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4-7-4 陶淵明と謝霊運

2019-08-01 23:28:39 | 世界史
『六朝と隋唐帝国 世界の歴史4』社会思想社、1974年

7 六朝の文化
4 陶淵明(とうえんめい)と謝霊運(しゃれいうん)

 曹操(そうそう)父子を中心につくられた詩風、その時代の名をとって、建安(けんあん)の風骨などとよばれる詩風は、その後かならずしも正しくは受けつがれなかった。
 詩形こそ、かれらがはじめた五言(ごごん)詩が主流を占めたけれども、玄学の流行の影響で、「りくつっぼくて、味気ない」(詩品)詩ばかりがつくられたからだという。
 しかしやがて、この退屈をやぶるふたりの詩人があらわれる。
 ひとりは田園詩人の名で呼ばれる陶淵明(とうえんめい、東晋末期)、他のひとりは、山水詩人の名で呼ばれる謝霊運(しゃれいうん、宋)である。
 陶淵明が地方の小県の知事であったとき、上級官庁から監察官がやってきた。
 部下たちは衣冠(いかん)束帯(そくたい)して出むかえるようすすめたけれども、
 「われ五斗米(ごとべい)のために郷里の小人にむかいて腰を折るあたわず。」
 わずかのサラリーのために小僧にぺこぺこできるか、そういって役人生活にきりをつけ、「帰りなんいざ」とうたいつつ、廬山(江西省)の南にある故郷にひきこもったのであった。
 かれはそこでみずからはたけを耕し、純朴な農人とまじわり、こよなく酒を愛する生活にはいった。
 そして人間の真実――かれはそれを真と表現する――について思索し、詩にうたったのである。
 かれの自伝「五柳(ごりゅう)先生伝」のいうところに、しばらく耳をかたむけてみることにしよう。
 「先生は何許(いずこ)の人なるかを知らず。
 またその姓と字(あざな)とをも詳(つまび)らかにせず。
 宅(いえ)の辺(ほとり)に五つの柳(やなぎ)の樹(き)あり。よりて以(もっ)て号となす。
 閑(ひそ)まり静かにして言(ことば)すくなく、栄(ほまれ)と利(とみ)とを慕(した)わず。
 読書をこのむも甚(む)りに解することを求めず。
 ただ意(こころ)に会(かな)うことあるたびに、すなわち欣然(きんぜん)として食をすら忘る。
 性(うま)れつき酒を嗜(この)むも、家まずしければ常には得(う)るあたわず。
 親旧(しりびと)その此(かく)のごとくなるを知り、あるいは酒を置(もう)けて招くことあれば、造(いた)り飲みて輒(つね)に尽(つ)くす。
 期(ほど)とするところは必ず酔うことにあり。すでに酔えば退く。
 去るにも留まるにも曾(いささ)かも吝(きたな)き情(こころ)なし。
 環(せま)き堵(へや)は蕭然(しょうぜん)として、風と日ざしとをおおわず。
 みじかき褐(けごろも)は穿(あな)あき結(そそ)け、箪(わりご)と瓢(ふくべ)はしばしばむなしきも、晏如(あんじょ)としてやすらかなり。
 つねに文章を著わしてみずから娯(たの)しむ。いささか己(おのれ)の志を示すのみ。懐(おもい)は得失に忘(むな)し。
 ここを以(もっ)て自(み)を終わる。」

 ところで陶淵明が田園生活にはいったのは、ちょうど東晋王朝をうばおうとする劉裕(りゅうゆう)の野心が、日ましに露骨にあらわれてくるころであった。
 それゆえ後世の批評家は、かれの詩の表面の平静さにもかかわらず、その底には世の不正に対するはげしい感情がうずまいているのだ、といっている。
 かれの全集をはじめて緇んだ梁の昭明(しょうめい)太子も、
 「陶淵明の詩には篇々に酒があらわれるのをいぶかるものがあるが、自分のみるかぎり、かれの目的は酒そのものにあるのではなくして、酒にかこつけて韜晦(とうかい)しているにすぎない」
 と述べている。
 ここには、連作「飲酒(いんしゅ)」の第五首をあげよう。
  結廬在人境
  而無車馬喧
  問君何能爾
  心遠地自偏
  采菊東縦下
  悠然見南山
  山気日夕佳
  飛鳥相与還
  此中有真意
  欲辨已忘言   廬(いおり)をむすびて人の境(きょう)にあるに
  しかも車馬の喧(さわが)しさなし
  君に問う 何ゆえに能(よ)く爾(しか)るやと
  心遠(のど)かなれば地もおのずと偏(ひそ)まるなり
  菊を東の籬(まがき)のもとに采(と)れば
  悠然(ゆうぜん)として南山の見ゆ
  山の気は日の夕(ゆうべ)なるままに佳(よろ)しく
  飛ぶ鳥の相与(あいつ)れだちて還(かえ)りゆく
  このなかにこそ真の意(こころ)あり
  辨(あげ)つらわんと欲(おも)いたれど已(は)や言(ことば)を忘れたり

 わが夏目漱石が『草枕』のなかに、この詩の「采菊東籬下、悠然見南山」の一句をひいて、つぎのような感想をのべているのを示しておこう。
 「只(ただ)それきりの裏(うら)に暑苦しい世の中を丸(まる)で忘れた光景が出てくる。
 垣の向うに隣の娘が覗(のぞ)いてる訳でもなければ、南山に親友が奉職して居る次第でもない。
 超然と出世間(しゅせけん)的に利害損得の汗を流し去った心持ちになれる。」

 謝霊運(しゅれいうん)は、陶淵明とはことなって、おしもおされもせぬ名門の出身であった。
 会稽(かいけい=漸江省)に壮大な別荘をいとなむだけの経済的なゆとりにもめぐまれていた。
 かれは書画をよくし、仏教や老荘思想にもあかるい第一級の文化人であった。
 しかし、その野心にもかかわらず、一生を通じて政界に意をうることはなく、あげくのはてには謀叛の嫌疑(けんぎ)をうけて、いのちをおとしたのである。
 かれの「始寧(しねい)の墅(しもやしき)を過(と)う」と題する詩の、
 「白き雲は幽(おぐら)き石を抱(いだ)き、緑(みどり)の篠(ささ)は青き漣(なぎさ)に媚(こ)ぶ」。
 とうたわれる一句は、自然風景をよんだ詩句のうちの絶唱とされている。
 このように絵画的で、きめこまかい手法は、もちろんすばらしい。
 そのうえかれの詩は、そのエピゴーネンたちが、ひたすら耽美(たんび)の方向にのみむかったのとはちがって、哲学にささえられているために、いっそうすばらしいのである。
 朧霊運は、山水自然のなかにわが身を沈潜させることによって、生のよろこびをみいだした。
 美しい山水自然をもとめて、今日の登山家も顔まけするほどに深山幽谷をあるきまわった。
 そのために、ひとつの足駄(あしだ)をくふうし、けわしい山をのぼるときには前歯をとり、くだるときには後歯をとりはずしたという。
 かれにとって山水は、人間の精神をたのしませ、浄化し、人間を宇宙の実在そのものとひとつにならせてくれる存在であった。
 陶淵明の田園詩にうたいこまれる自然の風物が、なおなまなましい人間のにおいを感じさせるのに対して、謝霊運の場合は、人間までもが、山水と同じく大自然の調和のもとにある存在としてうたわれる。
 『荘子(そうじ)』には、山水自然のなかの自由な生活に対する賛美が、しばしば語られている。
 そして謝霊運の別荘がおかれた会稽は、すばらしい形勝の地であった。
 六朝人をとりまく美しい江南の山水と、かれらが心からほれこんだ荘子の思想を背景として、謝霊運の山水詩はうまれたのであった。
 ここで、当時の散文について簡単にふれるなら、四六文(しろくぶん)とか駢儷文(べんれいぶん)とかよばれる美文が、散文の主流であった。
 詔勅(しょうちょく)、書翰、論文など、おおむねがこの文体で書かれた。
 一句が四字ないしは六字からなりたつために四六文の名があり、また対句によって文章を構成するために駢儷文の名がある。
 駢(べん)とは、ならんで馳(は)せゆく二匹の馬、儷(れい)とは男女のつれあいのことである。
 このように、それは視覚的に形式がととのえられているだけではない。
 さらに聴覚的にも美文であらねばならない。つまり、文章が音楽的リズムをもつのである。
 中国語はがんらい一語が一音節(シラブル)であるうえに、一語一語に固有の声 調が存在している。
 声調(ピッチアクセント)は四声(しせい)、すなわち平声(ひょうしょう)、上声(じょうしょう)、去声(きょしょう)、入声(にっしょう)の四つに分類される。
 そして上去入(じょうきょにゅう)の三声をあわせて仄声(そくせい)とよび、平声と対応される。
 中国語に声調の存在することは、もちろん早くからうすうす気づかれていたにちがいない。
 しかし、それが意識にのぼり、四声というかたちに整理されるのは、斉(せい)・梁(りょう)のころ(五~六世紀)であった。
 そのころ、四声とはなんぞや、と天子からたずねられた学者が、「天子聖哲」と当意即妙にこたえた話がったわってぃる。
 「天子聖哲」を中国語で発音すれば、平上去入の順序になるのである。
 この自覚された声調が文章に適用され、平声と仄声とが一定の規律でならべられるにいたって、四六文は美文としていっそう完成したのであった。
 梁の昭明(しょうめい)太子が編んだ『文選(もんぜん)』は、おもに六朝の詩と美文の散文を中心とする詞華集(アンソロジー)である。
 『枕草子』に、「書(ふみ)は文集(もんじゅう)、文選(もんぜん)……」とかたられているとおり、この「文選」は、わが国、平安朝人の愛読書でもあった。

プロテスタントとイギリス(聖公会) 異教会のこと:3 

2019-08-01 00:07:14 | プロテスタント
フランツ・フィンゲル神父「異教会のこと」『汝磐なり』山形天主公教会、1926年

3、プロテスタントとイギリス(聖公会)

 プロテスタント起源の時代には、以前ドイツと同じくカトリック信者であった英国のアングロサクソン民族は、ドイツ民族が約半分しかプロテスタントに属しなかったのに反して、後日ほとんど全部プロテスタントの天下になりました。

 プロテスタントというのは、カトリックと同じように教理と組織との方面において一致を堅く守る宗教上の団体という意味ではありません。特に現代のプロテスタントは、むしろ何百宗派に分かれて来ているのであります。この不一致こそは、この宗派が、キリストの教えたもうた教えから離れてきたこと明らかな証拠であります。

 イギリスがカトリックから分離して異教の国になったのは、主にルーテル時代の国王ヘンリー8世の結婚問題、もっとはっきり言えば、離婚問題の結果でありました。プロテスタントがドイツでだんだん出来始めたときに、ヘンリー8世は、まず、大いに反対し、ルーテルの運動に対抗し、カトリックを擁護するために特別の書物を著すほどの熱心を見せましたが、しばらくたつと彼は、不幸にして肉欲のワナにかかり、すでに5人の子どもを産んだ妻との結婚が無効であるよう、また、他の婦人と結婚してもよいという宣言を教皇から得ようと。大いに努力するようになったのであります。

 教皇は大変困りましたが、国王といえども他の婦人と結婚することは、明らかに婚姻の神聖を保護する神の定めとカトリックの教理に背きますから、教皇も許可を与えることはできませんでした。ヘンリー8世は、つまり、自らの情欲に克つことができないで、むしろ、自らカトリック教会から分離したのみでなく、恐ろしい暴力を加えて、その国民の良心の自由に大いに干渉して、国民をカトリック教会から分離させたので、当時イギリスは英雄的な殉教者をたくさん出しました。当時の首相トーマス・モア(注釈:カトリック教会で列聖済みの聖人)でさえも、ヘンリー8世の迫害を受けて立派に殉教しました。

 最初はただの「分離の教会」であったイギリスのキリスト教は、ヘンリー8世の息子の時代に、本当の「異教会」になりましたが、イギリスでは、近年再びカトリック教会に改宗する運動が割合に進んで、少なくとも個人としてカトリックに改宗するイギリス人の数は、ますます多くなってきています。



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聖アルフォンソ・リゴリオ司教教会博士  St. Alphonsus Maria de Ligorio D. E.

2019-08-01 00:05:13 | 聖人伝
聖アルフォンソ・リゴリオ司教教会博士  St. Alphonsus Maria de Ligorio D. E. 記念日 8月 1日


 1730年より1790年に至るころおい、司祭として令名の高かった人にリゴリオの聖アルフォンソがある。この人は1696年9月29日、イタリアはナポリ市の近傍、マリアネラに呱々の声を挙げた。両親は高貴の家柄であったが、財産から言えば中流階級に属していた。アルフォンソはその7人の子供の総領であった。その誕生後間もなくのことである。イエズス会の聖人のような一司祭が彼の母の許へ来て、この子は90歳までは必ず長生きして司教となり、天主の為に大事を為し遂げるであろうと預言したが、これは後に一々適中した。
 アルフォンソは天主の御加護の下に母の敬虔な教育を受け、幼少の頃から御聖体の秘蹟と聖母マリアに対し、勝れた信心を示した。それと共に学業の進歩も至って早く、中学卒業後は法律を専攻し、法学博士の称号をかち得たのはまだ若年の時であった。
 彼はそれから将来国政に参与するつもりで、種々経験を積む為に弁護士を開業した。生来親切で人ざわりのいい彼はすこぶる好評を得、大いに世人の信望を博したが、一方宗教も決して忘れるようなことはなかった。彼は毎日ミサ聖祭にあずかり、貧民を救い、病人を見舞った。されば彼は至るところで尊敬を受け、その前途は洋々として春の海の如くであった。彼の父は身に余る幸福を感じ、一日も早く彼に嫁を迎えたいと思った。しかしアルフォンソはそれを承知しなかった。さりとてまた父の考えを無下に斥けもしなかった。
 その頃天主は彼の上に一つの試練を送り給うた。ある日彼は重大な訴訟事件を引き受けたが、彼の見込みでは自分の担当した側に歴々たる勝算があった。ところが彼が重要な備忘書類を見落としたばかりに、思いもかけず一敗地にまみれてしまった。アルフォンソはそれを深く心に恥じ裁判所の門を出るや否や、我が家に馳せ帰り、二日間というもの部屋に閉じこもり、食事も取らず泣き続けた。母親は息子の身を心配し、いろいろと慰め嘆願したので、ようよう彼も再び出て来たが、その心は全く一変していた。彼はもう弁護士を廃業し、今後は信仰の道にのみ精進するつもりである旨を言明したのである。
 かくてある日不治の病に悩む人々の療養所を訪問したアルフォンソは、突然地震のような強い振動を二度我が身に感じ、同時に厳かな声が「世を捨てて我に仕えよ!」というのを明らかに聞いた。
 彼はその言葉に従って即座に修道院に入ることを思い立った。父はもとより頻りに反対し、辛うじてその決心の実行を他日に譲るよう説得し得たけれど、叙品の準備をしたいという彼の熱望は容れぬ訳にはゆかなかった。彼はその為熱心に研究し、祈り、苦行を行った。そして暇な時には子供達を集めて公教要理を教えた。
 アルフォンソがいよいよ品級の秘蹟を受けたのは1726年のことであった。彼の篤信はつとに世人の知る所となり、彼の御ミサにあずかり、彼の説教を聴き、彼に告白する為に四方から集い来る者は夥しい数に上った。彼が愛をこめて諄々と説く言葉には、誰一人逆らうことが出来なかった。
 彼はある司祭会に入会して至る所に黙想会を開いた。一日フォッジャで黙想会を行った時のことである。アルフォンソが力の限りを尽くして人々の指導をしていると、その報いか一つの奇蹟が起こった。即ち彼が聖母の御像の前で祈祷を献げている最中、突然それが生あるものの如く彼に向かって微笑みかけたのである。そういう事は彼の生涯になお幾度もあった。
 彼にはまた天主の御摂理によって他の一大使命が与えられた。一人の修道女がある時示現を見たが、それは幾多の司祭がアルフォンソを真ん中に囲んで、黙想会、殊に学問のあまりない単純な人々の為にそれを行っている光景であった。彼女はそれを彼に打ち明けた。しかし彼は躊躇せざるを得なかった。なぜなら十分調査もして見ずに他人の幻を信ずるなどは、あまりに愚かな事と思われたからである。
 ところがやがては学者や名望家からも彼に新修道会を創立せよとの要望の叫びが挙がり始めた。ここに於いて流石の彼もそれが天主の思し召しであることを確信せぬ訳に行かなくなった。彼は、涙を流して引き留める父に、悲しい別れを告げ、親戚朋友と袂を分って数人の同志と共に淋しい所に行った。そして彼等はそこで厳格な生活を送り将来の活動の準備をした。
 しかし試練もまたない訳ではなかった。彼等の間には間もなく会の目的や活動の範囲やその方法などに就いて種々な意見が対立した。その結果アルフォンソを野心があるとか我が儘だとか悪口する者もあれば、彼の事業そのものを痴人の夢と嘲笑非難する者もあった。
 さあれ、アルフォンソはやはり聖人となるほどの人物だけあった。彼は耐え忍び、へりくだり、自分を損なおうとする人々に愛を以て対し、ただ天主と聖母に満腔の信頼を献げた。とはいえこうした試練は彼の一生を通じて見られ、彼に対する衆人の尊敬を増す因となったのであった。
 彼は新修道会の院長を次々と三つまで設置するに成功した。けれども悲しいかなその二つは、迫害の為間もなく閉鎖の運命に立ち至った。もっとも後にはまた幾つかの新修道会が設けられたが。
 現今ではこの修道会は方々の国に進出し、その会員は今日もなお熱心に黙想会の指導に働いている。そして創立者に倣い説教、文書、教授等により伝道に努めている。実際アルフォンソ自身も倦まずたゆまず教えを説き、数多の修養書を著し、深遠な神学書を書いたものであった。彼が聖会博士の称号を得たのも主としてその効に依ってである。
 聖人は高齢に達してから更に一大試練を蒙らねばならなかった。彼はまず聖アガタ聖堂の司教に、次いで修身総会長に任ぜられたが、これは自ら望まずにも拘わらず、教皇の特別の厳命でやむなく引き受けたものであった。それはさておき彼が自分の修道会に対し教皇の認可を得たのは1749年のことであった。けれどもナポリ王国政府の認可はいつまで経っても下らなかった。ようよう1779年になって宿望達成の見込みのついた時、あいにく彼は重病にたおれたので、一切を他人に委任した。ところがその人は僭越にも容易に認可を得る為、勝手に会則を変更した。これは極めて重大な事と言わねばならぬ。しかしアルフォンソがそれを知った時にはもう手遅れであった。政府はその改変された会則に対して認可を与えたのである。
 聖なる創立者は苦しんだ。が、その苦しみは会の一部がその新会則を奉じて脱退分離するに至って更に深刻となった。教皇はナポリ王国内の修道院にいる修士をことごとく除名した。その中にはアルフォンソ自身も加わっていたのである。
 彼は断腸の思いであった。けれども謙遜にその言葉に服した、黙々と心に深い悲しみを抑えながら。彼の懊悩、心労はその他にも数限りなくあった。その上また病魔は1787年彼が永眠するまで、絶え間もなくその肉身を苦しめたのであった。
 アルフォンソが帰天したのは8月1日お告げの鐘の鳴り渡る頃であった、訃報一度伝わるや、たちまち大勢の人々が押し掛けて来て、その遺骸を見、且つそれに触れん事を望んだ。
 その後在天の彼の霊により、奇蹟もしばしば起こった。その為彼に対する崇敬は益々盛んになるばかりであった。先に脱退した彼の弟子達は、彼の没後4年にして再び帰参し、聖会に認可された元の会則に依り修道に励むこととなった。そしてこの度はナポリ国王もそれに認可を与えたのである。かくてアルフォンソは1816年福者に1839年聖人に挙げられたのであった。

教訓

 イエズス・キリストでさえその公生活中幾多の反対、迫害をお受けになった。されば主の御あとに従う者も皆それを甘んじて忍ばねばならぬ。これは一見善を妨げる事のようであるが、実は聖アルフォンソの生涯に見る如く善を促進する所以なのである。十字架によりて光へ!



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