カトリック情報 Catholics in Japan

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4-8-3 洛陽遷都と龍門

2019-08-08 14:31:52 | 世界史
『六朝と隋唐帝国 世界の歴史4』社会思想社、1974年

8 雲岡と龍門
3 洛陽(らくよう)遷都と龍門

 雲岡の石仏を造営したのは文成帝であったが、その皇后の馮(ふう)氏(文明太后)は、文成帝の死後、子の献文帝をへて、孫の孝文帝の即位ののちまで、政治の実権をにぎった。
 均田制も、そのもとで実施された。北魏から唐代のはじめ(七世紀)にかけて、鮮卑族を中心にして中国が支配されたが、皇后が政治のうえに活躍することがすこぶる多い。
 それは中国史上、めずらしいことである。
 しかも皇后が鮮卑族の出身であると、漢人であるとを問わない。
 このことは鮮卑族における婦人の地位が、漢人とはちがっていることに原因があると考えられよう。
 孝文帝の太和十四年(四九〇)に太后は死去し、孝文帝の親政となった。
 孝文帝は幼少のときから読書をこのみ、いつも手に書物をすてなかった。
 儒家の経典である五経は、読めばすぐ意味がわかり、先生につかずに奥義にまで通じたといわれる。
 また文章もうまく、馬上より文章を口授し、書きあがって一字もあらためず、詔勅もじぶんで書いた。
 このように儒家の教養を身につけて成長し、漢文明の真髄にふれてゆくうちに、ふかくそのとりことなった。
 北魏の国家を興隆させるには、漢人ふうに徹しなければならないと考えるようになってきた。
 しかも当時の平城(大同)は、中国を支配するには北によりすぎていたし、気候もわるかった。
 そこで孝文帝は、なんとかして洛陽に遷都したいと思った。
 しかし、鮮卑族の臣僚たちは、なかなか賛成しない。
 ついに太和十七年(四九三)、南朝の斉をうつと称して、洛陽にむかった。
 洛陽についたところ、雨が降りつづいてやまない。
 群臣は南征の中止をこうた。そこで南征を中止するかわりに、洛陽に都をうつすことを説得してしまったのである。
 遷都ののち孝文帝のとった政策に、胡(こ)服胡語(胡とは、鮮卑族をさす)の禁がある。
 しかし胡服を禁ずる詔勅を発布してから二年半ほどしても、せまい襟(えり)で、筒袖(つつそで)の胡服を着るて洛陽を歩いている婦人があった。
 中国の服装は、がんらい寛衣(かんい)といって、だぶだぶのものである。
 鮮卑族は、いまの洋服ふうのものを着ていた。それを中国ふうに改めようとしたのである。
 首都でさえ、このように実行されなかったのであるから、とくに北方にのこっている鮮卑族の人たちには、胡服の禁はなかなかおこなわれなかったであろう。
 つぎに胡語の禁は、鮮卑語をいっきょに禁止したわけではない。
 まず三十歳以下の鮮卑族出身の官吏に鮮卑語をつかうことを禁じ、ことさらにつかうものがあると、官職を左遷した。
 もともと鮮卑族には言語はあっても、文字はない。
 しかし政治をおこなうには、どうしても文字が必要である。
 この点からも、言語の改革は必要なのであった。
 進駐してきた鮮卑族のほうから、じぶんの言語はやめて中国語にしようとしたのであり、孝文帝の漢化政策は、かなり徹底したものであった。
 しかし、あまりにも漢文明に心酔して、風俗や習慣にまでおよぶ改革を急激におこなおうとしたことは、かえって禍根をのこした。
 ゆきすぎた漢化は、やがて反動をまねき、北魏を混乱させる原因となった。
 そのほか、孝文帝のとった漢化政策には、鮮卑族の姓氏を漢人ふうにあらためたことがある。
 このころ漢人で北魏につかえるものは、その家柄をほこっていた。
 しかし鮮卑族には姓氏さえもなく、部族名がこれにかわるものであった。
 そこで拓跋(たくばつ)氏を元氏に、勿忸于(ふっちゅうう)氏を于(う)氏というように、部族名を漢人ふうの姓にあらためた。
 しかし、これものちに反感をまねき、北魏がおとろえると、その反動として漢人に鮮卑ふうの姓(虜姓=りょせい)をあたえることもおこなわれた。
 さて、いちおう洛陽遷都がおちつくと、平城のちかくの雲岡の石仏群のことを思いだす。これにならって洛陽の伊水にのぞむところに龍門の大石窟をひらき、仏教を興隆したいという民衆の要望に、こたえようとした。
 孝文帝の子の宣武帝は、即位の翌年の景明元年(五〇〇)、父の孝文帝と、曾祖母文明太后のために石窟二ヵ所をひらいた。さらに宣武帝じしんのために一窟をひらき、高さ百八、南北百四十尺、完成に二十三年、八十余万人の労働力が投ぜられた。ここの開窟は、のち唐代までつづき、雲岡とともに貴重な仏教美術の遺跡となった。
 また宣武帝の子の孝明帝のときに、洛陽城内に旧都平城より永寧寺をうつして仏教の中心とした。
 永寧寺のことは、当時の人の書いた『洛陽伽藍(がらん)記』(伽藍とは寺のこと)にくわしく記されている。

 塔は九層で、高さ九百尺、そこから宮廷の内部を見ると、手のなかのようであり、都を望むと家の庭のようで、都から去ること百里のところからも望め、金像三千が安置されていた。
 わが国でダルマとして名だかい菩提(ぼだい)達磨(だるま)が、このとき西方よりここにきて、
 「永年諸国をめぐってきたが、この寺のようなりっぱさは閻浮(えんぶ=世界)にないところだ」と感嘆し、「南無(なむ)」ととなえた。
 そのほか仏寺は、じつに一千三百六十七寺を数えたという。
 しかし、このような洛陽の繁栄も、まもなく北方にのこって華美な生活に反感をもつ人たちの軍馬にあらされることとなる。

公教要理教案1-3 聖霊について

2019-08-08 05:59:46 | 要理(カテキズム)
『公教要理教案』天主堂出版、1924年

(1)聖霊について 3

(実例)

 聖霊降臨の日に、使徒等は光と熱とを蒙ったばかりではない。また、方言の賜(たまもの)をも戴きました。

 方言の賜とは、使徒等が自国の言葉で、お話をなさいますと、どこの国の人でも、それをはっきり解るという不思議な賜であります。

 もし、その場に私等日本人が居ましたら、立派に日本語のお説教を聴くことができたはずでした。

 して、その賜には、当時使徒等に限らず、普通の信者にでも、殊に堅振を授かったついでに、与えられることが往々にしてありました。

 たとえば、聖ペトロが、セザリアの町において、異教人である百夫長コルネリウスの宅に招待され、御説教をしておいでになりますと、聖霊が一同の上にお降りになって、かれらは異なる言葉を語って、天主様を崇め奉るに至りました。



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勉強家と不勉強家の差 聖イグナチオ・ロヨラ

2019-08-08 03:53:26 | 格言・みことば
学問では、勉強家と不勉強家の力の差ははっきりと現われるものですが、それと同じことが、私たち人間をとりこにしている欲望と弱さとに打ち勝ち、徳を修める場合にも起こります。怠惰な人は自己と戦わないので、心の平和に至ることも、どんな徳を完全に修めることも、なかなかできないのはおろか、死ぬまでできないことさえあるのにひきかえ、よい意味での猛烈人間は、そのどちらにも短いあいだに長足の進歩をとげることは確実だからです。

聖イグナチオ・ロヨラ 「コインブラのイエズス会士への書簡」1547年5月7日

聖ドミニコ司祭証聖者   St. Dominicus C.

2019-08-08 03:50:48 | 聖人伝
聖ドミニコ司祭証聖者   St. Dominicus C.           記念日 8月8日


 カトリック教会に数ある大修道会の中でも、ドミニコ会の如きは最も大にして又最も名高い一つであろう。その創立者こそここに語るスペインはカラロガ市の出身、聖ドミニコ・グスマンに外ならない。
 彼の父はフェリクス・グスマン、母は貴族フォン・アザ家の出でヨハンナと称し、共に甚だ信仰厚く、ヨハンナの如きは1828年に福者に列せられたほどであった。ドミニコはこういう両親の間に1070年長子として生まれた。そしてその行い届いた注意の下に教育され、7歳を迎えてからは母方の叔父の敬虔な一司祭の手に委ねられた。
 彼は14歳の少年の身で早くもヴァレンシアの大学に入る事を許された。それから10年間は全身を打ち込んで学問を研究し24歳には司祭となり、その後直ちにスペインのオスマなる司教座聖堂付き参事会員に補せられた。この参事会員たちはいずれも長い白衣に、頭巾のついた黒のマントを着用していたが、後にドミニコ会が成立するや、その制服に選ばれ今日に及んだのは即ち右の服装なのである。
 さて若き司祭のドミニコは、すべてのわが務めを両親の満足するまで果たし、時としては人々の救霊の為徹宵祈り明かすことも珍しくなかった。そして間もなく参事院の副院長となり、1201年には院長となった。
 しかし天主は彼をもっと世に知らしめたく思し召されたのであろう。1203年スペイン国王アルフォンゾが南フランスの王侯に使者を遣わし、その息女をわが太子の嫁として貰い受けたい旨を申し入れられた時、その一行にドミニコも加えられたが、彼は逢うほどの人に深い感銘を与えずにはいなかった。それは心に磨いた聖徳の光が、自ずと外部に漏れ出てて、その容貌に神々しい輝きを添えていた上に、彼が常に愛深く柔和であったからである。
 使節団は念々南フランスに到着したが、折角来てもその効がなかった。というのは、目指す姫君が既にこの世の人ではなかったのである。で、一行は仕方なくそのまま引き上げる事としたが、途中通りかかったのは、アルビ派の異端が起こって、動揺を感じている地方であった。そこには教皇使節シトー修院長アルノルドやカステルのペトロも一年前から派遣されていた。彼等二人は説教に勧告に、全力を挙げて異端者の改心に努めたが、更に効果が挙がらなかった。するとある日「もし異端者の改心を望まれるなら、敵宗派の開祖のように、貧しく、謙遜に苦行の生活をせねばなりません」と忠告した者がある。それはヂエゴという人であったが、その意見にはドミニコも大いに共鳴し、遂に相共に司教使節を助ける事となり、清貧の簡易生活を営み、厳しい苦行を実行した。この聖戦の僚友ヂエゴは残念にも1207年黄泉の客となったが。ドミニコはなおもその活動を続け1215年に至った。その間には教敵の憎悪を受けて殺されようとした事も、幾度あったか解らない。けれども幸いいつも天主の御保護の下に難を免れる事が出来たのであった。
 ところが敵は術を変えて、今度は公開討論を申し込んで来た。ドミニコはもちろん望む所と応戦し、見事相手を論破して堂々たる勝利を獲得した。彼がどこで説教するときにも徳に力説したのは信者はよろしく天使祝詞を度々、しかも一定の数だけ誦えるべきであるという事であった。それこそロザリオの祈りのはじめに外ならぬが、彼の提唱は多大の反響を得、やがて一般にロザリオが愛用されるようになった。
 その中さまざまの弊害は宗教上の知識の不足から生ずるのであるから、説教及び宗教教育を本領とする修道会創立の必要があるという事が次第に考えられて来た。ヂエゴ没後同志の司祭数人と説教や宗教教育に活動していたドミニコはその機運に乗じ、ツルーズの司教フルクの援助を得て一つの修道会を結成、前述の如くドミニコが参事会員であった時の服装を以て会服と定めた。その頃二、三の教区から、是非司教に就任してほしいと、頻りに懇望されたが、謙遜な彼はことごとくこれを辞退してしまった。
 1215年には既に6人の会員があった。ドミニコは彼等をツルーズのある家に住まわせ、博士のアレクサンデルを院長兼指導者と定め、自分はローマに赴いて教皇の認可を求めた。時の教皇イノセンス3世は個人としてはその望みに応じたかったのであるが、暫く前に最早新修道会は一切認めぬ方針に決定していたので、大いに当惑された、しかし天主の示現もあり結局はその承認を与えられた。
 ドミニコはまた天主の御照らしを蒙ってアッシジのフランシスコの聖人であることを悟り、フランスへ帰る前夜を訪問し、心からの交わりを結んだ。ツルーズに帰って見ると、会員の数は17人にも増加していた。彼はその為聖アウグスチノの戒律に基づいて会則を編み、なお会の目的なる説教や修道生活に就いても詳しく規定する所があった。
 それから暫くしてドミニコは、会則に対する最後の認可を受ける為、再びローマに行った。その時はもう先のイノセンスは崩御になり、後継者のホノリオ3世がそれを許され、「説教修道会」という名前まで賜った。そして一度親しくドミニコの説教を聴聞されたのみならず、同会の一修士を神学顧問として側近く置くよう取りはからわれたが、この定めは今日に於いても守られている。
 ドミニコは急ぎツルーズに帰り、兄弟達を世界に送り出す決心をなし、之を友人にして保護者なるフルク司教に打ち明けた。聞いて司教が驚くと、ドミニコは言った。
 「麦粒は積んでおけば腐るばかりですが、之を蒔けば実るではないか!」
 かくて彼はかつてイエズスが使徒達を遣わされたように弟子を二、三人ずつ全ヨーロッパに送った。その出発は1217年の9月13日であった。彼等はそれぞれの国に行って修道院を建て、そこで修練者を採用した。そして4年後の1221年には実に500人の説教修道者が得られたのであった。
 その中に婦人の為のドミニコ第二修道会や在俗の人々の為の第三会なども生まれ、これ亦急速な発展振りを示した。
 ドミニコ自身はローマに行き、そこで活動すると共に全修道会の統率管理に当たった。ホノリオ教皇は彼に聖シクストの修道院及び聖堂を、後には更に聖女サビナの修道院と聖堂を与えられた。これらは即ちドミニコ会の本部となったものである。
 激しい不断の活動と遠隔の修道院への巡回-それを彼は徒歩でしたのであるが-は、彼の体力を消耗すること甚だしかった。しかし彼は依然として徳を磨き愛の業を為すのに余念もなかった。彼は戒律、殊に清貧を厳守した。故に1220年の同会最初の総会に、説教の兄弟は財産を有せず、一般に喜捨によって生活すべきものとすと定めたのも不思議ではない。
 その一年後ヴィテルポに於いて彼は臨終の間近きを感じ、大いなる聖愛に燃えつつ死の準備をした。そして「私が死んだら兄弟達の墓の真ん中に埋めてほしい」と二度までに院長に遺言し、1221年8月6日永遠の故郷に向かって旅立った。

教訓

 聖ドミニコの模範に倣い、進んでしばしばロザリオの祈りを誦えよう。彼はそれによって、アルビ派異端者を帰正させる上に多大の効果を収めた、その後もこの祈祷の力で教敵に勝利を得たことは幾度もある。故に今もロザリオをつまぐれば自分の上にも他人の上にも豊かな聖寵を蒙ることは疑いない。

 


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