『六朝と隋唐帝国 世界の歴史4』社会思想社、1974年
8 雲岡と龍門
3 洛陽(らくよう)遷都と龍門
雲岡の石仏を造営したのは文成帝であったが、その皇后の馮(ふう)氏(文明太后)は、文成帝の死後、子の献文帝をへて、孫の孝文帝の即位ののちまで、政治の実権をにぎった。
均田制も、そのもとで実施された。北魏から唐代のはじめ(七世紀)にかけて、鮮卑族を中心にして中国が支配されたが、皇后が政治のうえに活躍することがすこぶる多い。
それは中国史上、めずらしいことである。
しかも皇后が鮮卑族の出身であると、漢人であるとを問わない。
このことは鮮卑族における婦人の地位が、漢人とはちがっていることに原因があると考えられよう。
孝文帝の太和十四年(四九〇)に太后は死去し、孝文帝の親政となった。
孝文帝は幼少のときから読書をこのみ、いつも手に書物をすてなかった。
儒家の経典である五経は、読めばすぐ意味がわかり、先生につかずに奥義にまで通じたといわれる。
また文章もうまく、馬上より文章を口授し、書きあがって一字もあらためず、詔勅もじぶんで書いた。
このように儒家の教養を身につけて成長し、漢文明の真髄にふれてゆくうちに、ふかくそのとりことなった。
北魏の国家を興隆させるには、漢人ふうに徹しなければならないと考えるようになってきた。
しかも当時の平城(大同)は、中国を支配するには北によりすぎていたし、気候もわるかった。
そこで孝文帝は、なんとかして洛陽に遷都したいと思った。
しかし、鮮卑族の臣僚たちは、なかなか賛成しない。
ついに太和十七年(四九三)、南朝の斉をうつと称して、洛陽にむかった。
洛陽についたところ、雨が降りつづいてやまない。
群臣は南征の中止をこうた。そこで南征を中止するかわりに、洛陽に都をうつすことを説得してしまったのである。
遷都ののち孝文帝のとった政策に、胡(こ)服胡語(胡とは、鮮卑族をさす)の禁がある。
しかし胡服を禁ずる詔勅を発布してから二年半ほどしても、せまい襟(えり)で、筒袖(つつそで)の胡服を着るて洛陽を歩いている婦人があった。
中国の服装は、がんらい寛衣(かんい)といって、だぶだぶのものである。
鮮卑族は、いまの洋服ふうのものを着ていた。それを中国ふうに改めようとしたのである。
首都でさえ、このように実行されなかったのであるから、とくに北方にのこっている鮮卑族の人たちには、胡服の禁はなかなかおこなわれなかったであろう。
つぎに胡語の禁は、鮮卑語をいっきょに禁止したわけではない。
まず三十歳以下の鮮卑族出身の官吏に鮮卑語をつかうことを禁じ、ことさらにつかうものがあると、官職を左遷した。
もともと鮮卑族には言語はあっても、文字はない。
しかし政治をおこなうには、どうしても文字が必要である。
この点からも、言語の改革は必要なのであった。
進駐してきた鮮卑族のほうから、じぶんの言語はやめて中国語にしようとしたのであり、孝文帝の漢化政策は、かなり徹底したものであった。
しかし、あまりにも漢文明に心酔して、風俗や習慣にまでおよぶ改革を急激におこなおうとしたことは、かえって禍根をのこした。
ゆきすぎた漢化は、やがて反動をまねき、北魏を混乱させる原因となった。
そのほか、孝文帝のとった漢化政策には、鮮卑族の姓氏を漢人ふうにあらためたことがある。
このころ漢人で北魏につかえるものは、その家柄をほこっていた。
しかし鮮卑族には姓氏さえもなく、部族名がこれにかわるものであった。
そこで拓跋(たくばつ)氏を元氏に、勿忸于(ふっちゅうう)氏を于(う)氏というように、部族名を漢人ふうの姓にあらためた。
しかし、これものちに反感をまねき、北魏がおとろえると、その反動として漢人に鮮卑ふうの姓(虜姓=りょせい)をあたえることもおこなわれた。
さて、いちおう洛陽遷都がおちつくと、平城のちかくの雲岡の石仏群のことを思いだす。これにならって洛陽の伊水にのぞむところに龍門の大石窟をひらき、仏教を興隆したいという民衆の要望に、こたえようとした。
孝文帝の子の宣武帝は、即位の翌年の景明元年(五〇〇)、父の孝文帝と、曾祖母文明太后のために石窟二ヵ所をひらいた。さらに宣武帝じしんのために一窟をひらき、高さ百八、南北百四十尺、完成に二十三年、八十余万人の労働力が投ぜられた。ここの開窟は、のち唐代までつづき、雲岡とともに貴重な仏教美術の遺跡となった。
また宣武帝の子の孝明帝のときに、洛陽城内に旧都平城より永寧寺をうつして仏教の中心とした。
永寧寺のことは、当時の人の書いた『洛陽伽藍(がらん)記』(伽藍とは寺のこと)にくわしく記されている。
塔は九層で、高さ九百尺、そこから宮廷の内部を見ると、手のなかのようであり、都を望むと家の庭のようで、都から去ること百里のところからも望め、金像三千が安置されていた。
わが国でダルマとして名だかい菩提(ぼだい)達磨(だるま)が、このとき西方よりここにきて、
「永年諸国をめぐってきたが、この寺のようなりっぱさは閻浮(えんぶ=世界)にないところだ」と感嘆し、「南無(なむ)」ととなえた。
そのほか仏寺は、じつに一千三百六十七寺を数えたという。
しかし、このような洛陽の繁栄も、まもなく北方にのこって華美な生活に反感をもつ人たちの軍馬にあらされることとなる。
8 雲岡と龍門
3 洛陽(らくよう)遷都と龍門
雲岡の石仏を造営したのは文成帝であったが、その皇后の馮(ふう)氏(文明太后)は、文成帝の死後、子の献文帝をへて、孫の孝文帝の即位ののちまで、政治の実権をにぎった。
均田制も、そのもとで実施された。北魏から唐代のはじめ(七世紀)にかけて、鮮卑族を中心にして中国が支配されたが、皇后が政治のうえに活躍することがすこぶる多い。
それは中国史上、めずらしいことである。
しかも皇后が鮮卑族の出身であると、漢人であるとを問わない。
このことは鮮卑族における婦人の地位が、漢人とはちがっていることに原因があると考えられよう。
孝文帝の太和十四年(四九〇)に太后は死去し、孝文帝の親政となった。
孝文帝は幼少のときから読書をこのみ、いつも手に書物をすてなかった。
儒家の経典である五経は、読めばすぐ意味がわかり、先生につかずに奥義にまで通じたといわれる。
また文章もうまく、馬上より文章を口授し、書きあがって一字もあらためず、詔勅もじぶんで書いた。
このように儒家の教養を身につけて成長し、漢文明の真髄にふれてゆくうちに、ふかくそのとりことなった。
北魏の国家を興隆させるには、漢人ふうに徹しなければならないと考えるようになってきた。
しかも当時の平城(大同)は、中国を支配するには北によりすぎていたし、気候もわるかった。
そこで孝文帝は、なんとかして洛陽に遷都したいと思った。
しかし、鮮卑族の臣僚たちは、なかなか賛成しない。
ついに太和十七年(四九三)、南朝の斉をうつと称して、洛陽にむかった。
洛陽についたところ、雨が降りつづいてやまない。
群臣は南征の中止をこうた。そこで南征を中止するかわりに、洛陽に都をうつすことを説得してしまったのである。
遷都ののち孝文帝のとった政策に、胡(こ)服胡語(胡とは、鮮卑族をさす)の禁がある。
しかし胡服を禁ずる詔勅を発布してから二年半ほどしても、せまい襟(えり)で、筒袖(つつそで)の胡服を着るて洛陽を歩いている婦人があった。
中国の服装は、がんらい寛衣(かんい)といって、だぶだぶのものである。
鮮卑族は、いまの洋服ふうのものを着ていた。それを中国ふうに改めようとしたのである。
首都でさえ、このように実行されなかったのであるから、とくに北方にのこっている鮮卑族の人たちには、胡服の禁はなかなかおこなわれなかったであろう。
つぎに胡語の禁は、鮮卑語をいっきょに禁止したわけではない。
まず三十歳以下の鮮卑族出身の官吏に鮮卑語をつかうことを禁じ、ことさらにつかうものがあると、官職を左遷した。
もともと鮮卑族には言語はあっても、文字はない。
しかし政治をおこなうには、どうしても文字が必要である。
この点からも、言語の改革は必要なのであった。
進駐してきた鮮卑族のほうから、じぶんの言語はやめて中国語にしようとしたのであり、孝文帝の漢化政策は、かなり徹底したものであった。
しかし、あまりにも漢文明に心酔して、風俗や習慣にまでおよぶ改革を急激におこなおうとしたことは、かえって禍根をのこした。
ゆきすぎた漢化は、やがて反動をまねき、北魏を混乱させる原因となった。
そのほか、孝文帝のとった漢化政策には、鮮卑族の姓氏を漢人ふうにあらためたことがある。
このころ漢人で北魏につかえるものは、その家柄をほこっていた。
しかし鮮卑族には姓氏さえもなく、部族名がこれにかわるものであった。
そこで拓跋(たくばつ)氏を元氏に、勿忸于(ふっちゅうう)氏を于(う)氏というように、部族名を漢人ふうの姓にあらためた。
しかし、これものちに反感をまねき、北魏がおとろえると、その反動として漢人に鮮卑ふうの姓(虜姓=りょせい)をあたえることもおこなわれた。
さて、いちおう洛陽遷都がおちつくと、平城のちかくの雲岡の石仏群のことを思いだす。これにならって洛陽の伊水にのぞむところに龍門の大石窟をひらき、仏教を興隆したいという民衆の要望に、こたえようとした。
孝文帝の子の宣武帝は、即位の翌年の景明元年(五〇〇)、父の孝文帝と、曾祖母文明太后のために石窟二ヵ所をひらいた。さらに宣武帝じしんのために一窟をひらき、高さ百八、南北百四十尺、完成に二十三年、八十余万人の労働力が投ぜられた。ここの開窟は、のち唐代までつづき、雲岡とともに貴重な仏教美術の遺跡となった。
また宣武帝の子の孝明帝のときに、洛陽城内に旧都平城より永寧寺をうつして仏教の中心とした。
永寧寺のことは、当時の人の書いた『洛陽伽藍(がらん)記』(伽藍とは寺のこと)にくわしく記されている。
塔は九層で、高さ九百尺、そこから宮廷の内部を見ると、手のなかのようであり、都を望むと家の庭のようで、都から去ること百里のところからも望め、金像三千が安置されていた。
わが国でダルマとして名だかい菩提(ぼだい)達磨(だるま)が、このとき西方よりここにきて、
「永年諸国をめぐってきたが、この寺のようなりっぱさは閻浮(えんぶ=世界)にないところだ」と感嘆し、「南無(なむ)」ととなえた。
そのほか仏寺は、じつに一千三百六十七寺を数えたという。
しかし、このような洛陽の繁栄も、まもなく北方にのこって華美な生活に反感をもつ人たちの軍馬にあらされることとなる。