懇願し、後には教皇までもペトロの人格と識見とを恃んで聖会信仰の振粛を企てられたほどであった。

 当時聖会は悲しくも規律乱れて、冷淡の風潮は平信徒はおろか修道者、聖職者階級までも浸食し、聖職売買の弊風がここ彼処に行われ、司祭も童貞を守らぬという有様であったから、教皇の願いを容れてかのような風紀の粛正に乗り出したペトロは、いにしえの洗者聖ヨハネの如く、イタリア、フランス、ドイツ諸国を巡り、舌端火を吐くような説教と、謹厳侵しがたい福音的生活の模範とを以て人々の心を動かし、遂に彼らの胸に再び信仰の聖火を燃え立たしめる事が出来たのであった。さればグレゴリオ、クレメンス、レオ、ステファノ、ニコラオ等諸教皇が彼を聖会復興の大恩人として尊敬され、またドイツ皇帝ヘンリコ3世が、彼の如き聖人と文通し得る事を無上の光栄と喜ばれたのも無理のない話であった。

 殊にステファノ教皇の如きはその功労に報いる為、1057年彼をオスチアの枢機卿の栄位に挙げられた。謙遜なペトロは再三これを辞退したが、辞退しきれずして遂に受けると、責任のいよいよ大きいことを痛感し、更には以前の熱心を倍加して革正事業に努力した。その為一部の人々から誤解や非難を蒙った殊もしばしばあったが、もとよりそれを意に介するような彼ではない、目的とするのは唯天主の御光栄と聖会の隆盛ばかりである。かような清い志を有する彼の活動が豊かな果を結んだ事は勿論であった。

 しかしようやく老境に入ったペトロは、一切の激務を離れて、好む所の祈りの生活に帰り、心静かに善終の準備がしたいという思いを抑えることが出来なかった。この望みはアレクサンデル教皇の時に叶えられた。けれども閑散の身になってからも彼はまた聖会の為重い任務を委ねられた。それはドイツ、フランクフルトの大会議に教皇使節として列席し、重大問題を解決した事である。そして1072年、ドイツからイタリアへ帰国の途中、彼の霊は天主の御召しを蒙り、生前の偉大な功績に対する報いを受ける為に天国に凱旋したのであった。

「大切なことは神に祈ることであって、神について書くことではない。もし神に祈らないのであれば、神の言葉を含む文を文法的に正しく書いても何にもならないのである。」 聖ペトロ・ダミアノの言葉


教訓

 聖ペトロ・ダミアノの立派な行為や言葉は当時及び後代の人に多大の感化を及ぼした。我々は我々の言葉、行為、祈り、善行などが、決してその場限りの一時的なものではなくて、必ず周囲の人々や後々の結果に影響を及ぼすものである事を忘れてはならない。それでこそ自分の欠点を改めて善に進み、他人を照らす「世の光」になる意義があるのである。







レオニッサの聖ヨゼフ証聖者   St Josefus a Leonissa  

2025-02-21 04:01:03 | 聖人伝
レオニッサの聖ヨゼフ証聖者   St Josefus a Leonissa     記念日 2月 20日


 西暦1556年北イタリアのミラノ市で聖フランシスコの流れをくむカプチン会修道者フェルノのヨゼフという一司祭が逝去した。この人は欧州に盛んな「四十時間の御聖体訪問」という信心の業をはじめて提唱したので知られているが、それはその名の如く、信者が聖堂を訪問し、四十時間、昼も夜も絶えず祭壇に顕示され給う御聖体に対し、祈りを献げる事をいみするのである。

 ところが丁度その同じ年、ウンブリアのアッシジにほど近い、レオニッサという町に、後年この「四十時間の御聖体訪問」の信心を盛大ならしめた聖人が呱々の声を挙げたのは一奇と言わざるを得ない。彼はデシデチのヨハネというさして裕福ではない伯爵の家に生まれ、受洗の折りにはオイフラニオという霊名を与えられた。幼くして両親を失い、ヴィテルボ大学教授である伯父の許に引き取られて養育されたが、添付の英才は間もなく人々の讃歎の的となるに至った。伯父は行く行くは彼を某公爵の令嬢と結婚させるつもりでいたけれど。本人は学生時代に種々の危険があったにもかかわらず無事に切り抜けた清い心をそのままに、世間的栄誉や家庭生活を望む気持ちは少しもなかったから、アッシジの聖フランシスコが創立したカプチン会に入ってヨゼフと言う修道名を授かり、人知れず着衣式も済ませたのである。
 これを知った伯父は事が志に違ったのを大いに憤り、暴力に訴えても彼の心を翻らせようとしたが、ヨゼフはあくまで踏み止まって完徳の道を歩む初志を守り通し、聖フランシスコの模範に倣い、或いは我が身を犠牲として信じ難いほどの難行苦行を行い、或いは昼夜祭壇の前に平伏して熱烈な祈りを献げるなど、ただ主を愛し、己を捨てる努力精進に余念がなかった。
 このように熾天使にも劣らぬ聖愛に燃えている彼であったから、信仰の為に生命を献げることはもとより望む所で、1587年カプチン会総長からトルコへの派遣の命令を受けるや、喜び勇んでその異教の国に赴き、コンスタンチノーっぷる市に奴隷となっているキリスト信者等を慰め救い出したのみならず回教の迷妄に沈んでいるトルコ人達を相手に、公然聖福音を宣べ伝え、殊にさまざまの事情や艱難に打ち負けて棄教した信者等に主の愛を説いて改心させるなど、盛んな活躍振りを示した。
 ヨゼフはなおそれに止まらず、トルコ国皇帝メレク・エル・カミルに聖教を伝えた聖フランシスコに倣おうと、ある日その城を訪れたが、たちまち衛兵に捕らえられ、牢獄に投げ込まれ、間もなく恐ろしい刑罰を受けることになった。それは鋭い鈎に左の手と右の足とを突き刺して宙に吊され、二日四十時間というもの責められたのである。当時あたかも33歳であったヨゼフは、イエズス御受難の年齢に、主と同様な苦しみを受けて致命し得る光栄を深く喜び、その恵みを与え給うた天主を、激しい痛みの中にも讃美謳歌して已まなかった。
 刑吏はいやが上にも彼を苦しめようと、その真下に火を焚いて燻しはじめた。黒煙はもうもうと渦巻き上がり、呼吸は一刻一刻苦しくなり、もはや最期と聖人は覚悟したが、その時皇帝より死一等を減ぜられ国外に追放される事になった。
 それからヨゼフは故国に帰り、今度はウンブリア地方を巡って、舌端火を吐く説教に、冷淡に陥った信者の心を再び天主への愛に燃え立たしめた。その説教は少なくとも一日三四度に上り、時には更にお多きをかぞえ、それに依って改心した者の数は幾ばくなるやを知らぬというから、彼の活動のいかに目覚ましくかつ有効であったか察せられよう。
 人々を冷淡や悪欲から救うために、彼が「四十時間の御聖体訪問」の信心普及に努めたのもその頃の事であった。彼は自分が四十時間責め苦を受けた身であることを忘れず、その時わが胸に燃えたぎっていたような、イエズスに対する愛と犠牲の精神をその信心の業によってあらゆる信者に鼓吹しようとしたのである。

 かようにイタリアに於いて使徒的活動を続ける事二十二年、ヨゼフは重い癌を患い病床に伏せる身となったが、その手術中医師が彼の身動きすることを懼れて、紐で台に縛りつけようとした所、彼は手にしている十字架を示し
「紐よりもこの方が強いから安心です」と言ったという。しかしあらゆる治療も無効に終わり、1612年2月4日彼は帰天したが、その激しい病苦の中にも終始天主への讃美を絶たなかったと伝えられている。
 その後彼の取り次ぎに依って奇跡の行われた事数知れず、為に1746年、時の教皇ベネディクト14世はこのレオニッサのヨゼフを聖人の列に加えられた。

教訓

 我等はレオニッサの聖ヨゼフを鑑と仰ぎ、彼の如く熱烈な信仰を以て天主の為には如何なる犠牲をも辞せぬ覚悟を定め、弱き心を強められん為にこの聖人の取り次ぎを願おうではないか。








ピアツェンツァの聖コンラド修道者   St. Conradus a Piacenza C.

2025-02-21 04:00:54 | 聖人伝
ピアツェンツァの聖コンラド修道者   St. Conradus a Piacenza C.     記念日 2月19日


 物質的不幸がかえって精神的幸福を招く事はしばしばあるが、聖コンラドの生涯もその一例であるといえよう。

 彼は北イタリアのロンバルジア州ピアツェンツァ市に生まれ、地位も高く財産も豊かで、何不足ない身であった。別に働かずとも食うに困らぬ彼は道楽として狩猟を殊の外好んでいた。
 ある日コンラドは例によって山へ狩りに行ったが、その時射損なった一匹の獣が、とある藪の繁みに逃げ込んでしまった。すると彼はそれを追い出したいばかりに、浅はかにもその藪に火を放った。所が折からの晴天続きで、草木がすっかり乾ききっていたからたまらない。火は見る見るうちに燃え広がって、手のつけようもない山火事になってしまった。
 それと知った近所の人々は、急いで駆けつけて消火に努めたが、鎮火した時は既に広大な山林耕地が燃え尽き、その被害は極めて甚大であった。
 自分の軽率からこの大事を引き起こしたコンラドの驚愕と痛心はどれほどであったろう!彼はその場にいたたまれずして、密かに我が家に逃げ帰ったのである。

 その内にたまたまそこに居合わせた一農夫が、憐れにも放火の嫌疑を受けて、官憲の手に捕らわれた。そして当時の習慣である拷問にかけられ、苦痛に耐えかねて、心にもない自白をし、いよいよ真犯人と決定されて濡れ衣のまま死刑台に上る事となったのである。
 このことを伝え聞いたコンラドは、良心の呵責に胸も破れそうであった。遂に彼は何度も煩悶を繰り返した後、堅い決意を以て自首し、憐れな百姓の無実を晴らし、自分を如何様にも処刑して頂きたい、また人々にかけた損害は、自分の全財産で能う限り償いたい、と至誠を披瀝して申し出たのであった。
 が、その頃はもう人々の激昂もだいぶ鎮まりかけていた。そして結局コンラドは暫く禁固された後釈放されるに至ったのである。けれどもこの恐るべき体験は、彼に霊の覚醒を促さずにはいなかった。彼は獄中にあって、しみじみこの世の事物のはかなさを悟った。そうなると今までは通り一遍であった彼の信仰も、熱烈さを加えずにはいない。彼は出獄帰宅するとすぐ妻と相談し、共に天主に身を献げる事とし、妻がピアツェンツァ市にある聖クララ修道会の修院に入るのを待って自分は一介の巡礼に身をやつし、永遠の都ローマに向けて旅立った。そしてそこに数ある大聖堂を巡礼し、またアッシジの聖フランシスコが創立された第三会に入会し、後南下して、シシリア島のノトにある或る病院に人知れず看護人として住み込み、更に山中に庵を結んで祈りと苦行の隠遁生活を始め、四十年の久しきに及んだ。その間彼は金曜ごとに下山し、或いは生活の必需品を求めたり、或いは告解したり、或いはその町に名高い聖十字架に尊敬を献げたりした。彼の祈りを求める人々が絶えず訊ねてきて、病気を癒してもらう者もあった。シラクサの司教さえもコンラドの祝福を受けるために訪れた。

 いよいよこの世を去る日の近づいた事を知ったコンラドは1351年2月19日程近い村の聖堂を訪れ、ミサ聖祭にあずかり、御聖体を拝領し、御ミサが済んでも席を去りやらず、なおも祈りにふけっていた。しばらくしてその聖堂の司祭が、食事を共にしようと呼びに行って見ると、コンラドは主イエズスの御像の前に、祈りに我を忘れた如く、跪いたままこときれていたという。その後コンラドの遺体はノトの聖ニコラス教会の中に葬られ、そこは多くの巡礼者たちが来る場所となっている。

教訓

 聖書に「火もし飛びていばらにうつり、その積み上げたる穀物、或いは未だ刈らざる穀物、或いは田畑を焼かば、その火を焚きたる者は必ずこれを償うべし」(出エジプト記 22-6)とあるが、聖コンラドもはからず大事を引き起こして人々に損害をかけた時潔く全財産をなげうってこれを償った。じつを言えばもとは悪意から出た行為ではなく、ただ軽率のために起こったことであるから、罪という程でもなく、従って償いも義務ではなかったであろう。しかしこれを敢えてした彼の心は誠に高潔で、さればこそ天主も彼を聖人の道へ招き給うたのである。始めから人に損害を与えるつもりでした場合はもちろん罪で、ただ告白するのみならず、できる限りその償いをしなければこの罪は赦されない。